第七十六話 生きて帰る

夜出かける準備をしていた俺に、師匠が声をかけてきた。


 目を鋭く細めて、俺を責めるように見ている。いや、実際に責めているのだろう。なにも言わずに出かけようとした俺を。


 ……この様子だと、気配を捉えておいて消えたら【闇に溶けゆ】を使ったと部屋に入ってきたんだろうな。


 俺は師匠にそんな目を向けられながらも、冷静に思考できていた。


「……ただの私用です。自主練みたいなモノだと思ってください」

「いい加減なこと言うんじゃないよ。その荷物、暗殺装束まで持ち出して。……あんた、今回の依頼を一人で受ける気なのかい?」


 適当な理由ではすぐに否定されてしまう。師匠は尋ねてきたが少しだけ確信が持てないでいるようだ。俺がそうする理由が思いつかないのだろう。


 当然だ。わかるはずもない。


「……いえ。依頼は受ける気ないですよ。今日言ったことに嘘はありません」


 ただ、俺は既に告げた通り今回の暗殺依頼を受ける気はなかった。俺が受ける気も、師匠とノルンに受けさせる気も。


「じゃあどこへ行こうってんだい? 今日このタイミング、暗殺対象の異世界人のところ以外にない」


 師匠は言う。その推測は間違っていない。実際、俺の行き先はそこで合っている。


「……はい、そうですね」

「それなのに暗殺しに行くわけじゃない? あんたとはそれなりに長い付き合いだけど、今回だけはなに考えてるかわからないよ」


 師匠は少し悔しそうと言うか、悲しそうだった。これほど想ってくれる人がいることはとても幸せで嬉しいことだ。


 俺はどう言うべきか、少し悩んだ。師匠に見つかった時点で今日はもう無理だろう。少なくとも明日までは動けない。

 なら、俺がなにをしに行くのかは言ってしまってもいいかもしれない。それが一番引き止められそうなのだが。


「……その異世界人を殺しに行きたいんですよ」

「? それなら暗殺の依頼として受ければいいじゃないか」

「……いえ、依頼としては受ける気がありませんので」

「シゲオ。いつもならあんたの言葉くらい補足できるけど、今回は違うんだよ。もっと具体的に言っとくれ」


 師匠は若干苛立った様子で言ってくる。まるで会ったばかりの頃のようなやり取りだ。


 少しだけ、どう言葉にしようか考えてから答える。


「……はぐらかそうとしてるわけじゃないですよ。そのままの意味です。依頼は受けずに、殺します」

「はあ?」


 師匠が怪訝な顔をした。今回、俺は暗殺対象を殺す。ただし、暗殺ではなく戦闘による殺しを決行する予定だった。既に段取りは考えてある。


「あんた、まさかこの間の一件で戦いに自信をつけたんじゃないだろうね」

「……いえ、全く。勇者と相討ちになったほど強い相手じゃ負ける可能性の方が高いに決まってます」

「じゃあなんで……」

「……それでも、戦って殺すと決めたからです」


 今でも戦闘力に自信なんてない。強化はされているが、まともにやり合って勝てるとは思っていなかった。だが【闇に溶けゆ】があれば多少なりやりようが出てくる。


「なんでだい」

「……それは」


 言い淀む。そう決めたのは実に下らない理由だ。人に言うことではない。依頼で挑まない以上、言う義理もない。

 とはいえ言わずに行かせてくれるかというのもあるが。


「言えない、いや言いたくないってか。元の世界の知り合いってのが有力な線だけど」

「……友人と呼べるような人がいなかったのは事実ですよ」

「尚更わかんないだろ」


 師匠が顔を顰めた。


「……あたしらに言うつもりはないってことだね」

「……はい」

「はぁ」


 ため息を吐かれた。正直に肯定したのだから当然か。


「じゃあ聞くけど、あんた今日あたしに勝算がないならって言ったろ? これから行くつもりのあんたにはあるってのかい?」

「……はい、あります」


 俺が断言すると師匠はきょとんとしていた。


「……なんだって?」


 しかも聞き返してくる。それほどに意外だったのだろう。


「……勝算はあります。ただ、少なくとも知っている中では自分しか実行できないので、説明する必要はありません」


 突き放すようだが、俺にしかできない方法を使う。依頼なら伝えて連携するのがいいだろうが、今回依頼として向かうつもりは一切ない。だから、伝える気もない。


「そんなんであたしが説得できるとでも?」

「……説得する気がないので。俺が殺ると決めたので殺る。ただそれだけです」


 互いのスタンスは変わらない。

 師匠は話して欲しいようだが、俺は行くことに変わりがないので話す必要がないと思っている。


 独りで行って独りで殺すなら、わざわざ他者の理解を求める必要はないと思ってしまう。ぼっち生活が長かった弊害だろうか。

 特に今回は個人的な理由での殺しだ。


「暗殺者は依頼にない殺しをしない」

「……では暗殺者を辞めます」

「なっ……!?」


 意外とすんなり言葉に出来た。そうする覚悟はしていたが、いざ本当に言う時怖気づかないか不安だった。ここでの生活を捨てる覚悟を持てるかどうか。


「な、なに言ってるんだい!」

「……今回の殺しは依頼ではなく個人で勝手に行うつもりです。元々、そうなっても仕方がないとは思ってました」

「っ……」


 師匠は驚きから悲しみへと表情を変える。


「……暗殺者を辞めて、相手を殺した後はどうやって生きていくつもりだい」


 それでも師匠は質問をやめない。

 ただし、その質問には答えられない。


「……特に、考えてないですね」


 だから俺は嘘を吐いた。すると、師匠の姿がブレて一瞬の内に胸ぐらを掴まれる。抵抗する間もなく地面に引き倒される。背中を強か打ちつけて肺から空気を一気に吐き出し、咽せた。


「あんた今、あたしの前で生きて戻らないって言ったのかい!?」


 俺を床に叩きつけた師匠は、胸ぐらを掴んだまま激昂していた。……その目には涙が浮かんでいる。


 師匠を悲しませるのは心苦しい。申し訳ない。これまでの恩を仇で返す行為だ。叩きつけられた背中は痛く、泣いている師匠を見ると胸が痛くなる。


 それでも、俺は師匠から目を離さなかった。


「……」

「シゲオ……! なんで、なんで……! あんたは生きてくために暗殺者になったんだろう!? 痛いのは嫌だとか、苦しいのは嫌だとか、弱気だけど自分の命を大切にできるのがあんただったじゃないか! それなのに……どうして……!」


 師匠は俺のことが理解できずにぽろぽろと涙を零す。水滴が俺の頬に落ちてきた。


「……簡単なことですよ。例え死んでも殺す、そう思えたからです」

「あたしには、なんであんたがそこまで思ってるのかわからないよ……」


 当然だ。言っていない。それに、言ったところで理解はできないだろう。自分だからこうまで思えたのであり、共感はされないと思っている。


「……言っても理解できないと思いますよ。実に下らない、些細な理由ですから」

「じゃあ言ってくれてもいいじゃないか」

「……いえ、言いません」


 ここまで来ても俺は、師匠に寄り添わない。師匠は力なく、俺の胸に顔を埋めた。


「……シゲオなら、あたしとずっと一緒にいてくれると思ってたのに」


 アネシアの弱々しい一言が突き刺さる。見ていられないほど取り乱している彼女をどうにかしてやりたい気持ちはあるが、残念ながら優先事項が変わってしまった。


 そこで、がちゃりと部屋の扉が開く。ノルンとリリィが顔を覗かせた。


「主様、これは一体……?」

「大きな物音がしたと思ったら、どういうことなの?」


 二人は困惑している。外出する準備を整えた俺と、嗚咽を零す師匠がいるのだから。


 どう答えたモノかと思っていると、師匠が上体を起こした。


「……シゲオが、独りで今回の暗殺対象になってる人を殺しに行くって、しかも生きて帰ってくる気がないって言うから……」


 師匠は涙を拭いながら二人に言った。大分端折ってはいるが、状況を表すにはぴったりだ。


「ど、どういうことですか?」

「意味わかんないんだけど」


 ノルンは困惑し、リリィは軽蔑した目で俺を見てくる。……できれば二人には知られたくなかった。師匠は自分よりも大人だからある程度気持ちの整理をつけられると踏んでいたのも甘かったが。


「……そのままの意味だよ。俺が行って、殺してくる」

「だから、それが意味わかんないんだって。なんでシゲオくんが行く必要あるの?」

「……俺が殺したいから」

「はあ?」


 リリィは不機嫌そうだ。最初に会った時の刺々しさが出ている。


「なんでよ」

「……個人的な理由だし、言う気はない」

「そんなのアネシアさんじゃなくても止めるに決まってるじゃない。納得できないわ」

「……納得してもらおうとは思ってない。今回は依頼と関係なく、俺が私情を挟んで個人的に殺すだけだ」

「なにそれ。もしかしてタケルって人と知り合いだったとか?」

「……俺に友達と呼べるような人はいなかったよ」

「じゃあどうしてよ!」

「……言う気はない」


 俺の態度に、リリィはイライラしているようだった。師匠が退いたので立ち上がり、二人の方を向く。


「なら、手足を切り落としてでも止めるわ」

「……それは困る」

「でしょ? なら……」

「……手足がなくなると殺せる可能性が下がる」

「っ!」


 リリィは刀を抜き放って俺の喉元に突きつけた。


「どうしても独りで行くって言いたいのね?」

「……ああ」

「なんで? 私が行くとかじゃダメなの?」

「……リリィはダメだ」

「どうしてよ」

「……リリィは、今回の暗殺対象側の人間だから。リリィにだけは行かせられない」


 はっきりと告げた。リリィも今回の相手も、同じく異世界から来て酷い目に遭った。その二人が殺し合うのは阻止しなければならない。


「……そう」


 リリィも本気で言っていたわけじゃないと思うが、引き下がってくれた。


「で、生きて帰ってくる気がないってどういうこと?」


 と思ったが、まだだったようだ。ずっと黙って聞いているノルンのことも気がかりだが。


「……今回俺は、相手を殺すことを優先したいから。例え死んでも殺す、ってだけだよ」

「それ、最初から帰ってくるつもりないじゃない。死んでもいいと思ってるってことでしょ」


 リリィの目が冷たく突き刺さる。……否定はできない。死にたくないよりも殺したいが先行している。しかも自分の生死が関わっていないのに。らしくないことは自覚しているが。


「……まぁ、仕方がないとは思ってる」

「なによそれ! そんなの行かせるわけないじゃん! アネシアさんとノルンがどれだけ悲しむと思ってるの!?」


 自分を含めない辺りリリィらしい。


「……申し訳ないとは思ってるけど」

「仕方ないって? シゲオくんにとってここはそんな簡単に捨てていいモノだったの?」


 リリィはきちんと俺に刺さる言葉を選択してくる。彼女がここまでするのは、俺がと言うよりノルンのためだろう。


「……そうじゃない。けど、俺にとっては全てを懸けてでも殺らなきゃいけないことだから」

「それで周りの人が悲しんでもいいって?」

「……良くはないけど、結果的にはそうなる」

「じゃあなに? 生きるつもりがないから理由もなにも本音じゃ話さないで、いっそ愛想尽かされればいいとでも思ってるの?」

「……そうなっても仕方ないとは思ってる」


 リリィはかなりイライラしているようだ。顔に思い切り出ていた。


「なんなのもう! 今のシゲオくんと喋ってるとイライラする! 自分が悪いっていう自覚があるのに自分を押し通そうとするなんて、絶対らしくない。ノルンもなにか言ってやりなさいよ」


 リリィはなにを言っても無駄だと思ったのか、刀を納めてノルンにバトンタッチする。


 さて、ノルンがどんな反応をするかだが。


「……い、やです……っ」


 ノルンの方を見ると、ボロボロに泣いていた。顔をくしゃくしゃにして、見たこともないほど取り乱している。……これは予想外だ。


「ノルン……」


 振ったリリィもあまりの様子に言葉を失っていた。


「嫌、です。私は主様を失いたくありません……っ。行かないでください、私を置いて……いかないでください……っ」


 ノルンは止まらない涙を拭いながら嗚咽を零す。

 俺は戸惑ってしまい、つい師匠の方を見たくなってしまう。だが今の俺に彼女を頼る資格はない。


 どうしようか悩んでいる内にノルンが猛スピードで突っ込んで、俺に抱き着いてきた。


「嫌です、お願いします……行かないでください……っ」


 ノルンは俺の胸元に顔を埋めたまま懇願してくる。これでは俺にどれだけ行く気があっても行くことができない。ぎゅっと強く抱き締める腕からは絶対に放さないという意思を感じる。……まさかノルンがここまでの行動に出るとは思ってもみなかった。


「ノルンがこの様子なら、シゲオが勝手に出ていくようなことはなさそうだね。リリィ、あたしらはもう出るよ」

「はい」


 リリィはなにか言いたげな顔をしていたが、師匠に続いて部屋を出て行った。ぱたんと扉が閉まり、俺とノルンの二人が取り残される。


「……ノルン、離れてくれないか?」

「嫌です。離れたら主様は行ってしまうでしょう?」


 否定はできないが、追われる可能性を残して行って邪魔をされても困る。なので俺がやるべきことはノルンを宥めつつ、誰も追ってこないようにしてもらうこと。


「……行かないから」

「嘘です。主様は行ってしまわれます。私にはわかります、主様はもうここで暮らしていく気がありません」


 きっぱりと言われてしまった。確かに、そう言われてみると明日四人で楽しく穏やかに暮らすことさえ思い浮かばない。


「……ノルン」

「どうしてですか……? どうして、主様は独りで行こうとしているんですか……? 確実に殺害するだけなら、私やアネシア様に助力を願ってくだされば……」

「……今回の相手は、俺独りで行くことに意味があるから」

「タケルという方は、主様にとってそれほど大切な方なのですか?」

「……いや、違うよ」

「でしたら……」

「……それでも、俺が殺さないと」


 大切な人でも、知り合いでも、高校の同級生でもないが。


「主様は、どうしても独りで行かれると言うのですね」

「……ああ。それだけは、なにがあっても譲れない」


 例え泣きつかれても、リリィに手足を切り落とされても。自分がどうなろうが絶対に殺してみせる。


「……」


 ノルンが顔を上げた。まだくしゃくしゃにして泣き続けている。感情を抑えようとしている彼女がここまで取り乱していることに、申し訳なさはある。だが例え俺が死んでも、ノルンほどの実力があればいつか別の主に出会えると思う。無責任な話だが、こうなるということは、俺は主人として相応しくない人間だったというだけのことだ。


「……ではなぜ、生きて帰ってくる気がないのですか?」

「……それは、今回の殺しは暗殺者として実施しないから。暗殺者を辞めるくらいはする気で、暗殺者を辞めるならここにいられる理由はないんだから」

「いえ。アネシア様なら今回は主様個人の行いとしてやらせて欲しいと頼み込めば、了承してくださいます。主様にも理由があってそうするのであれば、止めはしないでしょう。ですが、今の主様は違います。今回の殺し以降、生きていくつもりがありません」


 ノルンは断言した。……俺に、生きる意思がないから止めるって言うのか。


「主様はここを捨てて挑むおつもりです。それがどうしても、私達には許せないのです」


 泣きながらも、強く俺を見つめてきた。

 彼女は今“私達”と言った。そこにはノルンは当然として、師匠が含まれる。リリィもおそらくは。


「……」


 なにも言えなかった。方針を変えるつもりはないが、生きて戻ってくることを前提にしろと言いたいのだろう。


「主様がどうしても独りで行くとおっしゃるのでしたら、私は止めません。ですので、せめて約束してください」


 涙は止まっていた。


「主様、生きてここに戻ってきてくださいますか?」


 ノルンが不安そうな瞳を向けて尋ねてくる。


「……ああ、生きて戻ってくるよ」


 答えを言葉にした。


「言葉だけですか?」


 ノルンは不満そうだ。どうやら口先だけだとバレてしまったらしい。


「生きて帰ってこられる可能性がない、失敗すれば命はない。というのはいつものことです。主様に生きて帰る意志があれば、私も大人しく見送ります」


 言われて、少し悩む。とりあえず言葉にしてみたが、それだけでは納得してくれない。口先だけの約束じゃなく、俺に生きて帰ってくるという意志が欲しいのだ。ただそれをどう示せばいいのか。


「主様。主様は……心のどこかで、自分の代わりはいると思っているのではありませんか?」


 言われて、少し驚く。心のどこかでと言うか、ついさっき考えていたことだ。


 答えられない俺を見て、ノルンは今にも泣き出しそうな顔をした。


「どうして……っ。アネシア様にとっても、リリィにとっても、そして私にとっても、主様はかけがえのない人です。どうしてそれを、わかってくれないのですか……っ」


 そんな顔をされると、なにも言えなくなってしまう。ただ、少なくともリリィは外してもいいと思ってしまう。こういうところだろうか。

 こういう考え方は俺の性分によるモノだ。俺は自分のことを出来損ないだと自覚している。部品で例えるなら粗悪品だ。だから、いくらでも替えが効く。どころかより良い替えがそこら中にある状態だ。


 かけがえのないだとかそんな風に思ってくれているのは嬉しい。だがそれは他を知らないからだ。探せばいくらでも、自分より良い人、良い出会いはある。

 だからそう悲観することはない、と思うのだが。……それは死ぬ側の理論なのかな。


 師匠やノルン、リリィのような人はもちろん別だ。師匠は世界屈指の暗殺者。ノルンは今やどれだけいるかわからない忍者。リリィは『剣聖』という才能を持つ異世界人でオタク。

 誰にも代わりの務まらない存在だ。


「私は他の誰かなど欲しくありません……っ。主様だからこそ仕えたい、一緒にいたいのです! この気持ちだけは、主様にも否定して欲しくはありません」


 ノルンは目に涙を滲ませてきっぱりと告げた。


 ここまで率直な感情をぶつけられると、たじろいでしまう。まるで、自分だけがここにいていいような錯覚に陥ってしまう。

 そんなことはあり得ないのに。自分はいなくても周りが困らない、なくてもいい存在のはずなのに。


「……主様。どうすれば、主様は生きて帰ってくる気になってくださいますか?」


 ノルンが問うてくる。……わからない。わかるはずもない。俺は自分の幸せを捨ててもいいと思ってしまっている。結果的に彼女達が傷つくとしても、時間やお互い、若しくは別の人が癒してくれると考えている。実際、俺が死ねばそうなるだろう。


「……」


 答えられない。考えがまとまらなかった。事前に決めた方針が覆されるからだろう。

 俺はどうしたって想定外の事態に弱い。言い換えると、師匠とリリィの反応はある程度予想していた。


「……わかりました。主様、私を抱いてください」

「…………え?」


 ノルンの言葉に耳を疑う。……今なんて?


「私を抱いて、キズモノにしてください」

「……ちょっと、待って。落ち着いて」

「落ち着いてはいられません。私にとって大切な、主様の命が懸かっていますから」


 泣きじゃくっていたノルンはもういない。強気に俺を見上げていた。


「……いや、その、そういう雰囲気じゃないし」

「しかし効果的ではあります。主様が私を抱き初めてを奪うということは、私に消せないキズを残すことになります。そこまですれば、主様が生きて帰ってくる気がないとは言えません」


 確かに。いや押し切られてはダメだ。


「……そういうのは、好きな人と」

「私は主様を心よりお慕いしています」


 返答が早い。やや食い気味だった。ノルンは自分が思いついた方法を、意地でも押し通そうとしている。


「……えっと」

「アネシア様から聞きました。主様は基本的に、自分から相手との関係を詰めることはしないと。自分の替えはいるという考えからのモノと思いますが、替えの効かない関係まで深めてしまえばいいと思いませんか?」


 俺が言葉を考えている内にノルンが言った。つまり逃げ場を失くすということでは。


 やはり即興のやり取りではコミュ力の低い俺が押し切られてしまう。このままではなし崩しで致しかねない。


「……そういう理由でするのは良くないと思う」

「主様に抱いていただけるのでしたら私は幸福です」


 幸福、と来たか。


「それとも、主様は私がお嫌いですか?」


 強気だった瞳が不安に揺れた。……その聞き方は狡い。嫌いなわけがなかった。ただ、ノルンはまだ師匠ほどの関係になっていないのも事実。出会って半年程度だ。流石に早すぎる気がした。


「いえ、違いますね」


 ノルンは首を振って自分の言葉を振り払う。そしてもう一度問い直す。


「主様。私との関係を、これからも続けていってくれませんか?」


 覚悟を問われる。

 今後も生きてここで過ごしていけば、そういう関係になる可能性はある。今回のそれは謂わば“これから”の前借り。未来にそうなる可能性を前倒しにして、前倒しにした分生きて戻ってきて返すという意志を問うているのだ。


 ここで一気に関係を深めることは、生きて帰る意志の証明にもなる。


 理に適ってはいる。ただ、だからこそやりたくなかった。ここでノルンとの関係を深めれば、否応なしに帰ってこなければならなくなる。これまで通り生きて殺す気でいないといけない。

 できなくはないと思うのだが、成功する確率は著しく下がるだろう。


 もちろん、生きて帰ってこられればそれが一番いいのだが。


「主様、お答えいただけませんか?」

「……それは」


 もう少し考える時間が欲しい。とても大事なことだ、短時間で決められることではない。

 ただ悩んでいる時点で、考える余地が生まれてしまっていることを意味していた。


 ここでノルンを拒絶して自ら帰る場所を失くすか。

 ここでノルンを受け入れて一番いい未来を目指すか。


 自分の中で天秤が揺れているのを感じる。ただ悩めるということは、死んでもいいという気持ちをまだ持てているということだ。即決できない辺り、やはり俺は主人公になるような人物でないとわかる。主人公なら、誰もが幸せになる未来を掴もうと、迷わず選択できるはずだ。


「でしたら、仕方ありませんね」


 ノルンがそっと嘆息する。そして印を結んだ。……ん? 今の、【影分身の術】じゃなかったか?


 ぼふんと現れた二人目のノルンは即座に俺の背後を取って抱き着いてきた。いや、拘束してきたと言った方が正しいだろうか。羽交締めにされている。


「……ちょっ」


 俺が抵抗する間もなく、前後からベッドの方へ連れて行かれた。


「主様?」


 ノルンが笑みを浮かべる。彼女にしては珍しく、蠱惑的な笑みだ。


「既成事実という言葉を教えてもらいました」


 言わんとしていることはわかった。犯人は二択、いや二択しかあり得ないのだが、どちらでもありそうだ。


「……ちょっと待って。せめて考える時間を」

「いえ、主様。こちらの方が確実です。主様が私を拒む可能性が残っているようですので。強制的に生きて帰るしかない状況にしてしまえばいいのです」


 大胆すぎる。いや、ノルンも俺がどちらかで悩んでいるのをわかってやっているのだろう。生きて帰るという選択肢が生まれたことを見抜かれている。だからこそ、一気に形勢を変えようと動いているのだ。


 前にいるノルンが近づいてきて、耳元に顔を寄せる。


「「主様」」


 もう片方の耳には後ろにいるノルンが囁いてきた。


「「私は本気ですからね」」


 両方の耳で聞かされる。二人がかりでは満足な抵抗もできず、ノルンの本気具合を行動で示されることとなるのだった。


 ◇◆◇◆◇◆


 翌朝。

 ようやくノルンが眠ってくれたので、俺はシャワーを浴びて身支度を整えた。


「行くのかい?」


 玄関で背後から師匠が声をかけてくる。振り返ると、奥にはリリィもいた。顔を赤くしてこちらを見ない辺り、色々と聞こえてしまっていたのかもしれない。恥ずかしい限りだ。


「……はい」

「少し休んでからでもいいんじゃないか?」

「……あまり遅いと予測の範囲から抜ける可能性もあるので。必要なら向こうで休みます」

「そうかい」


 師匠は昨夜より落ち着いた様子だったが、瞬く間に距離を詰めて抱き着いてきた。


「生きて帰ってくる気は?」

「……ありますよ」

「なら良し。行っておいで」

「……はい、行ってきます」


 色々と言いたいことはあるだろうが、呑み込んで俺を見送ってくれた。最初から生きて戻ってくると決意していればわかってくれたのだろう。理解してはいたが、前向きな気持ちで挑むつもりはなかったのだから仕方がない。

 ただ今更、やっぱ命捨てるわとも思えなかったが。


 リリィはなにも言わなかったが、見送りに来て止めなかっただけで温情と思っておこう。


 俺は踵を返し、玄関の外へと足を踏み出す。


 暗殺の依頼としてではなく、極めて個人的な理由で人を殺す。


 運命というモノがあるとするならば。

 俺が異世界に来た意義は、彼を殺すことにあったのだと信じて。








――――――――――

あとがき

賛否の分かれそうな急展開

一人称視点で書きながら主人公に隠し事をさせるのは難しいですね。


あとシゲオ君はアネシアとのことで、死別は時間と誰かが解決してくれるというのを知ってしまったので。代わりはいるという持論に拍車がかかったところはあるかもしれません。

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