第3話

 全て、いい思い出に変わるのだろうか。

 悲しいことも、辛いことも、乗り越えて時が経てば、笑って話せるようになるのだろうか。

 そう思うと心が軽くなるから勝手に言っているのだろうか。僕はそうは思わなかった。

 悲しいこと、辛いこと、それは永遠に心に縛り付いてことあるごとに脳みそをかき混ぜてくるような、そんな気がした。


 井浦から英語のワークが返ってこない。

 まぁ井浦が借りたものを返さないことはよくあることだし、催促するときちんと返してくれるのはいいんだけど、

「あいつ、風邪引くのな」

「本当にね」

 教室の窓に雨が打ち付けられている。水滴となった雨粒は垂直な窓を滑り落ちた。

 井浦は熱を出したらしく、学校を休んでいた。昨日の夕方から雨は降っていたのに、傘をささずに帰ったのだろう。容易に想像できる。

 本人が学校に来ないなら催促することもできない。英語の授業は今日なのに。

 雨の湿気のせいか、なんとなくいつもよりどんよりとした教室は、井浦がいないだけでいつもより静かだった。

 井浦が学校を休んだのは初めてのことで、井浦が普段どれだけ賑やかな人間なのかということが分かった。

「井浦からさ、英語のワーク返ってきた?」

 望月が僕にそう尋ねた。僕は首を振った。

「大丈夫なのか?それ」

「大丈夫じゃないと思う」

 英語の先生は、割と課題提出にめんどくさい人だと聞いた。井浦は何度も怒られていて、そろそろ懲りてやっと課題をしようと思ったらしい。あの井浦が、だ。

「あーあ。俺も井浦の後に見せてもらおうと思ったのに」

「自分でやりなよ」

 望月は頭がいい。要領がいい、というのだろうか。やろうと思えばなんでもそつなくこなす。やる気のスイッチを入れるのが遅いだけだ。

「そうするしかねぇなぁ…」

 めんどくせ、と呟いて、望月は自分の机に向かった。

 僕はしばらくの間窓に打ち付けられる雨粒を見つめていたけど、それに飽きて、昨日図書室で借りた本を鞄から取り出した。

「あ、そうだ」

 図書室の本を見て思い出した。バレンタインの先輩の話を。

「どした?」

 あまり自分から口を開かない僕の声に、望月が振り向いた。

「麦野叶」

「ん?」

「バレンタインの時の先輩の名前」

「お前、いつ会ったの?」

「昨日、昼休み暇だったから図書室行ったんだ。そこで」

「麦野先輩ってお前、女バスのキャプテンじゃねぇか」

「………そうなの?」

 スポーツをしてそうには見えなかったけど。

「そうだよ。三年生が引退した後、満場一致でキャプテンに選ばれたんだと」

「上手いの?バスケ」

「相当」

 バスケをする上で、髪はまぁいいとしても、耳の穴は大丈夫なのだろうか。校則違反していたら試合に出してもらえないとか野球部のクラスメイトは言っていた。バスケ部は適応されないのか。上手ければ許されるのか。

「麦野先輩がお前に恋………ねぇ」

 何か言いたそうな視線を僕に向けてくる。

「いいから課題やりなよ」

「………へいへい」

 望月は素直に前を向いた。


 英語の授業が始まった。

「じゃぁワークを後ろから前に送れー」

 気だるそうな先生の声がして、教室が少しがやつく。

「先生」

 僕は目立ちたくないけど、しぶしぶ挙手をして席を立った。

「井浦にワーク貸して返ってきてません」

「おー、机漁れ」

 いいのか、それ。

「いや、ありかよ」

 望月もほぼ同じ感想を抱いたらしい。

 まぁ、井浦の場合は「机の中から勝手に取ってって」とかいうタイプの人間だからいいとして、僕が貸してる相手が井浦じゃなかったらどうするつもりだったんだろうか。

 とりあえず言われた通り井浦の机の中を探す。

「うわ………」

 想像通り、井浦の机の中はぐちゃぐちゃだった。

 全教科の教科書とノート、いつもらったのか分からないプリント、……筆箱?さすがに持って帰れよ。

 しばらくガサゴソしていると、ようやく僕のワークが出てきた。

「小型廃墟だな、あれ」

「四次元だよ中身」

 望月と同時にため息をついた。

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夢でも、君に逢いたい。 藤代 一姫 @mmm_1528

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