8

 トーノと出会って一日目――その、出会う数分前。

 初めて学校をサボったオレは、立ち入り禁止の看板を踏み越え、とにかく誰にも見つからないよう奥へ入り込んだ。

 条件に合う木。それを探し求めて。

 理想的な木はすぐ見つかった。ロクに剪定されていないおかげで葉が生い茂り、幹も枝も申し分なく太い。

 ここにしよう。

 そう決めて学生鞄を開ける。弁当箱の横に丸めて束ねたロープがあった。家から持ってきたものだ。

 踏み台の代わりになりそうなものを探していると、ふいに後ろから声がかかった。


「ねぇ、そこの君。そんなことをする前に、ちょっと、俺の命をたすけてくれないかな」


 まったく予期せぬ他人の介入に、口から心臓が出るかと思った。

 振り向いて目を凝らすと、男が横たわっていた。そいつがトーノだった。

 咄嗟にロープを茂みの中に放り投げると、悪巧みを見咎められた子どもみたいにドキマギしながら返事した。

「そんなこと、って……?」

 見られた。止められる。理由を追及される。

 そう怯えていたのに、トーノは途切れがちに言った。

「そんなことはそんなことだよ……そこ、その辺にある、薬をとってくれないかな……」

「薬?」

「俺の命を繋ぐ薬なんだ。それを飲まないと、……っ!」

 トーノは胸を抑え、何かに耐えるように息を詰めて全身を強ばらせた。腹がめちゃめちゃ痛い時によくやるポーズに似ていた。

 苦しげな吐息に急かされて、オレはためらいつつも薬を探した。ヤツの言うとおり、ピンク色のピルケースが即座に見つかった。

 拾い上げると、恐る恐るトーノに近づき、「これでいいのか」と声をかけた。


「……飲ませ、て」

 紙のように白くなった顔で頼まれた。

 つるんとしたラムネみたいな薬を一錠だけ出すと、半開きになったトーノの口の中に入れた。紫色になった口唇に、指先が触れたのを覚えている。

 喉仏がゴクリと鳴り、胸が上下した。水がいるかと思ったが、無事飲み下せたようだ。

 しばらく苦しげに喘いでいたが、おもむろに呼吸音が正常になり、硬直していたその身体がゆるくほどけていった。

 ロウソクを吹き消すような細い息を吐き、トーノはまばたきを繰り返すと、ゆっくり上体を起こした。

 そしてぎこちない笑みを向け、


「どうもありがとう。助かったよ。君は命の恩人だ」


 演劇の台詞のような、虚構めいたお礼だった。

 落ち着いて見ると、その容姿も舞台俳優みたいに整っていることに気づいた。


「恩人さん、名前は? 俺は遠野永一郎」

「千風……享」


 夢かと疑うほど現実感の無い展開のせいで、頭がぼぅっとしていた。

 訊かれるまま答えると、トーノがちょっと驚いたように眉を上げた。

「ちか、ぜ。――可愛い名前だね。千風って呼んでいい?」

 名前ではなく名字の方を可愛いって言うのは、珍しいんじゃないか。

 この時点で、変わったヤツだという印象がついた。

 それに何だmさっきまで死にそうだったのにこののほほんっぷりは。元気じゃねーか。

 戸惑うオレに、

「千風は、何でこんなところにいるの? ここは病院の敷地内で、しかも立ち入り禁止区域だよ。無断で入ってきたのなら不法侵入で、警察を呼ばれてしまうよ」

 幼児を叱るような口調で、斟酌のないド正論を言われ、カチンと来た。救けてやったのにこの言い草。

「何だよ、口止め料でも払えってのか」

 そんな発想が出たのは、ひとえに前日の夜に起こった親との言い争いのせいだった。

 口止め料、つまり金。金、金、金! その圧倒的な威力に打ちのめされていたオレは、嫌悪感をめいっぱい込めて吐き捨てた。


「あいにくオレは金なんか持ってねーよ! ほら!」

 と言って鞄をわざわざ取りに行き、スカスカの中身を披露する。

 今朝は家族の誰とも顔を合わせたくなくて急いで出た。うっかり財布を入れ忘れ、教科書と弁当くらいしか入ってなかった。

「じゃあ、これで黙っておいてあげる」

 オレの剣呑な態度にも怯まず、トーノはひょいと弁当箱をつまみ上げた。

 母さんの手作り弁当。昨夜あんなに揉めたのに、オレはひどい言葉を投げつけたのに、母さんはいつもと変わらず用意してくれた。つい習慣で、ひったくるように持ってきた弁当。


「いいかな?」

 トーノが窺う。

「……いいよ」

 オレは微かな胸の痛みを覚えながら、そう答えた。


「いただきます」

 言うが早いか、トーノは遠慮なく弁当を食べ始めた。

 さっきまで死にかけていたくせに旺盛な食欲で、あれは演技だったのではと疑心暗鬼になった。

「うまいー。ハムの入った玉子焼き、甘ったるいミートボールに、ちくわきゅうりがうまじょっぱくて、ふりかけだらけの米も全部うまい。死に損なった後だから余計に」

 オレの心を読んだとしか思えない言葉に、ギクッとなる。

「さっきは本当に助かったんだよ。まだしゃべられるうちに服用できてよかった。俺、あの痛み止めがないと死ぬんだ」

 と、座り込んだオレの足元にあるピルケースを箸で指し示す。


 あっさりと出てきた『死ぬ』という単語。昨日までのオレの日常ではどうってことなかったのに、それは今や身近で、実感を伴っていた。

「痛すぎて死んじゃうんだよ。そういう病気で病状なんだ」

「病気……?」

「うん」

 あっけらかんとしすぎているから、まだ少し疑っているけど、どうしても訊きたいことがあった。


「……死ぬほどの痛みって、どんなのなんだ……?」

「うん? そうだなぁ、死ぬほどの痛みっていうより、死んだ方がマシな痛みって感じかな。痛いのから逃れたくて、身体が死ぬことを選ぶ、みたいな」


 その答えに、オレはしばらく動けずにいた。

 苦痛から逃れるために死を選ぶ。

 まさにそれは、オレのことだったからだ。


 そう。


 オレはその時、自殺しようとしていたんだ。

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