第十話 絶対的敗北
「そういや、ちゃんと避けてたね。よくやった」
教会へ行った帰り際、アネシアさんに頭を撫でられてしまった。十五歳にもなって恥ずかしかったので反射的に払ってしまったが、今までそんな風にされたことがなかったので仕方がない。
「今日で『索敵』まで会得しちまったから、明日からは前にやった回避の鍛錬を始めるよ。もちろん、今日までにやった技能の復習は忘れないように」
彼女は気にした風もなく次の話に移った。
翌日。
『回避』を会得するのに必要な残り二つの技能『跳び回避』と『掻い潜り』を練習する。
『跳び回避』とは、言ってしまえば飛び込み前転だ。跳んで手を着いて一回転して体勢を立て直す。すぐに立ち上がって相手の方を見るのがコツだ。アクションゲームだとよく回避やら緊急回避やらと呼ばれる動作だろうか。これは難しい。実際にやってみると前転をした後すぐに体勢を直すのが難しいのだ。『気配察知』があるからどこに敵がいるのかはわかる。ただし動きながらだと上手く気配を感じ取れなくなることもあって、両立するには時間がかかりそうだと思った。
『掻い潜り』とは、「上体を逸らす」や「屈む」など距離を開けないで敵の攻撃を避けることだ。これがまた難しい。距離を開けないと、相手の全身が見えないのでどう攻撃してくるか見えないこともある。目を見ればわかると言うが、俺にはよくわからない。ただ少し意識がどっちを向いているかがわかる瞬間があると、なんとなく察することはできた。これがそうなのかもしれない。加えて相手との距離が近いと攻撃が当たるまでの間が短いので、咄嗟の判断をする時間も短くなるのだ。ほぼ反射でできるようにならなければ厳しいように思う。
要は、練習あるのみだ。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
俺は独り、街の方へ出ていた。
一応アネシアさんの家も街の中にはあるのだが、位置としては街外れに近い。彼女曰く「暗殺者の隠れ家に相応しい場所」とのことだ。確かに人気は少なく感じる。俺がホームレスだった時に眩しく感じた喧騒ある通りなどからも若干遠い。
今日は買い出しを頼まれてのことだ。
俺も偶にこうしてアネシアさんに頼まれて街の商店街のある方へと歩いていくことがあった。
今日は彼女の要望で、夕食にパンを食べる手筈となっている。夕食にパン? と思ったがパンを食べたい気分になったので仕方ないらしい。仕事を手伝っていない以上、食費を出してもらっている俺に選択権はない。素直に言うことを聞くしかないのだ。
元の世界で言うところのフランスパン(製法が同じなのか食べたことのある食感だったが)を買いに行かされている。パンにつける具材は家で煮込み中なので、出来上がる直前に焼き立てのパンを買ってこいと仰せだ。
フランスパンとつい重ねてしまうが、こちらではディエールパンと言うらしい。フランスがないのだから当たり前か。ディエールという人が開発したからディエールパンなのだとか。……ネーミングの安直さは世界を渡っても変わらないな。
夕食前の商店街は少し混んでいる。夕食時の一時間前とかならもっと人が多いと思う。夕飯の買い出しラッシュが起こっているからだ。
ただ焼き立てのパンを買ってこいという我が家主の仰せの通りにするには、夕飯直前でなければならない。パンも売り切れている可能性が考えられる時間帯だ。売り切れていたら帰って自分で作るように言われている。パンなんか作ったことないんだが。『家事』の技能を持っていても知らないモノは知らないのだ。
夕焼けが差しかかる時間帯だ。既に見慣れた光景ではあるが、最初に見た時は石畳の通路やレンガ造りの街並みが夕焼けに染まるのを見て少し感動を覚えていた。現代よりも環境汚染が少ないからだろうか。それとも生きる理由があるからだろうか。元の世界の夕焼けよりも綺麗に見える。
行き交う人々とぶつからないように気をつけながら歩いていくと、パン屋が見えた。竈などの技術は異世界人から入手したらしく、器具や製法などを短縮している。でなければ俺がフランスパンだと思うようなパンを作れやしないだろう。
フランスパンが俺の想像する細長くて美味しそうな焦げ色をつけるようになったのだって、歴史がある。過程のいくつかをすっ飛ばして発展しているのだろうが、建築技術などは兎も角細かいところで異世界知識が披露された形跡が見受けられる。
俺の思い描く異世界はもう少し全く知らない世界みたいな部分が多かったように思えるが、元の世界の手が入りすぎていて少し奇妙にも感じる。
まぁ飯が美味しければ最悪なんでもいい。
食文化の発展はおそらく異世界からやって来た日本人が最初に取り組むことだと思う。やはり外国の食事が口に合わなかったり日本食が恋しくなったりすることは多いようだし。その辺は異世界でも変わらないだろう。高値ではあるが米を売っているところがあるのがその証拠だ。アネシアさんが最初に言っていたように、日本人に多い黒髪黒眼が異世界人の特徴として挙げられている。つまり日本から度々異世界へ来ているということだ。温泉を見かけることもあるので影響のほどが理解できる。ただ純粋な異世界とは異なるので、少し残念ではあった。
そうしてパン屋の前まで来た俺は、店の前に並んだパンの棚を見てディエールパンがまだ頼まれていた三つ以上残っていることを確認する。棚には魔法がかけられていて、状態を保存できるようになっているそうだ。だから店の前にパンを並べるなんて売り方ができるのだろう。パンを売っているおばさんに声をかけた。
「……ディエールパンを三つ」
俺は普通に声を発したつもりだったのだが、
「ん? なんだって?」
聞こえなかったようで聞き返されてしまった。よくあることだ。だから慌てることはない。とはいえ声は自分が出しているよりも大きく聞こえるので大声を出すことに抵抗があった。
俺は指でディエールパンを差した後に指を三本立てる。
「あぁ、ディエールパンを三つね」
それで伝わったのか、おばさんは紙袋にディエールパンを三つ入れて渡してくれる。
「千シヴァルになるね」
俺は事前にある程度予想立てて金を持ってきていたので、ズボンのポケットから銀貨を一枚取り出し手渡した。
「まいど」
俺は渡された紙袋を抱えてパン屋を後にする。紙袋の上からでも伝わる焼き立ての温もりと鼻を擽る香ばしい匂いもあって、小さく腹の音が鳴った。
「シヴァル」というのがこの国における通貨の単位だ。硬貨の材料と大きさで何シヴァルかというのが決まっていて、それに合わせて硬貨を渡す。金属を材料にしているなら変動がありそうなモノだが、そこは日本人の影響なのか固定されている。わかりにくいし覚えにくいから、という理由で世界を変えてしまう可能性は充分にある。もちろんもし硬貨の材料が稀少になった場合硬貨を変更することも考慮してはいるのだろうが。
パン屋からアネシアさんの家まで行く途中で、人の行き交いが段々と疎らになっていく。喧騒から離れた場所を独りで歩いていると心が落ち着くように感じる。そういえば学校でも下校の時間が一番楽しかったな、と思い返した。卒アルで一番楽しかったことは、と聞かれれば「下校」と即答できる準備ができていたくらいだ。まだ三年どころか一年も経っていないというのに。
家に帰ったら飯にありつけるということも含めて、俺はもしかしたら浮かれていたかもしれない。普段通りなら気づけたはずだ。『索敵』も会得したのに使わず歩いていたから、気づけなかった。
パンにつける用の具材はアネシアさんの方で火を見てくれているので問題ないはずだ。料理なんて元の世界ではしたことがなかったが、今回のように色々な味を出せるように試してみる、というのもなかなか楽しいものだった。
流石に日本と同じ調味料というわけではないので味つけを俺が好きだったモノに合わせるのは苦労するが、試行錯誤を重ねるのも悪くない。料理なら不器用でもレシピに合わせて作りさえすればある程度形になるからな。スムーズにやるとか、改良を重ねるとか、そういうことをしないのなら努力を必要としないとも言える。作るだけなら俺にもできる、というのならどうせ俺には無理という基本理念から外れて楽しく思えるということなのかもしれない。
ともあれ料理を作るのは苦じゃないという話だ。
俺が帰路を歩いていると、突如背後に熱気を感じた。振り向く間もなく背中に熱が当たる。というか焼けた。
「づっ……!」
熱い。確実に火傷を負った。背中に当たったモノはすぐに消えてくれたが、背中がひりひりすーすーする。おそらく服が破けて火傷しているのだろう。抱えていた紙袋を落として前方に
……なんだ、なにが起こった?
頭が真っ白になっている。呆然として身体が動かない。いや動け。状況がわからなければ、逃げもできない。死ぬかもしれない。
その時背後から駆けてくる人の気配を察知した。頭は働かなくても、身体は状況を把握しようと動いてくれたらしい。反射的に背後を振り返って相手の姿を捉えた。
「……ぁ?」
黒ずくめに短剣を携えた青年だった。どこか見覚えがある。と思ったらあれだ。半年ほど前に教会で会った冒険者の一員だ。RPGに出てくる盗賊っぽいと思った覚えがある。
咄嗟に動くことのできなかった俺はそのまま背後から腕を取られ仰向けに倒される。顎だけは打ったら砕けそうだったので顔を上げてなんとか守ったが、その代わりに腹部と胸部を強打した。息が詰まる。その上腕を青年に取られており、どっちかの足が俺の背中を踏みつけていた。火傷した上で踏みつけられると痛みが倍増したように思う。早く逃げたかった。
「なんだ、あっさり行ったな」
聞き覚えのある声だ。俺の正面から誰かがつかつかと歩いてきた。見上げるとアネシアさんに突っかかってきた大剣を背負う男がにやにやとした笑みを浮かべて立っている。
「俺達のこと、覚えてるか? 覚えてなくてもいいけどな。お礼参りってヤツだ」
男が嫌な笑みを浮かべて俺に告げてくる。お礼参りと来たか。つまりそれは、あの時アネシアさんに倒された仕返しを俺にしようと言うわけだ。卑怯臭い。器が小さい。弱そうな俺を狙う辺りアネシアさんには勝てないと認めているようなモノだ。
そんな言葉は、心の中でしか出てこない。
「早くしてくださいね。人が来ない内に済ませなければなりません」
「そうよ。さっさとしなさい」
後ろの方から女二人も近づいてくる。この様子だと尾行されていたようだ。『索敵』や『気配察知』を会得しておきながら気づかないとは、俺も油断したものだ。ここは、元の世界より優しくないのだから。
「それもそうだな。おいてめえ。あの女と一緒にいるよな? 恨むんならあの女を恨みな」
やはりアネシアさんへの仕返しか。俺を痛めつけたところで彼女にはなんのダメージもないのにな。結局こいつらの自己満足でしかない。
「とりあえず一発目、っと!」
男が足を振り被って、俺の鼻を蹴り上げた。ぼぎっという音が聞こえ鼻にあった空気の通り道が一瞬で埋め尽くされる。首の筋力などなかったかのようにがくんの後ろへ弾かれた。首が戻ると、鼻から口元を通ってぽたぽたと地面に雫が垂れる。鼻血が出たらしい。あまり鼻血を出したことがなかったのだが、鼻で息ができなくなるだけでこんなにも苦しいものなのか。ただ苦しさよりも鼻のじんじんとした痛みと首筋の痛みに意識が向く。
口ではぁはぁと息をしながら男を見上げる。嫌らしい笑みが鼻についた。弱い者を甚振って悦に浸るヤツほど嫌な相手はいない。俺が弱い者の方だからよりそう思うのかもしれないが。
「てめえみたいなひょろっちいヤツが、『剛力』持ちの俺に敵うわけねぇってのを身体に教え込んでやるぜ」
自分から才能をバラすなんてバカなのかこいつ。いやこんなことをしている時点でバカ確定だったな。というか俺は最初からお前に敵うとは思ってねぇよ。教えられるまでもなく。
「続けていくぜぇ?」
圧倒的優位に立ち調子に乗った男は同じように俺の顔面へ蹴りを放ってくる。蹴りと言っても俺の頭蓋骨が砕け散らない程度の、おそらく加減された威力だ。それでも俺が思い切り首に力を入れたところで耐え切れない威力になっている。ただでさえ良くもない俺の顔面が、酷いことになっていく。
一度足を止められた頃には、俺の顔がぼこぼこになっていた。触っていなくてもわかるくらい顔に違和感がある。目もあまり大きくないのだが、目の上やら腫れているせいで視界が更に狭まっている。顔面全体と首が痛い。もう帰りたい。
「足手纏いの癖に、俺の攻撃だけは避けてくれたな」
声は上から降ってきた。青年の方だ。声を聞いたのは初めてだったか。そんなことを思っていると、右腕が左の方に動かされ、背中に冷たいモノが入ってきた。
「あぐっ……!」
俺にしては大きな声が漏れる。刃物の冷たさはすぐに痛みという熱さによって消えていく。逃げられない俺はただ、歯を食い縛ることしかできなかった。目頭が熱くなってくる。
「お前程度に避けられたことで、俺の信用はがた落ちだ。どうしてくれるんだ? あぁ?」
冷静にも聞こえるが、その中に熱を持った声音だった。一度刃が背中から抜かれる。それで痛みが止まるわけではない。噴き出した血が背中にかかってきた。痛い。血が止まらない。早く手当てしないと。
つぶりと違う場所に刃を突き立てられた。
「っ………!」
歯を食い縛って悲鳴を抑える。痛い箇所が増えた。もうやめて欲しい。だが相手は俺のことなど気にしない。再び刃を抜いてまた別の場所に突き刺す。それを何度も繰り返した。
俺はそれを、痛みが消えてくれるように願いながら耐えるしかない。拷問だ。これがただの仕返しだというのだから、歪んでいる。しかも俺に対しての仕返しなのだから、たった一回回避しただけでこれだけの屈辱を味わっていたのだろう。なんてプライドが高いんだ。俺程度に避けられる腕の癖しやがって。
「退きなさいよ。よく狙えないでしょ」
そこへ苛立った女の声が聞こえた。痛みがありすぎて何回刺されたかもわからないが、青年の手は止まったようだ。掴まれていた腕も放され、一応自由になった。背中からも退かれたので逃げられはする。実行した瞬間殺される可能性もあるが。
それでも俺はこの場から今すぐ逃げ出したかった。これ以上痛いのが増えるのは嫌だ。死にたくない。痛いのもご免だ。情けなくていい。早く逃げないと。
俺はなんとか地面に手を突いて身体を起こそうとする。が、もちろん立ち上がらせてくれるはずもない。
左の二の腕と手の甲に、激痛が走った。当然だ。矢で貫かれたのだから。貫かれた腕から血が噴き出す。腕に力が入らなくなって体重を支えられず左へ倒れ込む。そのせいで二の腕に刺さった矢尻が地面に当たり根本まで動いた。傷の抉れる痛みが襲い、視界に赤い噴水が出来上がる。痛い。矢を抜かないと。そう考える間もなく今度は右腕を二本の矢で貫かれた。激痛に息が詰まって、目尻から涙が溢れた。痛い。痛い。もう嫌だ。帰らせてくれ。
「やった、命中」
絶望する俺とは対照的に声が弾んでいる。どうやら連中にとって俺はただの八つ当たりをするための道具にしか見えていないらしい。クソ食らえだ。
「全く、皆さん手荒ですね。死なれたら困るんですよ。ちゃんと殺さずにおかないと、私達が犯罪者扱いされてしまいます」
人を甚振るなら犯罪じゃないってか。いくら元の世界とは法律が異なるとはいえ、暴力も充分な犯罪だったと思う。まぁ、俺に適応されない法律なのだが。
「私が止血しておきますね」
確か神官だったはずだ。傷を癒してくれるのかと一瞬でも考えてしまった自分が恥ずかしい。
「《フレイムトルネード》」
魔法が発動する。赤い光が俺の下から漏れてきて、魔法を発動するために必要な魔方陣が描かれているのだと認識する。ただ腕を貫かれ逃げる気力を削がれた俺にできることは、ただ歯を食い縛りこれから来る痛みに耐えることだけ。
腹部の方から熱が噴き上がったかと思ったら、炎の渦が俺の上半身を焼いた。
「っ――!!」
絶叫した。いや絶叫はできなかった。最初に受けた火傷程度ではない。上半身がまとめて焼き焦がされる痛みを受けた。ただ声を上げようにも口の中が乾き切ってしまって出ないというだけだ。ただでさえ刺されて痛いというのに痛みで敏感になった傷口が焼かれる激痛が襲った。じたばたしようにも両腕には力が入らずじっと耐えるしかない。本物の炎だったら焼けるモノがなくならない限り燃え盛るかもしれないが、これは魔法だ。効果時間が終われば収まるものではある。痛みで泣きそうになっていたが、その涙も乾いてしまった。
やがて炎の渦が消え去る頃には、俺の意識が空白になっていた。上半身が焦げた痛みのせいで意識を失うこともできず、ただ力なく石畳の地面を眺める。そこになにか意味があるわけでもない。
「おいおい。殺したら、とか言っといてお前が殺しかけてんじゃねぇかよ」
なにが楽しいのか、大剣の男が下品な笑い声を上げる。
「きちんと焼け死なないようには手加減しました。ではそれぞれ適度に痛めつけたことですので、さっさと退散しましょう。人が来たら困ります」
「そうだな」
しれっと言い放す神官に、ぞっとすることもない。普段の俺ならこれで「適度に痛めつけた」程度なのかと恐怖したところだが。
「おいてめえ」
ごっと頭を蹴られる。痛いが、上半身全てが痛いせいで構っていられない。
「今度俺達に楯突いたらもっと酷い目に遭わせるからな。よく覚えとけよ」
楯突いたのは俺じゃないので保証できるはずもない。だが彼らにとってはそれで充分だったのか、なんの反応を示さない俺を放置してどこかへ去っていった。
焼かれたせいで血は止まっている。だが瀕死と言っていいくらいの状態だ。……こんな目に遭うくらいなら、元の世界にいた方がマシだったかもしれない。
アネシアさんに弟子入りせずホームレスのまま死んでいれば、こんな目に遭わずに済んだかもしれない。
死にたくないと言いつつも、苦痛を味わってまでは生きたくはなかった。
「……」
『索敵』をしても誰もいない。今なら俺がこれ以上に情けない姿を晒しても誰にも見られない。
「……っ、っ~~」
涙を捻り出した。炎で乾いた涙を奥から両目へと持ってくる。声を上げるにはまだ湿らせないといけなかったが、それでも泣くという行為自体はできた。
こんな人目につく可能のある場所で泣くなんてこと、いつ以来だろうか。上半身丸焦げで地面に伏したまま泣くなんて情けない姿を、誰かに見られたくはない。けど胸の内に生まれた感情をどこかへやるためには、これが一番だった。叫ぶこともままならない状態で、感情を吐き出すこともできないから。
「っ!」
ぽつっ、と焼け焦げた肌に冷たい雫が当たった。染みる。水滴は複数回に渡り、やがて雨となって降り注いだ。傷口に染みてじくじくと痛むが、乾いた身体には有り難い。焼けたせいか冷たい水滴が染みて潤いになっていくようだ。喉が渇いていることもあって、なんとか身体を動かし仰向けになる。すっかり曇天となった空を薄目で見上げて雨を飲む。一時は生活基盤がかなり堕ちたところにいたので、これくらいなら平気だ。そもそもこっちの世界の方が環境汚染が少なくて害が少ない。ないとは言い切れないが、この世界に来て最も成長したと言える胃腸なら平然としている。
しばらくそうしていると、誰かの足音が聞こえた。かつかつと石畳を歩く足音と、傘が水を弾く音が聞こえる。足音の具合から、小柄ではないが体重の軽い人だとは思う。
というか、彼女の気配を俺がわからないはずもなかった。
「……酷いやられっぷりだね」
俺の視界にその人が覗き込むように入ってくる。肩にかけた傘のおかげで雨に当たらなくなった。
「……すみません」
雨で多少喉が回復したとはいえ、まだ枯れた声だった。
「謝るのはこっちの方だよ。随分遅いから探しに来たけど、もっと早くに来れば良かったね」
アネシアさんはそう言って屈むと俺に肩を貸す形で起き上がらせ、そして背負った。力では敵わないとしても少し恥ずかしい。そんな感情を抱く程度には回復していた。
ただ背負われた背中はとても温かかった
「酷い連中だね。で、誰にやられたんだい?」
「……連中?」
「顔はぼこぼこで靴の跡がある。腕には矢が刺さってる。上半身は焼かれているが、その前に短剣で滅多刺しにされているね。一人に襲われたならここまで色んな手管でやらないよ。暴力ってのは事前に依頼とかがない限り衝動的なもんでね。蹴る殴る刺すまでは一緒でも魔法や矢なんかは一人で使い分けない。遠距離から攻撃するならどっちか一つでいいだろう?」
俺の身体を見ただけでそこまでわかってしまうらしい。
「……半年くらい前、教会でボコした冒険者がいたの覚えてますか」
「覚えてるよ。……まさかあいつらがやったのかい?」
「……はい」
俺が頷くとみしっという嫌な音が傘を持つアネシアさんの右手の方から聞こえてきた。
「あいつら……! まさかあたしに勝てないからってあんたを狙ったんじゃないだろうね!」
「……その通りです。本人達が、アネシアさんに勝てないことを認めてるかどうかは知らないですけど」
「そんなことはいいんだよ。なら完全に巻き込んじまったってことだね。悪かった。あんなヤツ相手にならないと思って、軽率に行動した」
「……いえ、いいですよ」
「良くない。ただあいつらの行動は気に食わないね。しばき倒してやる」
気配が刺々しくなっている。見ず知らずのホームレスという俺を拾ってくれたこともそうだが、他人のために怒れるのは優しい証拠だ。俺はあいつらに対して、怒りというより恐怖やなんかの感情が大きかった。二度と会いたくない。
「……それでまた俺に報復が来たらどうするんですか」
「二度と来ないようにするだけだよ」
聞いた俺がぞっとするほど冷めた声音だった。要するに殺す、ということだろうか。
「……暗殺者が私情で人殺しちゃダメだと思うんですけど」
「わかってるよ。でも、政府から斡旋された以外に、殺した方がいいバカを見つけたら国へ報告して調査してもらい、暗殺依頼として出してもらうっていう手がある。あたしに倒されたからってあんたに仕返しするような連中だ。多分冒険者としても問題を起こしている、または起こすだろう」
さっきまでの怒りはどこへ行ったのか、冷静な声音だった。
「……つまりこっちから報告して、暗殺依頼を出してもらってから殺すってことですか」
「そういうこと。けどあいつらにムカついているのはあたしよりあんただと思うから、あんたが殺るかい?」
「……俺には無理ですよ。勝てっこないです」
先程ボコボコにされたばかりの俺が、彼らを殺せるとも思えない。
「大丈夫。暗殺者は勝つ必要ないよ。どっちにしろ冒険者内で問題になりそうな連中だ。一応調査依頼は出しておくけど、いつ尻尾を出すかはわからないし、影響範囲が狭いから優先度も低い。もし早めに対処するべき状態になったらあたしの方で受けるけど、できるだけ取っておくことにするよ。一度負けた相手ってのは、いつか超えるべき相手になるからね。その相手を超えた時自信になる。あんたに一番足りないモノだからね」
確かに。アネシアさんはその辺も考えて言っているらしい。とはいえ俺が彼らを暗殺できるかと言われれば、全く想像もつかない。また同じようにボコボコにされる――いや今度は殺されるかもしれない。
「もちろん、まだ暗殺についてはなにも教えてない。無茶だと思うのも無理ないよ。でもあいつらのように性格に難があるヤツらってのは、あんた以外にも必ず同じことをやる。例え冒険者として挫折したって、今回のように自分達が敵わないという怒りを誰かにぶつけるようになるだけだ」
アネシアさんの言葉はすんなりと入ってくる。身勝手なあいつらのことだ、多分と言うか絶対そうすると思う。しかも既にアネシアさんに負けているので冒険者として大成するかどうか微妙な腕前だ。あの大剣男が持っている才能『剛力』もおそらくフラウさんの持つ『怪力無双』の下位互換だろうし。強敵と渡り合うのにその程度の才能で大丈夫なのかと思う。その癖全員が変にプライド高そうだったし。田舎で褒めそやされて自尊心が大きくなり、調子に乗って都会に出てきたとかそういうことなんだろうか。俺が思うに、あの程度では強いモンスターには対抗できない。
「まぁその話は後でしよう。辛い想いをさせて悪かったね。今日は無理だけど、明日なんか食べたいモノあるかい? 奮発してどこか連れていってもいいよ」
アネシアさんは明るい声音に切り替えて話しかけてくる。俺を励まそうとしてくれているのだろう。
「……じゃあ、アネシアさんの手料理が食べたいです」
珍しくすんなりと言葉が出てきた。
「そんなんでいいのかい? あたしの料理じゃなくて、もっと高級な料亭とかあるからそっちでもいいんだよ?」
彼女はそう言ってくれるが。
「……俺にとって、拾われたあの日に食べたアネシアさんの料理が一番美味しかったんです。あれ以上なんて、絶対にないですよ」
食べられるかすら不明なモノまで食していた反動だとは思うが、俺にとっての最高はあの時に確定してしまった。あれ以上に美味しいと思うことは、多分一生ないと思う。と言うかなくていい。
「……そうかい。嬉しいこと言ってくれるね。じゃあ明日は腕によりをかけて作るとしようか」
声から嬉しそうな様子が伝わってくる。と、飯の話をしていて思い出した。
「……あ、パン」
そういえばパンを買いに出ていたんだった。ただ襲われた時に地面へ落としてしまって、もう雨でぐっしょり濡れているだろうが。
「パンなんかいいんだよ。あんたが生きていればそれで」
何気ない一言だった。アネシアさんも大して意識して発言したわけではないだろう。それでも声から、俺が生きていることを喜んでいる様子が伝わってきてしまう。先程までの暴行で弱っていたからなのか、その後に泣いたからなのか、感極まって目頭が熱くなる。堪え切れずに涙が零れた。雨が降っているから、気づかれていないと思う。いや彼女は鋭いから気づいたかもしれない。
「パンについてはパンじゃなきゃ食べられない料理作ってたわけじゃないし、心配しなくていい。だからあんたは自分の身体だけ心配してな。帰ったらまず治療だね」
声を出すと震えているのがバレそうだったので、答えずただじっとしていた。それから会話もなく家へと着き、薬で怪我を治してもらう。矢で貫かれたところも傷跡を残さず治ったので、俺からしてみればとんでもない治療薬だ。いや、むしろこれくらいの薬でなければ多くの人に使われないのかもしれない。魔法適性にもなっている基本の属性以外、適性では「治」などと書かれているらしいが、回復魔法というのはアネシアさんと同じような特殊な魔法となっている。必然的に使い手の数は減るのだが。ただ可能性として頼めば無償で治療してくれるかもしれないので、魔法がある分薬の効力が高くなければ買い手が減ってしまう、ということなのかもしれない。
それから二人で食事をした。それだけのことが、少し嬉しかった。
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