1-5 約束

トムじいの頭はざくろのようにぱっくり割れ、ピンク色の脳みそがのぞいていた。流れる血が溝の間をはいずりまわっている。

 トムじいを運んできた連中は、アルの指示に従ってトムじいをベッドに横たわらせた。みな、トムじいがあの世にいくのは時間の問題だとわかっていた。彼らは胸で十字を切り、部屋を後にした。

 部屋にはアルとトムじいだけとなった。

 アルは一脚きりの椅子をトムじいの枕元へと持っていった。椅子に腰かけるなり、アルはかすかに動くトムじいの褐色の胸に右手をそっと置いた。

「トムじい」

 意識の有無を確かめるように名前を呼びかけてみる。トムじいの返事はなかったが、血のこびりついた白髪頭がかすかに動いた。

「これが地獄の門だ。トムじいにも見えているな」

 仰臥するトムじいの目玉が下を向いたかと思うと、トムじいはそのまま両目を固く閉じてしまった。

 ベッドの下にはぽっかりと穴が開いている。ちょうどベッドと枕元にある椅子をそっくり飲み込めるほどの大きさだ。底は非常に深いらしく、暗い穴だ。まるで黒いカーペットをしいたように見えるその穴の表面に、トムじいの寝ているベッドとアルの座る椅子が浮いているような状態だ。

 キイキイキイと甲高い喚き声が穴の底から立ち上がって来ていた。悲鳴と同時に、鼻のもげるような嫌な臭いもたちあがってくる。血と肉のこげる臭い、腐臭……。

 ベッドと椅子を表面に乗せた地獄の門の表面が、悲鳴の共鳴を受けてさざめきだした。平たんに見えた表面に波紋が広がり始める。ふとした拍子に波紋の一部が跳ね上がり、波紋がうねり始める。高さを増していくうねりはやがて波となる。コールタールのような波は重々しい動きながら立ち上がっては吸い込まれるを繰り返しつつ、触手のようにして確実にトムじいの体を狙っていた。

「残念だが、トムじいはもう助からない。それは自分でもわかっているな。トムじいは死んだら地獄行きだ。さっきから、気分の悪い音が聞こえているだろう? あれは地獄に堕ちたものたちが苛まれてあげている悲鳴だ。地獄に堕ちれば、永遠に苦しみ続けることになる。地獄に堕ちたくはないだろう?」

「嫌だ……」

 息も絶え絶えにトムじいが呟いた。

「いつだか、死んだらトムじいを天国へ送ってやるって約束しただろう。ひどく酔っぱらって、俺は地獄へ堕ちる、って叫んで暴れ回った時のことだ。覚えているか?」

 トムじいはかすかにうなずいてみせた。

「僕は罪喰いだ。罪喰いっていうのは、人の罪を喰う。喰うからにはその罪は僕が犯したものとみなされる。僕に罪を喰われた人間は、イノセントな人間として天国へ行くことができるんだ。まだだ、トムじい、しっかりしろ。僕が罪喰いの儀式を終えるまでは生きていろ。でないと地獄へ堕ちるぞ。いいか、トムじい。これからその罪喰いの儀式ってのをやる。体が辛いだろうが、犯した罪を告白してくれ。ひとつ注意してもらいたい。嘘はつくな。嘘をつけば、儀式は成功しない」

 アルの右手のひらの下の皮膚がぐんと盛り上がった。そこは心臓のある場所だった。皮膚をつきやぶって外に飛び出そうという勢いで心臓が飛び跳ねているのだ。心臓の異常な動きに呼応するかのように、止まっていたトムじいの頭からの出血が再びひどくなった。流れる血を口に受けながら、トムじいは語り始めた。

「あれは彼女カトリーナが町を襲った直後だ。わしは家がどうなったかを見に行ったんだ。そりゃひどいものだったよ。何もなかったんだ。どこをみても、家なんかありゃしねえ。みんな、がらくたの山になっちまった。爆撃でもされたかとおもったね。実際、あれは戦争だった。生き抜くための。

 みんな必死だったんだ。生きるためには何だってしたさ。物も盗んだ。死んだやつには洋服はもう必要ないだろうから、服もはぎとった。そこらにあるもので金目になりそうなものはとにかく何でもかき集めた。

 助けなんか、期待してなかったさ。そりゃ、いつかは誰かが助けてくれただろうさ。でも、そのいつかがいつだか、わかんねえ。明日かもしれないし、一週間後かもしれない。一日ならしのげるが、一週間、どうやって生き抜いたらいいってんだ? 一週間ならいいが、一か月、一年待ち続ける可能性だってあった。実際、L9区の連中で住む場所のない奴はいるんだ。あれからもう何年も経っているのにだ。

 死にたくなかったら生きるしかねえ。何が何でも生き延びるんだ。

 ――死が足元に迫っていたから、興奮していたんだと思う。

 わしは、ある女を犯した。

 彼女も、自分の住んでいた場所がどうなったか、見にきたのだろう。若い女だった。頭の隅っこじゃ、いけないことだってわかっていたさ。でもどうにも抑えられなかった。狂っていたんだな。わしだけじゃねえ。あの時分、誰もが正気を失っていた。生きたいという欲望が他の生を踏みにじったんだ。

 やがて傷ついた町が日常を取り戻していくにつれて、わしは自分の犯した罪が異常だってことに気づいた。わしが犯した女の傷は一生消えねえ。そう思うとわしの心が痛んだのさ。傷を癒していくニューオリンズとは反対に、わしの傷は膿んで腐ったようなにおいがしはじめた。

 わしは現実とむきあうのをさけるように、酒を飲み始めた。酒を飲んでいるとふわふわした気分で気持ちよかったからな。それでも、ぬけない棘のように罪悪感だけが残って、理性をちくちく刺しやがるんだ。まいったねえ」

 トムじいはレイプと掠奪を告白した。

「かんべんしてくんねえかな……」

 最後に、トムじいは自分が犯した女にむかって言うかのようにつぶやいた。

 誰がトムじいの罪を赦せる? 裁判にかければトムじいは有罪だ。犯された女はトムじいを赦さないだろう。赦すことができるのは神だけだ。

 アルの右手が次第に熱くなっていった。内側からいためつけられた皮膚がいまにも破れそうなほどに薄くなって熱源の心臓を近くに感じるせいだ。そろそろかと少し手をはなしたところで、みはからったようにトムじいの心臓が皮膚をくいやぶって飛び出してきた。拳大の心臓はいまだに脈打ち続けている。すさまじい臭気がたちまち部屋に充満した。心臓を覆う黒い粘着質の物質が放っているもので、トムじいの胸の上に垂れるとその部分が瞬時に焼けただれ、肉のこげるにおいが鼻をついた。

 アルは心臓をつかんだかとおもうと、その手を口元にもっていき、一気に喰らいついた。アルの歯がひきつる心臓の肉をかみちぎるたび、腐臭がひろがった。トムじいの罪の臭いだ。アルはトムじいの罪を喰らってその身にトムじいの罪業を引き込んだ。

 断末魔の叫び声をあげ、地獄の門が一瞬にして閉じていった。

 トムじいの息は絶えていた。苦しみは去り、穏やかな死に顔だ。

 トムじいの両手を取り、アルは胸の上で組み合わせてやった。その胸の皮膚は裂けてなどいない。

 さてはすべて夢だったかと思うほど、静謐な空間だ。

 アルは、ドアの外に待たせていた葬儀屋を呼び入れ、トムじいの遺体を引き渡した。

 葬儀屋が出て行くなり、アルは血が生々しく残るベッドに倒れこんだ。

 トムじいの罪を喰った直後から、アルは激痛に襲われていた。罪人の罪を赦せない被害者の怨念が激しい痛みとなって罪を引き受けたアルの体を苛む。

 罪喰いの後には激しい痛みとの闘いが待っている。罪の内容と被害者の怨念の強さによって、痛みの度合いは異なる。悪いことに、その痛みは決して去らない。

 初めのうちは我慢し続けた。そのうちにアルは痛みの存在に慣れてしまった。痛い状態が当たり前になった。罪喰いを重ねるうちに、痛みに痛みを重ね続け、我慢できないほどになってからは薬に頼るようになった。痛み止め、モルヒネなどを使って、ようやく日常生活を差し支えなく送れるようになった。とはいえ、痛みを感じていないわけではなく、まあ我慢できる程度まで神経を麻痺させているという状態にしているだけの話だ。

 そのうち痛み止めなんて軟なものでは効き目がなくなり、アルはドラッグに手を出した。アヘン、コカイン、ヘロイン……。罪喰いで得た金はすべてドラッグに消えた。罪悪感から酒に手を出し、酒代に金を費やしたトムじいと似たり寄ったりだ。

 血まみれのシーツの上でのたうちまわりながら、アルはベッドサイドテーブルをさぐった。あまりの痛みに遠のいていこうとする意識を必死に引き止めながら、引き出しを開ける。中からヘロインのアンプルと注射器を取り出す。

 引き出しの奥まで手を入れたせいでバランスを崩し、床に転がり落ちた。アンプルと注射器だけはきつく握りしめて衝撃から守った。

 力の入らない指先にむかって罵りながら、どうにか注射器にヘロインを吸い込ませる。注射器を震える指先で軽く叩いて空気を抜く。一連の動作はすっかり身についてしまっている。

 血まみれになって重くなった袖をもどかしい思いでくりあげるなり、アルは無我夢中の体(てい)で、注射器を肘の内側に突き立てた。

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