第七十四話 死神の誘惑

 リリィに和食を振る舞ったその日の夜。


 自室で寝ていた俺は、腹部に重みを感じて目を覚ます。布団の上からなにかが乗っているような重みだ。

 寝惚けた頭で、前にもこんなことあったな……と思い返す。


 目を開けて、乗っているモノの確認をする。


 ――黒い下着だけの姿で、リリィが馬乗りになっていた。


 衝撃の光景で一気に目が覚めてしまう。


 カーテンの隙間から漏れる月明かりだけが彼女を照らしていた。今日の買い物で購入した、布地に透け感のある下着だ。セクシーな下着が彼女のプロポーションをより魅力的に引き立てていた。

 ただ、俺が驚いたのはそちらではない。近くに刀が見当たらなかったことに衝撃を受けた。彼女の境遇を考えればあり得ない行動だ。……確実に、俺が見えないところに刃物を隠し持っている。


「ふふふ、随分よく眠ってたみたいね」


 リリィが妖しく微笑む。……寝てる間に身体の一部が切り落とされたり縛られたりしてないよな? 大丈夫だよな? ……良かった、五体満足だ。


「……なにか用か?」


 なにもされていなさそうなことを確認してほっとしつつ、リリィに尋ねた。


「女の子がこんなえっちな下着姿で部屋に来るなんて、目的は一つしかないでしょ? ――夜・這・い♡」


 リリィが両手を俺の顔の横に突いて覗き込んでくる。プラチナブロンドの髪がはらりと垂れた。


「……用がないなら帰ってくれ」


 ただ俺は、彼女の狙いを予想しているので揺れることはない。


「用は今言ったじゃない。男の子なら喜んだら?」

「……手を出したら斬られるのにか?」

「あはは、私今刀持ってないよ? 刃物なかったら普通の女の子だもん」


 鎌をかけるとリリィの目が一瞬泳いだのが見えた。やっぱりどこかに隠し持っている。


「……リリィに手を出すことはないよ。諦めて部屋に帰ってくれ」


 俺はもう一度告げる。


 次の瞬間、銀色の軌跡がどこからか伸びてきて、俺の左頬を掠めた。いつの間にか持っていた短剣が枕に突き立てられている。掠めた左頬が少し熱を持っており、血が滲むのがわかった。

 ……全然予備動作が見えなかったんだけど。殺す気あったら今ので死んでるぞ。前の時より強くなってないか?


「ふぅん。今のでも表情一つ変えないなんて、ちょっとは成長したのかしらね」


 リリィの碧眼から光が消えていた。ようやく取り繕うのはやめたらしい。


「ねぇ。手を出さないなら殺すって言ったら?」

「……結果が変わらないなら手を出さずに死んだ方がマシだ」


 そうは言っても結果的には殺すのだと思う。それなら無為に彼女を傷つけるだけの行為はしないで大人しく死ぬ。もちろん死にたいわけではないので全力で逃げるとは思うが。


「なんで? なんで手を出してくれないの? もっとイヤらしい目で見てくれればいいのに」

「……そうすれば、俺を殺す理由ができるから?」

「そうよ!」


 短剣が一度抜かれてから再度突き立てられる。抜いた時に出てきた白い羽毛が舞う。……心臓に悪いのでやめてください。あと俺の枕が。


 心が乱れたリリィだったが、不意にはっとして俺の上から退くと布団を思い切り剥ぎ取った。なにをする気だ、と思った時には彼女の短剣が振られる。細かな斬撃が俺の寝間着を細切れにした。しかし俺の身体には一切の傷がついていない。巧みな制御は流石『剣聖』と言うべきだが、俺までパンツ一丁の恰好になってしまった。夜は少し寒いので、涼しいと言うよりはやや肌寒い。布団返して。


 リリィの視線がちらりと股間の方を向いた。本当に反応してないか確認したかったのだろうか。いくらなんでも刃突き立てられた横では難しい。正常な男子であれば尚更。


「……小さいだけ、じゃないみたいね」


 心外すぎる選択肢が浮かんでいたようだ。パンツの上からだとあることは見えてしまうので消えたようだが。というかそんなことを確認するために布団と寝間着取らないで欲しい。言われても脱がなかっただろうけど。


「……もういいか?」

「ダメに決まってるでしょ」


 身体を起こして布団を取りに行こうとしたが、リリィの方が早かった。上体を起こした俺の身体を左手で押さえ、再び馬乗りになってくる。腹部に直に座られたので柔らかな尻の感触が伝わってきた。だが右手の刃物が怖すぎてどうしようもない。

 それでもダメと見てか、リリィが身体を前に倒して豊かな膨らみを押し当ててきた。


「これなら、どうかしら……?」


 近くまで顔を寄せて妖しく微笑んでくる。だから右手の刃物が。……まぁ刃物がなくてもお断りだが。


「……諦めてくれ」

「なんでよ!?」

「……少なくとも、なにをされても手を出す気はないから」

「っ……」


 リリィの顔が悔しげに歪む。どうあっても俺を他の男達と同じように殺したいようだ。

 少し考え込んでから、頬を染めてしおらしい表情を作った。


「ねぇ、シゲオくん。お願い……」


 リリィはそう言って目を閉じ顔を近づけてくる。……それはダメだ。

 俺は彼女の顔の前に手を割り込ませた。


「なにするの?」

「……させるわけないだろ」


 やんわりと押し退ける。誘惑ならいくらでもしていいが、最後の一線は越えさせる気がなかった。


「なんでよ。……最近人肌が恋しくなってきちゃったから、いいでしょ?」


 離れても諦めずに再度誘惑してくる。事実だとしても男の俺に求めないで欲しい。師匠なら胸くらい貸してくれるだろう。


「……いいわけないだろ。なにがあっても手は出さないからな」


 俺は力を抜いてベッドに身体を預ける。どうあっても俺が揺らぐことはない。


「それなら……!」


 リリィは自ら下着に手をかけた。仕方なく手を伸ばして腕を掴み止める。


「なに? 自分で脱がせたいタイプ?」

「……そういう意味じゃないから」


 リリィはようやくかかったと思っていそうだが、俺にそんなつもりは毛頭ない。


「……いい加減、自分を安く見るのはやめて欲しい」


 俺は率直な意見を口にした。

 いくらリリィが絶世の美少女であるとしても、どれだけ誘惑されようが気乗りしない理由はそこだ。自分の容姿が優れている自覚はあるようだが、こういう使い方はしないで欲しい。こんなヤツを殺す理由作りのために活用するべきではない。


「……なにそれ。意味わかんないんだけど」


 リリィは訝しむような、奇妙なモノを見るような目で見てくる。


「なにが言いたいの? 憐れんでるわけ?」


 視線が睨むように変化した。憐れみとは少し違う気がする。


「……いや」


 首を振って少し考える。自分に聞いてみて、一番しっくり来た答えを返してみた。


「……リリィまで、リリィのことを傷つける必要はないと思う。少なくとも今のリリィからは、自分のことを『男好きのする身体』か、『男を殺す殺人鬼』として見ているようにしか感じられない」


 俺が自分のことで手いっぱいになる性分だからわかる。死にたくないという思いも所詮は“自分が”ということだ。攻撃を避けるのも自分が痛いから。日々頑張っているのも、師匠に見限られたくないからというのもあるだろう。

 俺は極端な例かもしれないが、それでも人はある程度自分を大切にするモノだと思う。


 今のリリィにはそれが欠けている。俺が第三者目線で想像するよりも酷いことをされてきたのだ、自暴自棄になるのもわからなくはない。

 けどそうして生きていくのは、辛いことだ。


「……」


 図星だったからか、リリィは目を逸らした。反論と短剣が飛んでこなくて良かった。


 ……他の理由としては、俺を殺すのにそこまでしなくていいと思うというのもあるんだが。これはネガティヴ故の考えだと思うのでしまっておく。


 ――ここで俺は、少しだけ強引な手段を取ることにした。


 リリィの腕を放した瞬間に相手の得物を奪う『奪取』を発動して素早く彼女の手から短剣を奪い取り、そのまま刃を首元に突きつける。


「っ……!?」


 流石にこの体勢、状況で覆す手があるとは思っていなかったらしい。リリィの身体が硬直する。本当は馬乗りの体勢も変えたかったが、そうなると今度は俺が上から彼女を押さえつける形になってしまう。……多分嫌な記憶を呼び起こしてしまうので、良くないだろう。


「……リリィ。生きたいのか、死にたいのか。答えて欲しい」


 俺は冷たい刃を突きつけたままリリィに問う。

 生きたいなら、これ以上自分を傷つけるような行為はやめるべきだ。リリィはもう充分酷い目に遭ったと思う。幸せを探しても文句は言われない。

 死にたいなら、そう言ってくれれば考慮はする。リリィが今の自分を受け入れて生きていく方が辛いと言うのなら仕方がない。その時は俺が殺そう。


「……私を殺すつもり?」

「……返答次第では」


 彼女は少し震えた声で尋ねてきた。もしかしたら冗談だと思っているのかもしれないが、生憎と本気だ。様子を窺っても殺意しか見えないと思う。


「どうして、そんなことを聞くの? 私はあなたを殺したいのに」

「……俺を殺したら気が晴れるのか? リリィは幸せになれるのか?」

「それは……」

「……俺が知ってるのは概要だけで、リリィと同じことを体験したわけじゃない。けど、これ以上苦しむ必要はないと思う。楽になれるのなら、殺すという選択肢もなしじゃない」


 第三者だから気軽に「昔のことは忘れて楽しく生きよう!」と言えるのかもしれない。もちろんそうなれれば一番いい。ただし、無理して生きるのが辛いのも事実だ。俺がネガティヴだから前向きに考えられないだけかもしれないが、それでも彼女が望むならそうしてもいいと思っている。生きていくのが辛い人の助けになれるほどの器量は、俺にはない。できることなら無責任な言葉でも彼女の心を救ってあげるのがいいのだろうが。

 俺にできることは、殺すか否かだけ。


 リリィは迷っているようで、目を泳がせ逡巡した様子を見せていた。やがて、ぽつりと答えを口にする。


「……わかんないよ」


 弱々しい呟きだった。


「わかんなくなっちゃったんだ、私」


 力の抜けた儚い笑みを浮かべていた。


「……そうか」


 答えを聞いてから、俺は短剣を下げてリリィの手に返し、ベッドに身体を預け直す。


「えっ? それだけ?」

「……決まってないなら、俺にできることないから」


 俺が呆気なく引き下がったからかきょとんとしていた。


「なによそれ。そこは『俺と一緒に生きる道を探そう』とか言うものじゃないの?」

「……言ったって聞かないだろ。あとそんな恥ずかしい台詞吐くわけない」

「あ、そう。というかそれなら、なんならできるわけ?」

「……殺すか、殺さないかだけだ」

「私のこと助けたのに?」

「……暗殺対象じゃないから殺さなかっただけだし、あの時は俺が見逃されたわけだし」


 リリィが本気で殺しにかかってきていたら死んでいたと思う。


「ふぅん。じゃあもし私が死にたいって言ったら、シゲオくんが殺してくれるの? 私より弱いのに?」


 彼女は言って見下したような笑みを浮かべた。


「……ああ、殺すよ」


 だが俺の返答に迷いはない。今の一幕もそうだが、暗殺するという点だけで見ればなんとかなる気がしていた。……まさか俺がこんな思考できるようになってるなんて。師匠が聞いたら驚きそうだ。泣いて喜ぶかな。いやそれはないか。


 リリィは目を丸くしていたが、ふっと柔らかく微笑む。


「そう。じゃあ、その時はお願いするわ」


 あまりにも自然な笑みだったので、不覚にも綺麗だなと思ってしまった。


「……もういいわ。なんか冷めちゃった」


 リリィはようやく俺の上から退いて、ベッドからも降りる。そのまま立ち去るかと思ったが、扉の前で足を止めた。


「ねぇ、シゲオくん。一つだけ聞いてもいい?」

「……ん?」


 なんだろう、改まって。


「グレウカさんに私の刀頼んだのってなんで?」


 ……。

 …………。


 あの人、やっぱり口軽いんだなぁ。

 間違いなくグレウカさんから聞いた情報だろう。師匠から口が軽いから余計なことを言わない方がいいと忠告されてはいたのだが。


 リリィの言う通り、俺はグレウカさんにリリィが使うための刀を打ってもらうように依頼していた。

 リリィと出会ってから街に戻ってきたすぐ後のことだ。師匠がもしリリィがこの街に来るならグレウカさんのところに寄るだろうと言っていたので、その話をするついでに俺も寄った。その時は思いついたのだが、流石に師匠に金を出してもらうわけにもいかず。後日そういえば特に欲しいモノがなかったので小遣いを貯め込んでいたなと思い出し、小遣いの全額を持ってグレウカさんのところに行き、リリィ用の刀の鍛造依頼を出した。殺人鬼が愛用できるような人殺しに適した刀を、という失礼な依頼だったが。

 俺がそんな依頼を出そうと思った理由は簡単だ。


 リリィが理性を失っていない殺人鬼だと思ったから。

 理性を失い無差別に人殺しをする状態ではないと、実際に対峙した俺は思った。……いや、最初は殺そうとしてきたんだけど。それでも最終的には殺さないことを選択した。それは理性がないとできないことだ。

 彼女は理性がある。ならわざとらしく人殺しのための刀を渡されれば思い通りに動いているようで気に入らないと思われて人殺ししなくなるかなとか……。受け取らないという可能性もあったが、武器を摩耗される使い方をしている可能性が高いと思ったので、刀は求めるはずだろうと師匠も言っていた。


 そんな、大層ではない理由だった。


「……人殺し用の刀だと言われれば、人殺ししたいとは思わないかと思ったから?」

「なにそれ、むしろ逆じゃない?」

「……まぁ」


 呆れられてしまった。

 ただ俺が依頼した刀を受け取ったからには、一つ頼みを聞いてもらいたいところである。


「……その刀を使うなら、一つだけ頼みがある」

「なに?」


 リリィは振り返らずに聞いてきた。


「……その刀で初めて殺す人間は、俺にして欲しい」

「――……」


 変な頼み事だが、意味のあることだ。あとは彼女が頷いてくれるかだが。


「いいわよ、約束してあげる」

「……そうか」


 少しだけほっとした。リリィは結局振り返らずに俺の部屋を出ていく。


 扉が閉じてからそっと息を吐いた。

 俺にできることなんてほとんどないので、どうにか引き下がってもらえて良かったと思う。とはいえ慣れないことをしたせいか結構疲れてしまった。


 とりあえず、代わりの寝間着を着てから寝直そう。


 ◇◆◇◆◇◆


 翌朝。

 リリィの様子が少しでも違っていればいいなと思っていた。


「主様にくっつきすぎではありませんか?」

「そう? そんなことないわよ」


 今日も今日とてノルンと言い合いをしている。変わらず俺を挟んで、だ。


「料理中ですよ。主様も困っておられます」

「いいじゃない、別に。腕組んでるわけじゃないんだし」


 言い合いするのはいいが、他所でやってくれないかな。


「それに、私とシゲオくんは昨日の夜色々した仲だし。ね?」


 やめて。ノルンの目から光が消えてるから。


「……おい。こういうのはやめてくれって言っただろ」

「やめるとは言ってないわよ?」


 リリィに耳打ちにすると、いい笑顔で返答があった。……それはそうだけど。わざわざ続けることじゃないだろうに。


 それとも、リリィは俺やノルンをからかうのが単に楽しいのだろうか。

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