第1話

 小学3年生の時の話だ。


 我が家は毎年夏休みに田舎の母方の祖父母の家に1週間ほど泊まりに行くのが恒例だった。

 その年も毎年の如く車で何時間もかけて周りには田んぼと畑しかない、セミが合唱している田舎へとやってきた。

 大人たちは「空気が美味しい」だの「ゆったりしてていい」だの言っていたけど、子供の僕からしたら何もなくて7日間暇でしかなかった。それに、夜はセミとウシガエルがうるさいし、寝てられない。こんなところ、空気が美味しいとは到底思えなかった。


 祖父母の家に来て5日ほど経った夜、暑くてうるさくて寝苦しくて、僕は黙って家を抜け出した。少しだけ外の風にあたるつもりだった。もし僕がいないことに気付いたら大変な騒ぎになることは、小学生の頭にも分かっていたから。

 庭に出ると、家の中にいるよりは涼しかった。相変わらず虫の声はうるさいけど。

 夏特有の生暖かい風が、僕の男子にしては長い髪の毛をさらっていったので、僕は目を細めてそれに身を任せていた。

 その時だった。

「————」

 僕の名前を呼ぶ声がした。

 ……どこ?……だれ?

 僕は無意識のうちに声のした方向へと足を向けていた。

 この辺りは街灯も少なく、夜になると車通りもほぼない。文字通り真っ暗だ。けれど、そんなこと気にしてられなかった。気付けば走り出していた。

 家の近くの林に入った。もう来た道も分からなくなっていた。僕の名前を呼ぶ声だけを頼りに無我夢中で駆ける。

 しばらく走って、心臓が痛くなってきた時、開けた場所へ出た。

「………うわぁ」

 思わず感嘆の声が漏れた。

 そこはほぼ崖だったが、崖の下には川が流れており、無数の蛍が飛んでいた。この世とかけ離れたような幻想的な風景だった。

「こんばんは。——くん」

 蛍に見惚れていると、左から僕を呼んでいた声が聞こえてきた。

 見ると、同い年くらいの女の子が立っていた。

 白いワンピースに麦わら帽子。腰まで届きそうなストンと落ちた黒髪。

 不思議と驚くことはなかった。むしろ腑に落ちた。僕を呼んでいたのはこの子だったのかと。

「蛍、見たのはじめて?」

 川の方を指さして尋ねられた。僕は黙って頷く。写真では何度か見たことがあったけど、本物を見るのは初めてだった。

 目を輝かせて景色に見入る僕を見て、女の子はふんわりと微笑んだ。まるで同い年には見えない表情だった。

「そろそろ帰った方がいいよ」

 どれくらい時間が経ったのか分からない。黙って蛍を見つめていた僕に、女の子はおもむろに言った。

「……君は?」

 僕がそう尋ねたのは、この子ももちろん僕と同じように家を抜け出してきたものだと思ったからだ。

 しかし、女の子は首を振った。

「わたしはいいの」

 なにがいいのか分からなかったが、僕は頷いておいた。

「それと、今日のことは誰にも秘密ね」

 女の子が人差し指を唇にあてて言った。

 もちろんそのつもりだった。親に言ってしまえば夜に家を抜け出したことがバレてしまう。

 僕がもう一度頷くと、女の子も、またふんわりと笑って僕に手を振った。

「あしたも来てね」

 そんな言葉を残して。


 気が付くと、僕は布団の中にいた。外ではスズメが鳴いていた。

 身体を起こしてキョロキョロとあたりを見回す。見覚えのある祖父母の家だった。

 昨日、あそこからどうやって帰ってきたのか覚えていない。部屋の時計を見ると7時前だった。もうすぐ母が起こしに来る。父は隣でいびきをかいていた。


 昨日のあの子は誰だったのか、どこの子なのか。何も分からなかった。あんな時間にあんな場所にいるくらいだから、この辺りの子だとは思うけど、祖父はこの辺りに子どもはいないと言う。だったら僕と同じように夏休みだけ遊びに来ている子の可能性も考えたが、大人たちにどう尋ねていいか分からなかったし、田舎の狭いコミュニティならそんな話はすぐに入ってきそうだ。昨日、近所のおばさんがみんなで食べてと肉じゃがを持ってきたのは、僕たち3人が泊まりに来ると聞いていたからだろうし。

 そんなこんなで、あの子のことをいくら考えても何も答えは見つからなかった。あとは、本人に聞くしかない。


 前の日とほぼ同じ時間に僕は家を抜け出した。昨日の場所への道は正直覚えていなかったが、足が勝手に動いた。

「こんばんは。——くん」

 やっぱり先に来ていた女の子は、僕の姿を瞳に映すなり昨日と同じようにそう言った。

「こんばんは」

 今日は、僕もあいさつを返した。

「今日は昨日より涼しいね」

 女の子はそう言ったけど、僕はそうかなと思った。昨日も今日もたいして変わらない気がした。

 首を捻る僕を見て、女の子はクスッと笑った。

「昨日より涼しいよ」

「………そっか」

 そう言うなら、そうなんだろう。僕は女の子の言うことを信じることにした。

 それから特に会話をするでもなく、ただ黙って蛍の光を見つめていた。

 そこで、僕はあることを思い出した。

「ねぇ」

 女の子の方をしっかりと見て、声を出す。

 女の子もこちらを見返して首を傾げた。

 その瞬間、頭が真っ白になった。

 聞きたいことはたくさんある。名前は?どこに住んでるの?どうしてここにいるの?

 けれど、女の子の大人っぽい微笑みを前にすると言葉が出ない。僕はまだまだ子供なんだなと自学する。

「君は……だれ?」

 ようやく絞り出したいまいち要領を得ない質問に、女の子は答えなかった。黙ってただ微笑むだけ。

「今日は、もう帰った方がいいよ」

 答えの代わりにそんな言葉を寄越した。

 僕は馬鹿正直に帰ろうとした。もう少し食い下がってもよかったのに。もしかしたら、どれだけ彼女のことを尋ねても答えてくれることはないと直感で思ったのかもしれない。

「——くん」

 帰ろうと一歩踏み出した瞬間、呼び止められた。

「また、会えるよ」

 まるで、明日の昼に帰ることを知っているような口ぶりだった。

 明日も来てね、ではなく、また会えるよ、だ。

「待っててね」

「………うん」

 僕は、よく意味も分からずに頷いた。


 そして、気が付くとまた布団の中にいた。

 身体を起こすと、この日は父も起きて荷作りをしていた。

 昨日、どうやって帰ったのか、やっぱり分からない。

 祖父母の家で朝ごはんを食べ、すぐに家を出た。


 それから、その年に祖父母が二人とも亡くなり、夏休みに田舎へ泊まりに行くことはなくなった。

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