第七十二話 ノルンの飲酒

 前に一度酒を飲まされたことがあった。


 あの時はなにかしてしまったらしいが教えてもらえず、俺に記憶がないままというある意味最も不安な状況だった。


 そんなことがあり、本日。


 またリビングで酒を飲まされようとしている。だが、今回は俺が飲むのではない。


「……」


 俺の隣で落ち着きのない様子を見せているノルンが、酒を飲むことになっている。


 リリィは俺が酔ったところを見たいと言っていたのだが、記憶が残らないと聞くやつまらなさそうにしていた。……お前は俺になにをさせようとしてたんだ。

 殺されかねないので遠慮しておき、申し訳ないが矛先をノルンに向けさせてもらった。リリィはまだここに来たばかりで酔っ払った時になにされるかわからないということもあり、もう少し置くことにさせてもらった。


 というわけで。


 ワイングラスを目の前に置かれたノルンが、絶賛困っているという状況だ。


「あの、本当によろしいのですか?」


 ノルンはなぜか俺に対して尋ねてくる。どうなるのかは聞いていないが、迷惑をかけるかもとは言っていた。


「まぁどうなってもなんとかするさ」

「ノルンが酔ったらどうなるか楽しみだし、早く飲んで」


 若干一名、面白がっているが。


「……大丈夫。急に吐かれない限りは」


 迷惑=吐瀉物だったらかけられると非常に困る。貰って二次被害起こす可能性まである。そうだとしたら遠慮したいところだが。


「だ、大丈夫です。吐くことはないので」


 なら良かった。


「でもその、主様には本当にご迷惑をおかけすることになると思いますが……」

「……そこは別に、気にしないから」

「そうですか」


 俺がそう言っても逡巡している様子を見せている。どうやらノルンは自分が酔うとどうなるかを理解しているようだ。

 一切覚えていない俺とは違う。ただ覚えているからこそ、酔った時の自分を見せたくないかもしれない。


「……ただ、無理にとは言わないから」


 なんなら予定を変更してリリィに飲ませてもいい。暴れ回っても師匠の隣なので対処できるだろう。


「いえ、飲みます」


 ノルンは言って、グラスを手に取った。そしてそのまま、ワインを煽る。ごくごくと一気に飲み干した。……豪快な飲みっぷりだ。ワインってそういう飲み方をするイメージないんだが。


 隣にいる俺が二杯目を注ぐ。


「いい飲みっぷりだけど、強いのかい?」

「いえ、強くはありません。主様ほど極端に弱いわけでもありませんが……」


 酔いが回った後が本番ということだろう。

 その後はペースを落としてゆっくり話しながら飲み進めていった。


 徐々に酔いが回っていき、赤ら顔になって少しずつ喋りが崩れていっているようだ。ただ俺が三杯で終わったそうだから、十杯目に差しかかっていることを考えると弱いわけではないのかもしれない。


 が、かなり酔っ払ってきているようで呂律が怪しくなってきていた。身体まで赤いし、そろそろノルンが懸念していた頃合いだろうか。リリィはワクワクした顔でノルンのことを眺めている。俺はどうなることやらとハラハラしていたが。


 ふとノルンと目が合った。じっと見てきてどうかしたのかと思ったが、急にと笑う。あまりの変わりようにきょとんとしてしまったほどだ。


「あるじさまぁ」


 ノルンはその緩んだ表情のまま、俺のことを読んでくる。少し舌足らずで、甘えたような声音だ。こんな声聞いたことない。


「……ノルン?」


 不安に思って声をかけてみる。


「はい、あるじさまの忠実なしもべ、ノルンですよ?」


 僕と忍者は少し違うのでは。これも翻訳の都合なのだろうか。

 答えてくれたはいいが、フラフラしてしまっていて危なっかしい。大きく揺れて倒れるかと思ったので、つい肩辺りを掴む形で支えてしまう。がくんと首が揺れた。相当酔っていることがわかる。


 と思っていたら、がばっと抱き着いてきた。思い切り密着する形だ。酔っているせいかいつもより高い体温が感じられる。


「あるじさまぁ」

「……ちょっ、ノルン離れて」

「やです」


 ノルンは火照った頬をくっつけてきた。……これ、どう対処すればいいんだ?

 俺は師匠とリリィの方を見たが、二人も驚いている。リリィは俺が困っているのを見て面白そうに笑っていたが。笑ってないで助けて欲しい。

 と思っていたら手で顔の向きを変えられる。


「ダメですよ、あるじさま」


 ノルンは俺の顔を固定させてじっと見つめてきた。なにがダメなのかよくわからないが反応を待つように見ていたら表情を緩めてまた抱き着いてきた。……一体なんなんだ。師匠が酒に強いので、酔っ払ってる人のあしらい方とか知らないんだが。


 助けを求めようと師匠の方を向こうとしたが、ノルンに手で押さえられてしまい向けない。目を合わせてきた彼女は目を細めて不満を表している。


「あるじさま、ダメですってば。今は私だけ見てください」


 そんなこと言われても。

 とりあえず、埒が明かないので師匠に助けを請うのは諦めることにした。……絶対今二人がにやにやしている。


「んふふ」


 上機嫌に笑い出したので間違ってはいなかったようだ。ノルンは更に身を乗り出してくる。元々抱き着く体勢だったのが、俺の上に乗っかって抱き着く体勢に変えられた。俺はと言えば、酔っ払っているのに大胆なことをするモノだからフラついて倒れないか心配で動けなかった。いや、動けたとしても今のノルン相手だと面倒なことになりそうだが。


 ただ、正面を向いて座っているところに抱える形になったので、対面の師匠が見えた。案の定二人共にやにやして見ている。俺は不満を訴え助けを請う目を向けた。


「まぁ、偶にはこういう日もいいんじゃないかい? ノルンの好きにしてあげな」


 師匠は俺が割と本気で困っているからか、そう言った。……要するに抵抗するなと。まぁノルンは俺と違って酔った時のことを覚えているようだから、一度目にこうなったら二度目はなくなりそうだが。彼女の立場に立ってみると後で恥ずかしくなりそうだ。

 ノルンが酒を飲みたがらなかったのも、そこに理由があるのかもしれない。ということは、こうなることはある程度予想がついていたのだろうか。だとしたら悪いことをした。彼女の黒歴史を一つ増やす手伝いをしてしまったようなモノだ。


「そうですよ、あるじさま」


 ノルンが便乗しつつにこにこと笑っている。……酔っ払っているとはいえ上機嫌そうだからいいのかな。


 仕方なく、俺は脱力して背凭れに身体を預けた。変なところを触らないように、手はテーブルの淵を掴んでいた。ノルンがぎゅっと抱き着いてきて、頬をくっつけてくる。酔っているにしても随分と大胆だ。

 酒は嫌なことがあった時に飲むこともあるそうだが、別に嫌なことができるわけではないだろう。酒を飲むと理性が緩くなる、飛ぶとも聞いたことはあるが。まさかノルンが普段からこうしていたいと思っているわけでもあるまい。


 酔っている時の様子を「~~上戸」と言うそうだが、言うなれば甘え上戸ということだろうか。人に甘えたがるようになってしまうのかもしれない。もしかしたら、一番近くにいる人にそうなるのかもしれなかった。だから俺に迷惑をかけるだろうと念を押していたのか。納得。


「あむ」

「……っ!?」


 独りで考えて納得していたら、不意にノルンの顔がある方、左側の耳たぶが温かいモノに包まれた。というかこれは咥えられている。予想外の刺激に身体を跳ねさせてしまった。正面にいる二人から見られていたので恥ずかしい。


「……ちょっ」

「ふぁい」

「……擽ったいから喋らないで」

「なんれれふか?」


 擽ったいからって言ったよな。吐息はかかるしむずむずするしで相当によろしくない。美味しくないと思うのだがノルンは躊躇いなく食んでくる。あと結構耳たぶが小さいので大分耳本体にかかってきている。

 とか思っていたら口を放してくれた。飽きたのかと思ったが、舌が耳に入ってきた。……無心。無心で耐えるんだ。師匠とリリィの顔を見ていたくなくて、目を閉じじっとしてみる。なにも考えず、感じるモノを意識しない。


 いや、無理では。


 耳ってそんな普段から意識することないけど弱い人は弱い部分だと思う。そんなに弱くはないみたいだが、それでもぞくぞくはしてしまう。あと物凄く近くで舐める音が聞こえてくるのも追撃になっている。あまりよろしくはない。割りと本気で。


「……ノルン。そろそろ」

「やれす」


 しばらく耐えたのでもういいかと思ったらすげなく断られてしまった。


「んっ……はむ」


 ようやく放してくれたと思ったら、今度は首筋に嚙みついてきた。いや甘噛みだったが。少しも痛くはない。ただ唾液で濡れた耳が空気に触れて冷たく感じる。拭きたいが、ノルンが自由にさせてくれなさそうである。

 変わらずあむあむされたので俺はぼーっと対面の壁を眺めていたのだが、やめられたので我に返ると師匠とリリィが流石に心配そうな顔をしていた。虚空を眺めてぼーっとしていたので、死んだ目をしていると思われていそうだ。普段からそうなっていると言えなくもないが、完全に意識がトリップしていたので普段より良くなさそうに見えていたのかもしれない。


 とりあえずノルンが飽きてくれたなら良かった。と思ったのだが、正面に来たノルンの顔はまだなにかしたそうだ。


「あるじさまぁ、ちゅーしてください」

「……え?」


 ノルンが目を閉じて唇を突き出してくる。……え?


「……いや、それは」


 流石にダメだろう。そういうことは好きな人とするべきだ。いやまぁ、これまでの行為もダメだが。最後の一線だけは守っておかないと。後悔することになる。多分、互いに。


「なんれれすか」


 ノルンが表情で不満を表してくる。


「なんれ、アネシアさまはよくて、私はダメなんれすか」


 ここで師匠の名前を出さないで欲しい。

 ノルンの後ろでそっぽを向いた師匠が頬を掻き、リリィが師匠の方を向いて「え、そういう関係だったの?」という顔をしていた。そっちじゃなくてこっちを助けて欲しい。


「……それは、その」


 師匠が良くてノルンがダメな理由。あえて言うならそういう関係ではないから、だろうか。正直に言ってしまえば、師匠とノルンでは関係の深さが違うからだと思う。師匠とはおよそ三年もの間一緒に暮らしてきたわけで。そう考えるとノルンはたった数ヶ月しか一緒にいない。それにしてはかなり馴染んできていると思うのだが、それでも数ヶ月の付き合いでそこまでの関係にはなれていないと思う。……まぁ、三年以上前の元の世界では、高校に入学して一ヶ月経たない内に付き合い出したカップルがいたのだが。俺はその尺度にいないので関係ない。

 そもそも恋愛感情を未だによくわかっていないくらいだ。師匠とはその辺りを飛び越えた関係性にあるだけで。


「あるじさま。あるじさまはアネシアさまとずっと一緒にいますが、私とも同じ時間かけるおつもりですか?」


 むすっとした顔のノルンが聞いてくる。……いや、どれだけかかってもそういう関係になるとは限らないんじゃ。どちらかが望めば可能性はあるが、俺にとっては師匠という一人がいるだけで手いっぱいだ。そもそも二人以上とか望んだことも想ったこともない。一人とそういう関係になること自体、難しいことだというのに。


「狡いです」


 そう言われましても。

 というか、ノルンの思い描く主君との関係性ってそういう感じなの? 完全に仕えるモノとしてのイメージだった。

 あと俺と師匠は一般に思い浮かべる関係とは違う気がするのだが。


「……えっと」


 なんとか言葉を探すが、上手く言えない。情けないことに、師匠とも「一生彼女と添い遂げるつもりだから」と言い切れるような関係、心持ちではない。師匠もそういう関係がいいと思っているわけではないため、ここですっぱり告げる材料はない。

 今後どうかと言われると怪しく、今だけを見て言葉にしてしまうのも違う気がする。


 優柔不断のヘタレと言われてしまえば、それだけの話ではあるが。


「もういいです」


 結局、ノルンは不満そうに言ってまた抱き着いてきた。心のどこかでほっとしている自分がいる。明確な答えを出さないようにして、だが。


「……でも」


 ノルンが耳元で小さく囁く。


「いつか、あるじさまの大切に入りますから」


 小さくも確かな宣言だった。どう受け取ればいいかわからない。

 ただ、酔っ払いの戯言として受け取るのは難しいくらいに本気が込められていることはわかった。


 小さい声だったが師匠には聞こえていただろう。明後日の方向を見て困惑する俺を見て笑っていた。見守る笑顔だったので気恥ずかしさ倍増だ。


 その後は比較的大人しくなったのだが、一緒に寝ると言って聞かず、しがみついたまま離れなかったので押し切られる形で一緒に寝ることになった。

 その時は終始上機嫌だったが、ともあれどうにか何事もなく眠りに着くことができたわけだが。


 朝起きたらノルンがいなくなっていた。俺の上に乗る恰好で寝ていたのだが、起きて冷静になって退避したのだろうとは思う。

 と思っていたら見つけた。


 俺の部屋の床で土下座するノルンを。


 それはそれは綺麗な土下座で、土下座の本場日本でも見ないくらいに綺麗な土下座だった。いや、俺は人が土下座しているところを見たことはなかったが。


「申し訳ございませんでした」


 ノルンは俺が起きて上体を起こし、彼女を発見したことをわかってか謝罪の言葉を口にした。

 どうやら酔った時のことを覚えているというのは本当のようだ。


「……えっと」

「如何なる処分も受け入れます」


 言葉に困っていると、ノルンは頭を上げないままに続けた。……別に処分とかする気はないんだけど。扱いには困ったが、嫌だったわけではない。そういうモノなら仕方ないかと思っている。

 まぁ次飲むなら師匠かリリィの隣にさせてやりたいとは思っているが。


「……別にそういうのはいいんだけど」

「しかし……その、主様に多大なご迷惑をおかけしました。なにか処罰がなければ、納得できません」


 ノルンは一向に頭を上げなかったが、顔を赤くしているのはわかった。どうやら昨日のことをきちんと覚えているらしい。新たな黒歴史の誕生を目撃してしまった。


 ただ処罰をと言われても罰する気にはなれない。俺が酔った時を覚えておらず、なにかあったのは間違いないのにお咎めがなかったことも踏まえて。


「……えっと、酔った時にああいう感じになるのはわかってたのに飲ませたわけだし、それでなにか処罰しようとは思わないから」


 そう言った。自分や師匠、リリィが言い出したわけだからノルンを罰するのは違うと思う。

 彼女はようやく顔を上げてくれた。顔が赤くなっているのはそのままで、表情が申し訳なさと照れや恥ずかしさが混じったモノになっている。


「主様、ありがとうございます。今後はその、お酒を飲まないようにしますので……」

「……あぁ、うん。ノルンも後で嫌になるだろうし、飲まない方がいいかもな」


 黒歴史を量産させる気はなかった。


「いえ、その……。なんでもありません。大変なご迷惑をおかけしました」


 なぜか気まずそうに目を逸らしていたが、これからは同じことが起きないと言うのなら問題はない。一度限りの、取り返しがつく程度の誤ちだったと思っておこう。


 そうしてようやく土下座をやめてくれたノルンと下の階に降りたわけだが。

 一階のリビングでにやにやしながらリリィが待っていた。


「ねぇ、ノルン? 昨日のこと覚えてるんでしょ? どうだった、シゲオくんのお・あ・じは?」


 とても楽しそうだ。


「……」


 楽しげなリリィとは裏腹に、ノルンから剣呑な空気が発せられた。


「昨日のことは言わないでください」

「えぇ? 覚えてるんでしょ? そんなの茶化さなきゃ嘘じゃん」

「いい加減にしてください。その口閉じさせますよ」

「へぇ? いいわよ、やれるものならやってみてよ」

「いいでしょう、表に出てください」


 なぜだかバトルに発展してしまった。


 家の敷地内で行われた忍者VS剣聖というドリームマッチが勃発する。


 俺と師匠はそんな激戦を眺めながら、優雅にモーニングティーを嗜むのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る