第七話 生きる意味

 飛んできた蹴りが俺の脇腹を強かに打った。


 身体を鍛え上げたとは言っても蹴られれば痛い。我慢できずに大きく咳き込んでしまう。その隙にも相手は動いていて、すぐ近くに迫っていた。もちろん気づいてから避けようとしたのでは遅い。右肩に手が触れたかと思った瞬間、足を後ろから払われ肩にある手で押されるように視界が一回転した。空、逆さになった景色、地面と視界が移ってうつ伏せに叩きつけられ鈍い痛みがやってくる。


「零点」


 無情な点数を、少し苛立ったような声音で告げてくる。


「やる気あるのかい? もう一週間経つ。なのに未だ進歩の欠片すら見えないなんて」


 相当苛立ちが溜まっているであろうアネシアさんが告げてきた。俺は答えられず、すぐ近くにある地面を見つめる。


 彼女の言う通り、この訓練を始めて一週間が経つ。

 暗殺者は戦わないのでは、と思うかもしれないが反射神経や咄嗟の判断力を鍛える鍛錬なのだそうだ。


 俺に与えられた課題は、アネシアさんの攻撃に三分間当たらないこと。避け続ければいいだけの簡単な課題だと甘く見ていたのも最初だけだ。身体を鍛えることと強くなることは別物だと思い知った。身体を鍛えたからと言っていきなり強くなるわけではないのだ。当然ながら腕相撲などなら強くなる。ただし、身体の動かし方が染みついていないので、結局動けないのだ。多分いきなりこれができる人は天性の才能が備わっている。漫画やアニメで見たからできる、というなら苦労はしない。一週間で何度も行っていて、ド素人の俺がアネシアさんの攻撃に十秒持っていないのだから。


 ただ、それも俺にとっては当然だ。俺は他の人よりできないことが当然なのだから、多少進歩がないのは許して欲しい。


「……他よりできないことは、知ってるつもりです」


 俺は倒れたまま呟いた。頑張っても他の人よりできない癖に、まだ本気を出していないからできないだけなのだと周りに見せようとしていた。自分に言い聞かせようとしていた。


「なら人一倍努力するくらいの気概は見せたらどうだい!?」


 アネシアさんから叱責が飛んでくる。彼女の言う通りだ。できないことがわかっているなら、なぜその差を埋めるための努力をしないのか。


 ……やっぱり俺には暗殺者なんて無理なんだろうか。


 ついそんなことを思ってしまう。


「……あたしは最初に言ったね。暗殺者としてやっていく覚悟があるなら、って。あんたからはそれが感じられない。感情がわかりにくいのはわかっているけど、それにしたってやる気を出さなすぎてるんだよ!」


 叱責を受けることは今までもあったが、今日は少し違うようだ。相当ストレスになっていて、それが爆発したということだろう。


「いいかい!? あんたには暗殺者としての素質がある! 逆を言えば暗殺者以外の素質がないってことだ! 餓死寸前になるまで自分から行動しようともしてこなかったヤツに今更他の仕事が見つかるわけないだろう! あんたに暗殺者以外の仕事ができるわけないんだよ! ここで頑張らなかったらどこに行ったって変わらないよ!」


 激しい叱咤が飛んでくる。

 彼女の言う通りだ。


 俺がなにも言わないことをどう受け取ったのか、はぁと大きく息を吐いた。


「……言い過ぎた。ちょっと頭を冷やしてくる。鍛錬はここまでにしよう。明日からは、やる気になったらあたしに頼みな」


 このまま続けていても無駄だと思ったのだろう、彼女からそう申し出てきた。うつ伏せに倒れたままの俺の耳に、アネシアさんが立ち去る足音が聞こえてくる。


 鍛錬のために使っている家の裏庭から扉を開けて中へ入っていく音を聞いてから、仰向けに寝転がって空を見上げる。まだ昼間なので青空が広がっている。こうして空を見上げていると自分がちっぽけに思えてきて悩みがどうでも良くなるらしいが、元々ちっぽけな存在だとわかっている俺にとってはなんの意味もない。


「……はぁ」


 ため息が零れる。

 アネシアさんの怒りは当然だ。誰だって、自分が本気なのに相手が本気でやっていないとわかれば苛立ちもする。むしろ一週間耐えた彼女は我慢した方だと思う。

 俺が悪い、それは事実だ。そして一つ見誤っていたことがある。


 それは才能という存在の大きさだ。


 俺の中で才能とは、言ってしまえばRPGなどのゲームにおけるスキルのようなモノと考えていた。仕様だけで考えれば、その認識は間違っていない。ただ間違っていないだけで、正しく理解していなかったのだろうと思う。

 彼女は言い過ぎたと言っていたが、彼女の「暗殺者以外の仕事ができるわけない」という発言からも読み取れるように、この世界の人達にとって才能は絶対的なモノなのだ。

 才能がその仕事に向いていないなら、向いている才能を持った者に劣ることが確実となる。それでもやりたいのなら茨の道を突き進む覚悟が必要になるが、もちろん不可能というわけではない。ただし成功するという保証が全くなく、加えて成功したとしても他には必ず劣るのだ。無論発想の転換で成功した、という人も中にはいるらしい。ただそういう人物は得てして有名となり、伝説として語り継がれることになる。


 つまり才能の活きない仕事に就くのは無謀、とこの世界の人々はほぼ断言できるわけだ。


 加えて俺はこの世界に来てから、自分から誰かに話しかけようとしてこなかった。俺が人見知りだからとか、結局ドモって話にならないだろうからとか、そういう理由でだ。それで死の寸前まで追い詰められていれば世話ない。ただ俺も死にたいと思っているわけではなく、本当に最初モンスターに襲われた時は勝手に身体が動いた。要は本当に死ぬ直前にならなければ、自分で動こうとしなかったわけだ。

 それで社会に出て通用するかと問われれば、通用しないと断言できる。

 日頃から努力と頑張りを積み重ねていかなければ切り捨てられるだけ。それが根本的な部分で理解できていないのだろう。社会に出ていなくても部活でレギュラー争奪などを行っていれば理解できるかもしれない。しかし俺にはそういう経験もなく、ただのうのうと生きているだけだった。その感覚から未だ抜け切れていないのだ。


 選択肢がないから暗殺者をやる。それはいい。ただしそこにやる気が込められていなかった。


 仕方ないから、ではなくやるしかないから、に変えるとでも言うべきか。


 なんにせよ、俺がこれから暗殺者としてやっていくのなら、精神状態から変えるべきだ。


 叱られる内が華、という言葉もある。アネシアさんに完全に見限られる前に行動で示さなければ、俺は終わるだろう。

 両親が俺を叱ってくれたのは小学生までだったか。叱っても反応が返ってこないと見るや、叱らなくなった。高校生となった今では無駄に学費を払わせるだけのお荷物だ。もう、家族としての情なんて存在しないだろう。だが両親を責める気はない。当たり前だ、俺が悪いことは自覚している。叱られても見限られても全く行動を起こさなかった俺が悪い。


 むしろこっちに来るまでの間ずっと家に置いてくれただけでもいい親だと思う。とっくに追い出されても不思議じゃなかった。


 過去のことは思い返しても俺の悪いところが見えるだけなので、今は置いておこう。


 俺の性分からして、言われた通りに「じゃあ頑張ろう」と思ったところで思うだけに留まると思う。


 これがあれば俺は頑張れる、というようなナニカを見つけなければならない。


 ……あるのかね、そんなモノ。


 早々不安になってしまったが、兎も角考えてみるしかない。

 俺がこの世界で生きていくためには、頑張ってコミュ力を身に着けるか暗殺者としてやっていくかの二択しかない。どこかの店でバイトとして働いて過ごす、という手もあるにはある。『家事』の技能を会得したので、多少はアドバンテージになるはずだ。もちろん才能はないので大きな成功を収めることはないだろう。だが、生きていくだけならそれでも可能なはずだ。残る問題はただ一つ、俺のコミュニケーション能力にある。店で働くのなら、少なくとも店長や他の店員と一からコミュニケーションを取れなければやっていけないだろう。周囲と連携して店を回す、それが極度の人見知りを有する俺にできるとは思えない。だがもしかしたら、コミュニケーション能力が低いのでそういう現場で働いて身に着けたい、という理由で応募したら長い目で見つつ働かせてくれるかもしれない。これは元の世界の就職やアルバイトにも言えることだ。

 俺のコミュ力では必ずと言っていいほど面接で落とされるだろう。だが明らかな欠点だと相手がわかるモノを直したいんです、という風にすれば余裕のある店なら最初は大目に見てくれる可能性もある。それでも落ちたら店にそんな余裕はないということだ。


 しかし結局のところ、俺にコミュニケーションを取ろうという意思がなければやっていけないことにはなる。その点で言えば、正直なところ人と関わるのは極力減らしたいと思っていた。我が儘な話だが。

 暗殺者としてやっていくのなら、ある程度打ち解けた(?)アネシアさんと仕事ができるのでコミュ力という点で多少はマシだ。色々と暗殺に必要な道具を揃えるにも彼女がサポートしてくれると思うし、俺の欠点をアネシアさんが考慮した上で暗殺者にならないかと持ちかけてくれていた。

 あまり良くはないが、消去法で決めるなら確実に暗殺者だ。ただ決めたからと言って頑張れるほど俺は人間が出来ていないのだが。


 ふと、俺の中に一つの疑問が湧き上がった。


 ……はて、なんで俺は生きようとしてるんだろうか。


 と。

 俺には夢も希望も生きる目標も目的もない。ではなぜそうまでして生きようとするのか。

 疑問として浮かんだので少し考えてみたら、意外と簡単に判明した。


 ――死にたくない。


 それが俺の生きている理由だ。

 なんとも情けない理由だった。例え俺が死んだところで世界に欠片も影響がないのにも関わらず、それでも死ぬのは嫌だという理由だけで生き続ける。なんと無様なことか。


 最初、モンスターに襲われた時もそうだ。

 明確な敵意、殺意を感じて逃げようと動いた。あれは食われて死にたくないからだった。牙が身体に食い込む痛みとかを味わいたくないからだった。

 あの時モンスターの口が迫ってくる光景を思い出すと今でも背筋が寒くなる。俺は元来臆病な人間だ。あんな怖い思い、二度としたくなかった。そういう点では力を持っているとしても工藤が凄いと思う。対処できるとわかっていても行動できるかどうかは別だ。俺には到底できそうもない。


 ホームレスをやっていた時もそうだ。

 すぐに死ぬ、という危機感がなかったから人に話しかけるという行動を起こさなかったとはいえ、死なないようにゴミ箱を漁って暮らしていた。あれも思い返すと餓死したくなかった故の行動だと思う。

 必要に迫られて他の浮浪者と同じくゴミ箱を漁るという方法を思いついたものの、最初は嫌で嫌で仕方がなかった。腐ったゴミの匂いを嗅いで吐きそうになり、というか吐いて、ただ吐き出さないようにはして勿体ないからとそれを飲み込んだこともあった。漁ってなにか食べなければこのまま死んでしまうから、だからそうした。そうするしかなかった。

 今思い返してみれば、多少記憶の曖昧な時期があるものの後半は酷かった。なにせ溝に手を突っ込んで蛙を掴み、そのまま口に入れて食べていたくらいだ。どう考えても頭がおかしくなっていたとしか思えない。

 今は治っているからいいが、あの頃の俺の腕はほとんど骨と皮だけだったように思う。腕を持ち上げて鍛えられた今のしっかりとした様子から、一瞬あの頃の細い腕がフラッシュバックした。


 ぞっとする。手が震え始めていた。手を引き寄せてもう片方の手で掴み、今の健康的な身体を実感する。


 ……もう、二度と味わいたくない。


 辛かった。辛い思いをしても死ぬ直前はこれ以上辛いのだろうと思って必死に生きようとしていた。


 ……嫌だ。俺は、死にたくない。


 それが多分、俺が抱える中で最も大きな感情だ。

 死への恐怖が心の底に根を張っている。


 思い出しただけで冷や汗を掻いて恐怖に震えるくらいだ。これだけ大きいモノが相手なら、いくら行動してこなかった俺でも動かざるを得ないだろう。


 そう思うと自嘲気味な笑みが零れた。


 随分と情けない理由だ。だが、俺が情けないことなんてもう充分にわかっている。

 人に話しかけようとして失敗して、人に話しかけられて失敗して。それら他の人が知らないような情けない姿も、誰より俺がずっと見てきたのだ。


 異世界に来て環境が変わったからと言って、人間が変わらなければ成功はしない。成功したならきっと、元からできる人間だったというだけの話だ。

 むしろ異世界に来てまで情けない理由を掲げて生きていくなんて、俺らしくていい。


 それくらいが、俺の身の丈に合った目標だ。

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