新入生と宝探し⑧

 がたん。

 聞き覚えのある声に驚いて後ろにのけぞった拍子に、そのまま椅子ごと倒れこむ浮遊感。

 お店の天井が見えたあたりで諦めて、くるであろう背中への衝撃に備えてギュッと目を瞑る。

 舌を噛まないように口を閉じて息を止める。そういえばこういう時は頭を打たないように手を頭の後ろで組んでいればいいんだっけ。

 ・・・というか、いつまで経っても浮遊感が続いていて、全然衝撃が来ないんだけど。

「あはは。ごめんね。そんなにおどろくと思わなくて」

 ゆっくり目を開けると、笑顔を浮かべたあの男の子が、カウンターの中にいるのが見えた。

 カウンターと同じくらいの背丈の男の子の顔が、はっきりと見えている。

「え、これって」

 身体が宙に浮いている。

 視界もかなり高い。

 浮遊感とかそういう次元の話じゃない。

 身体のどこにも、何かが触れていないなんて。

「ああああああああ」

 今まで聞いたことのないような高い声が耳の一番近くで鳴り響いた。

 というか、自分の声だった。

「ああああああああ」

 足をジタバタと動かしても地面につかない。空気を切る虚しい感触に怖気が走る。

「うおおお友坂先輩がご乱心だあああ」

 自分の身体の下の方から甲斐くんの声が聞こえる恐ろしさったら。

「ああああああああ」

 喉がバカみたいにザラザラする。

「と、とりあえず落ち着いて」

「くにおみんの方が声、震えてるっスよ」

 自分の下で軽快なトークが始まりそうなのも不安を加速させる。

「ほら、友坂落ち着けって」

 見えないところから左肩をポンと叩かれて、思いっきり身体が跳ねた。

 それを自覚して、つま先から頭の先までぎゅぅっと抓られるようなビリビリした感触が走る。

 さっき絶対、まな板の上の生魚みたいになった。

 恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい。

 穴があったら入りたいっていうのは、こういうことだ。

「今のは完全に鼓くんが悪いね。あまつちゃん可哀想じゃん」

「鼓パイセン、さっさと謝った方がいいっスよ」

「悪かったな、友坂」

「うううううううう」

 素直に謝られても、恥ずかしさが上塗りされるだけなんだけど。

 でも恥ずかしさのおかげで、幾分か恐怖も和らいできた。

「そろそろおちついた?下ろしても大丈夫?」

 困った笑顔を浮かべた男の子にも、何だか申し訳ない。酷い態度を取ってしまった。元はと言えば、背中から倒れそうになったところを、助けようとしてくれたんだろうし。

 いや、何でそれで身体が宙に、しかもわりと天井スレスレの位置で浮いているのかは、全くもってわからないのだけど。

 ゆっくりと身体が下の方に降りていくのが目線の高さでわかる。右肩の辺りを鼓くんが持って支えてくれると、足が地面にゆっくりと着地した。

「ありがとう、鼓くん」

「これでさっきのはナシに」

「ならないでしょ」

 先に鈴之瀬さんが答えていた。

 こちらとしては、さっきのことは掘り返して欲しくないというか、忘れてくれたらそれだけで十分なんだけど。

「そんなことより、今のは何だったんですか?」

「えーっと、超能力的な?」

 男の子に向き直ると、小首を傾げてそう言われた。

「今みたいにして、本棚も動かしたんだよ」

「俺にもやってよ、みょーせーくん」

 男の子はくすくすと笑っているし、甲斐くんは目を爛々と輝かせている。

そんな進んでやりたいと思うようなことでもなかったと思うんだけど。というか有り体に言って物凄く怖かったんだけど。普通に日常を過ごしていたら、体がどこにも触れていない状態になんてまず遭遇しないから。

それはひとまず置いといて。

こんな非現実的なことができるんだったら、あの本棚の件はそれだけで納得できる。

たった一人で、何の物音も立てずに、本棚を中身ごと軽々持ち上げることができるなら。

そんな常識から逸脱したことが可能なら、あの星のマークにはタネも仕掛けもトリックもない。文字通り完全な不可能犯罪になる。

「いいよー、じゃあ次は甲斐くんねー」

 間延びした声で答える男の子に、隣の小西くんがおずおずと手を挙げた。

「じゃあ俺も」

「明星くんってばモテモテだね」

 テーブル席から茶化すように鈴之瀬さんが声を掛けるけど、当の男の子は「照れるなー」とさらっと返事をする。そういうところを見ると、何だか男の子が自分よりもずっと大人っぽく見えるから不思議。

 後輩二人が楽しそうなところに挟まれるのも申し訳ない。カップを片手にテーブル席の近くに移動すると、鈴之瀬さんが私を見ながら自分の隣の席をポンポンと軽く叩いて笑顔を向けてくれる。つまり、隣に座れば、というお誘いみたい。

「お邪魔してごめんなさい」

「いいのいいの。お子ちゃま男子組は放っておいて、大人な組はアダルティにお茶でも楽しもうよ」

 アダルティにお茶を楽しむって、目新しい言葉だと思うんだけど。具体的にはどういう楽しみ方をするんだろうか。

「大人組にアタシがいないなんて、おかしな話よね」

 マスターがカウンターから出て、どっこらしょーという掛け声をあげながら鼓くんの隣に腰掛ける。マグカップ持参な辺り居座る気が満々なのが伺えて、少し可愛らしく思えてしまった。鼓くんが心底嫌そうな顔をしているのが、とても気になるけど。

「そういえば、マスターと皆さんはとても仲良しみたいですけど、どういうご関係なんですか?」

「どういうご関係って言われてもね。私はこの子たちの部長と少し顔見知りなだけよ。で、そのよしみで部室代わりになる場所を提供してあげてるってだーけ」

 にこっと笑うマスター。

「もちろん、他のお客がいる時はとっとと帰ってもらうんだけどね」

「そんな時あったか?」

「あーら鼓ちゃん、何か言った?」

「何にも」

 鼓くんとも相当仲が良いみたい。

「あの男の子はこの倶楽部と何の関係があるんですか?誰かのご兄弟とか?」

 男の子と後輩二人を見ながら尋ねる。

というか少し目を離した間に、甲斐くんと小西くんが空中でコサックダンスを踊っているんだけど。どうしてわざわざ宙に浮いてまでコサックダンス?ここは器用だと感心するべきなのか、陽気だなぁと暖かく見守るべきなのか。

「もしかしてアイツらってバカなんだろうか」

「バカだね」

「バカだわ」

 スリーアウトだった。

「まぁバカは放っておいて。明星はね、ここの常連の孫で、ウチで預かってる子なの」

 マスターはそう言いながら、二人の下で見様見真似でコサックダンスを踊る男の子を見る。その目はとても優しいような気がした。

「それに、逸話蒐集倶楽部の正式な部員なんだよ」

 鈴之瀬さんの言葉に思わず彼女を振り返る。笑顔は浮かべているけれど、人を揶揄っている感じではなさそう。

「でも、まだ小学生くらいですよね」

「見た目はね」

 にこっと笑うその顔は、笑顔じゃない。

背筋がひやりと震えた。

「だって只の小学生は、あんなことできないよね」

 それはもちろんだけど。

 でも見た目は、笑顔の可愛らしい男の子だ。怖いとも思わないし、男の子からは何だかあったか雰囲気も感じる。不思議な言動やすこし儚い印象もあるけど、だからってそれが悪いものや害を与えるような嫌な物ではないと思う。

「さっき男の子は超能力って言ってたけど」

「超能力っていうと、オカルトっていうよりSFみたいだよね。すこしふしぎって意味ではニュアンスは合ってるのかな?」

 オカルトもサイエンスフィクションも、普段あまり読まないジャンルだから、鈴之瀬さんのふわりと布をかけたような言葉はあんまり上手く飲み込めない。

「ねぇねぇ、あまつちゃんは狐憑きって知ってる?」

 鈴之瀬さんはニッと目を細める。

「狐、ですか」

「そう。明星くんはね、狐に憑かれたところで時間を止めてしまった人間の子供、なんだよ」

 やっぱり意味がわからい。

「人間に一番遠い人間っていうのが、より正確かもしれないねぇ」

 そう締めくくった鈴之瀬さんは、それ以上何か言ってくれるつもりはないみたいで、ティーカップの中身を優雅に飲み始めてしまった。

 狐憑き。聞き馴染みがないし、響きもあまり楽しげじゃない。

 日本の怖い話とか、そういうのかな。ホラーもあまり嗜んでないから、今度図書館で一度調べてみた方が良いのかもしれない。

 でも、そんな怖いような存在には全然見えないんだけどな。

 それに人間から一番遠い人間っていうのは、つまりどういう状態なんだろう。

 人間なのに、人間から遠い。

 時を止められた子供。

 どの言葉も抽象的ってことしかわからない。

「ややこしい事情は、ちゃんと理解しなくていいと思うぞ。部長代理の俺も、あいつに関してはわからないことの方が多いしな」

 鼓くんがそう言ってくれるけど、それはそれで謎が増える一方だ。気味が悪いとは思わないけれど、後味の悪さはある。

「あの子は、この倶楽部で一番身近な逸話ってことだよ」

 鈴之瀬さんが空になったティーカップをお皿に戻す。

「そして大事なのは、世にも珍しい、生きている逸話って事なんだよ」

 生きている、逸話。

「生きる伝説、みたいな感じなんでしょうか」

 そう言うと、鈴之瀬さんがふはっと吹き出した。

「なにそれー!逸話のこと、そんなドキュメンタリーみたいな言い方しちゃうの?もうそれ人間国宝じゃん」

 マジウケるんですけどー、と言いながらお腹を抱えて笑う鈴之瀬さんの様子を見ると、見当違い頓珍漢なことを言ってしまったらしい。

「生きる伝説というより、生きる伝承だろう」

「そうだね、まだその方がシックリくるよ」

 うくくっと喉の奥でまだ笑いを噛みしめている鈴之瀬さんが、鼓くんのフォローにブンブンと首を縦に振っている。

 伝説と伝承で、そんなに意味って違ったっけ。

 これは自室に帰ってから、辞書を引いてみた方が良いみたい。

「まぁまぁまぁ。今のところあまつちゃんは、明星くんは只の人間じゃないってことと、アタシと一緒に暮らしているってことだけ覚えててくれたらいいのよ」

 マスターからパチンとウィンクされて、喉がグッと鳴った。


図書館ではできなかった分の自習を自室で終わらせて、グゥゥッと背骨を伸ばす。

 通学鞄を机の上に引っ張り上げて、その中に課題をしまう。ついでに時間割表に目を通しながら明日の支度を済ませちゃおう。

そういえば明日は六限目がロングホームルームだっけ。確かその時間に、もうすぐに迫った遠足の班決めをするんだった。豊山学園は進学校というだけあって、学校のスケジュールやカリキュラムがとてもお勉強向きだけど、楽しい学園行儀も勿論ある。その一つ遠足は、新しいクラスメイトと仲良くなるためか、それともそれ以降の時間をなるべくお勉強に充てるためなのかわからないけど、二年生、三年生は四月の頭にサクッと済ませてしまうことになっている。一年生は四月の大半がオリエンテーションだから、五月なんだっけ。

 クラスメイトとあまり仲良くなっていないから、ちょっと気が重くなる。

 ああでも、今年は知っている人がクラスメイトなんだ。

 鈴之瀬さん。すこし不思議なピンクの髪の女の子。鈴之瀬さんには友人が沢山いると思うけど、もし一緒の班になれたら、それはとても嬉しい。

 そうだ、今日のことを早く日記に書こう。

 準備の整った鞄を机から下ろして、正面に並べられたノートの中から、クリーム色の表紙の少し分厚いノートを手に取った。黄色っぽい紙に薄い青色で四角形が並ぶA5サイズの方眼ノートが、最近の気に入り。授業では使えないので、日記を書いたり、何かをメモするのに使っている。このノートを開くと、何だか自分が少し大人になったみたいに感じるんだから不思議だ。

それにしても、今日はとても濃い一日だった。

 男の子、明星くんと出会って。

後輩の男の子二人と昨日ぶりに再会して。

そして一緒に宝探しをして。

同級生二人、それからとても素敵なマスターとみんなでお茶をして。

不思議な倶楽部に勧誘されて・・・その勧誘は結局保留にしてもらったんだけど。

そして逸話、そう、逸話という存在に出会った。

だからみんなの前で変な魚みたいな反応をしてしまったわけで。

あぁ、忘れたいことまで思い出しちゃった。

溜息を吐いたところで、スマートフォンがぶるりと震えた。そういえばあの後、マスターや同級生二人とも連絡先を交換したんだった。もしかして、あの倶楽部の誰かからメッセージが来たのかな。

普段は調べ物をする時くらいしか触らないスマートフォンの画面を、いそいそと確認する。やっぱり誰かからメッセージが入っている通知だった。慌てて中を確認すると、相手の名前はヒカリちゃんだった。

「ヒカリちゃん、ヒカリちゃん」

 メッセージは元同級生たち全員宛だ。内容は、久しぶりにみんなで集まろうよってことらしい。

 スマートフォンを机に置いて、ベッドの下に収納しているカラーボックスを引っ張り出す。その中から、中学時代の写真が貼りつくされたクラフトボードを取り出した。写真の中の顔を指でなぞって、ヒカリちゃんを探す。

 いた。

中学三年生の時の修学旅行と書かれた写真。

ボブカットの可愛い女の子。誕生日は九月八日、まだ先だ。

中学の時の友人とはあまり連絡を取らないようにしてるけど、こうやって誘ってもらった時は何か返信をしておいた方が良い。

進学先が一人別地方だから、という理由でお断りの文章を作成して送信した。それからスマートフォンを機内モードに設定して、充電器に刺す。夜はスマートフォンでラジオを掛けながら寝るのが日課になんだけど、それまでに少しでも充電できてたら良いな。

もう一度机の上にあるノートに向き合う。

今日のことをなんて書こうかな。

こんなに日記を書くのが楽しくなったのは、もしかしたら高校に入学して初めてのことかもしれなかった。

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