1―4 男と女
「ひどいわね」
店に足を踏み入れるなり、エヴァは小さく叫んだ。椅子は店中に散り、床に寝転がっているものもある。ひっくりかえった椅子の合間にはグラスの破片が散らばっている。
「昨夜入れたバンドの連中の仕業。サックスとドラムが酔っぱらってケンカを始めてしまって。あの様子だと、ドラムは今夜は無理だと思う。腕をやられたようだったから」
「あら、困ったわね。今夜のライブはどうしよう」
エヴァは真っ赤なミニのワンピースから伸びる形のいい右足を心もち前に投げ出し、腕を組んで思案した。
他のバーの例に漏れず、「天国」でもジャズの生演奏を行うバンドを入れる。二、三十人も入ればいっぱいの店内に、バンドを入れると客の入る余地はあまりない。それでもエヴァは構わないと毎晩のようにバンドを入れる。
エヴァはストリップの仕事で稼いだ金でバーを買った。二十五の時だ。アル同様、ニューオリンズに流れてきた口で、この町でジャズの魅力にはまり、そのまま居ついてしまったのだという。ニューオリンズに流れてきた時、彼女は十八になったばかりだった。若い内に散々働き続け、ストリップは三十過ぎて務まる仕事ではないとさっさと見切りをつけ、バーを買った。エヴァがオーナーとして店を開いたその日にふらりと立ち寄った客がアルだった。という話を、アルは寝物語に聞いた。
エヴァはヒスパニック系の肉感的な女だ。売りだった豊満な胸とヒップを強調するようなワンピースを好んで身につける。形のいい脚が見えるようにとワンピースの裾は膝上が基本だ。
酒を飲みながら自分の好きな音楽を生演奏で聞きたいという目的でバーを買ったので、儲けは二の次である。アルが時たま金もとらずに常連客に酒を出すのには目をつぶったが、バンドの質にはうるさく口を出した。昨晩入れたバンドは彼女の御眼鏡にかなうバンドだったのだ。
「トムじいに頼んでみるってのは?」
「そうねえ……」
エヴァは浮かない顔である。
「前は出てもらっていただろ? 今でこそ飲んだくれだけど、たまに町でサックスを吹いているのを聴くと、唸らせられる。今夜だけでも、どう?」
「その、飲んだくれっていうのが問題なの。なにしろ、お酒が入っちゃうと、ライヴの始まる時間だとか約束事がすっかり抜けちゃって、信用ならないのよ」
「報酬は酒ってことで、釣れるんじゃないか」
「……考えておくけど」
エヴァがしなをつくってアルをみやった。目元がほんのりと赤い。
アルはガラスの破片を掃いていたほうきをバーのカウンターに預け、二階へとあがっていった。その後ろを、エヴァが髪に手をやりながら着いていった。
*
「若いわね」
エヴァの指先がアルの汗ばんだ胸を撫でていた。アルは胸の中にいるエヴァの丸い肩を撫でまわしていた。出会った時のような張りはもうない。てのひらをはじき返すようだった勢いだったエヴァの体はいまはしっとりとして重く手の内にこぼれ落ちてくる。
エヴァはいつまでも若いアルの体をうらやましがるが、脂の乗ったエヴァの体にも若い女とは違ったそれなりの魅力がある。三十五までは、若い女とは違う魅力が、なんてことを口にしようものなら枕を投げつけられたものだが、四十近くになってからは、エヴァはアルの称賛を心待ちにしているようだった。
「私も、若いうちに呪われておくんだった」
「整形のことを言ってるの?」
冗談めかしてそういうと、軽く胸をはたかれた。
神に断罪された結果として永遠に生き続けているという事実をアルはエヴァには告げていない。言ったところで信じてもらえるわけがない。二十年近くも一緒にいて、いつまでも年を取らないアルを、エヴァや周囲はいぶかった。仕方なしに、エヴァにはアンチエイジングの整形を受けたと嘘をつき、他の連中には呪われているんだと冗談めかして話した。ブードゥーの浸透している土地柄とあって、呪われた体だと真実を述べたら逆に信じてもらえたというわけだ。
「整形もある意味、呪いだろ」
「そうだけど」
「したければ、今からでもすればいいさ」
「うん……」
甘ったるい声を出し、エヴァはアルの脇の下にもぐりこんだ。鼻息が乳首にかかり、くすぐったい。
「ずっとこういう関係でもいいかなって思ってたの。お互いに気が向いた時に寝るだけって、後腐れがなくて。結婚とか面倒なことは私も嫌だし」
アルの懸念を察したように、エヴァが先手を打って「結婚」を否定してみせた。
誰かと結婚など、アルは考えたこともなければ望んだこともない。初めて愛した女はすでに結婚していて望むべくもなかったのだし、そもそも結婚したいと思って関係を持ったわけでもなかった。
罪喰いとなってからは、普通の生活など得られるはずがないと考えることすら放棄した。女とはいきずりの関係しか持たないか、付き合ったとしても長くは続かなかった。将来を口にしないアルに見切りをつけ、女の方から離れていくからだった。
生の限りある人間との将来をどうして考えられる? 女たちの責めるような視線を受け止めながら、アルは彼女たちを手放す他はなかった。
エヴァとの関係も潮時なのだろうか。「天国」での生活は、その名の通り、天国だったのにとアルは天井を見上げて小さくため息をもらした。
「結婚は望んでいないわ。でも、どうしても欲しいものがあるの。子供……アルとの子」
全身に悪寒が走り、アルは思わず身震いした。
「私はもう若くはないわ。子供が欲しいと思ったら、まだ余裕があるうちに行動しなきゃならない。欲しいか欲しくないかをじっくり考えて、欲しいという結論に達したの。それなら、今から動かないと」
「それはエヴァの望みだね」
「そうよ。私が勝手に欲しがっているだけ。アルが子供はいらないといっても構わない。子供は私の子、私だけが望んでいるんだから」
「欲しくないって言っているわけじゃないんだ……」
エヴァを傷つけまいとアルは言葉を濁した。ならば欲しいのかとアルは自問した。答えは出なかった。生きているか死んでいるのか定かでない身で子供を持つなどとあまりにグロテスクだ。考えるだけでも胸糞悪くなる。
「子供は諦めて欲しい」と言おうとしたその時だった。
階下でけたたましい物音がした。床に倒れた椅子が蹴散らされ、ガラスの破片が砕ける音がする。何かがものすごい勢いでバーを走り抜けている。
アルはベッドの上に起き上がった。目線をドアにやる。ドアに鍵はついていない。バーにさえ侵入できれば、二階にあるアルの部屋まで一直線だ。そして、侵入者はドアのすぐ外にまでせまっていた。
ドンッドンッドンッ
外れそうな勢いでドアが揺れ動いた。
怯えるエヴァを背後に押しのけ、アルは身構えた。
「アルっ!」
自分の名前を呼ぶ悲鳴声を聞きつけ、アルは急いで身支度をし、ドアを開けてやった。
つむじ風のようにして部屋の中に転がり込んできたものの正体は、ウィルという名の少年だった。
ウィルは走ってきた勢い余ってサイドテーブルに突進し、椅子とからみあって床に倒れ込んでしまった。抱き起してやると、ウィルのTシャツは血で汚れ、褐色の顔にも手にも血のりが飛び散っている。
「怪我しているのか」
アルの問いに、ウィルは唇をわななかせながら首を横に振ってみせた。
「僕の血じゃない」と言ったなり、ウィルは歯をカタカタ言わせるだけで先が続かなかった。
「どうしたの、何があったの?」
いつの間にかに着替えを済ませたエヴァが、水の入ったグラスをウィルに差し出した。アルに手で支えてもらいながら、ウィルは両手でグラスを受け取り、一気にあおった。
息はまだ荒いながらも、ウィルはようやくと落ち着きを取り戻しつつあった。濡れた口元を手の甲でぬぐうと、血の味がしたのか、ウィルは軽くえづいた。
アルに背中をさすられながら、ウィルは「トムじいが俺らの目の前で車に撥ねられた」と言った。
ウィルは仲間たちとブラスバンドを組んでストリートで演奏している。下は五歳から上はウィルの兄のティムの十六歳まで、子供たちだけの編成だ。テクニックはまだまだだが、あと五年もストリートで演奏し続ければものになる。そう思わせるだけの何かのあるバンドだった。彼らは毎日昼過ぎから夕方にかけて、観光客相手に小銭を稼いでいる。
「僕ら、いつもと同じようにストリートで演奏していたんだ。客もそれなりにいてさ。トムじいは僕らがいたストリートのむかいを歩いていた。僕らをみかけたんだと思う。こっちに来ようとしてストリートを横切ろうとしたところで、走ってきた車に撥ねられたんだ。すごいスピードが出ていたんだと思う。トムじいの体がふわって宙に跳ね上がってさ。スローモーションを見てるみたいだって思ったら、次は早送りでトムじいの体が地面に叩きつけられたんだ……。トムじいを撥ねた車? 黒のセダン……車種まではわかんないや。そのまま逃げていっちゃった。この血はトムじいを抱き起した時についたんだと思う」
よほど恐ろしい光景だったのか、話して聞かせるウィルの唇は震えて、時々言葉につまった。
「僕ら、救急車を呼ぼうとしたんだ。そしたら、トムじいが『そんなのいいから、アルを呼んでこい』って言うんだ。アルなら、アルだけがトムじいを救えるって、言うんだ。アル、はやく、きてくれよう」
ウィルはアルの袖を必死に引いた。
ウィルに急かされながらも、アルは動かなかった。
トムじいがアルを呼ぶからには、覚悟が出来ているのだろう。
死の覚悟が。
アルはかつてトムじいに罪喰いの話をしたことがあった。冗談まじりに、どんな極悪人でも自分が罪を引き受けたら天国行きになるという話をしたのだ。トムじいは、自分はとんでもない悪人だから、死ぬ時にはぜひとも罪を喰ってくれとアルに頼んだ。笑っていたので、まともには受け取っていないのだろうと思っていたら、トムじいは信じていたらしい。
「ウィル。みんなに言って、トムじいをこの部屋まで連れてきてくれないか」
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