7

 五日目の今日も、トーノと平穏、かつ、ぐーたらに過ごした。

 クラスメイトが真面目に勉強しているのに、世の社会人が懸命に働いているのに、我ながら結構なご身分だ。

 自嘲しつつも、明日の口止め料のことを考える。財布を覗くと数枚あった札がすべてレシートに変わっていた。この数日間で結構な出費をしてしまった。

(金か……)

 この世でもっとも強い存在感を放って、現実感のある代物。

 一度連想すれば否応なく引き戻される。

 ……このオレの、『現実』に。


 キリッと胃に痛みが走った。制服のネクタイを外して、ベッドに横になろうとした時だった。


「享兄ちゃん」

 妹のひとりが、ドアの隙間からこちらを覗いていた。

享子きょうこ、どうした?」

 ただならぬ様子だった。通学帽も脱いでない享子は、ランドセルの肩かけヒモをぎゅっと握り、小刻みに震えながら言った。

「パパ、呼んでる」

 一瞬で、さぁっと血の気が引いた。

 まだ十九時前なのに。

 父さんの早すぎる帰宅に、嫌な予感しかしない。


「……この間の、怖いおじさんと一緒」


 予感は的中した。

 即座に胸の中に暗澹とした闇が広がる。

 眩暈を覚えていっそ気絶したかったけれど、どうにか堪える。


「享子。享絵ゆきえたちは?」

「ママと一緒におばあちゃんち……享子だけ、帰ってきたの」

「そっか」

 気がかりが晴れると、オレはクローゼットを開けた。ぐちゃぐちゃに物を詰め込んでいるが、享子ひとりぐらいは身を隠せる。

 携帯電話とイヤホンを渡し、クローゼットの中に入るよう促す。

「それで好きな動画見て待っとけ。いいか。兄ちゃんが来るまで絶対出てくるなよ」

 享子は素直にコクッと頷いた。その拍子に、瞳に溜まっていた涙があふれてこぼれ落ちる。

 クローゼットを閉めて、念のために部屋の外から鍵もかける。

 深呼吸をしたけどうまく吸えず、息苦しさを感じながら、オレは父さんたちが待っているだろう階下に向かった。



 五月晴れの見事な今日は、トーノと出会って六日目。

 いつもの倍の荷物を抱えて、『つばき産婦人科』内に不法侵入する。

 満開だったバラやツツジが、徐々に枯れてきている。

 代わりに紫陽花が、花を咲かせて観賞される準備を整えていた。

 季節はごく自然に、さりげなさを装いながら変わりゆく。

 春を少しずつ否定して、初夏に変わる。

 心なしか緑が濃くなった植え込みの間をすり抜け、いつもの場所に到着する。屋根がないこの場所は、夏になればさぞや暑いんだろうと想像した。


 オレの姿を認めたトーノが読書をやめて、言った。


「やぁ、千風」

「『来てくれて嬉しいよ』、だろ?」


 台詞を先取りしてやった。トーノはオレの些細なイタズラに、口のはしっこをニッとつり上げた。

 オレも笑い返そうとしたけどうまくできそうにないので、単刀直入に用件に入った。

「今日の口止め料と――これ、やるよ」

 うちの近所にある、子どもの頃から通っていたパン屋の袋と共に、紙袋を渡す。中身は制服の夏物ワイシャツだ。

「冬はともかく、夏は毎日換えとけ。せっかくイケメンなんだから身だしなみはきちっとしとけよ」


 何で?


 と、力の抜けた声音でトーノが問う。予想どおりの反応だ。昨日必死で考えた文章を淡々と口にする。


「オレさ、転校するんだ。親の都合で。だからここに来るのも最後」

(あー声震えてるなぁ)

「財布的に痛かったけど、まーまー楽しかったよ」

 顔が引きつってるのが自分でも分かるし。初めて知った。オレって嘘が下手だったんだ。

 これ以上ボロを出さないように、さっさと切り上げることにする。

「じゃあな、トーノ。元気でな」

 病気でもうすぐ死ぬヤツに、この台詞は無神経かな――とは思ったけど、一秒でも早く立ち去りたい。本当は行きたくないけど。

 なのにトーノはオレの腕をつかんだ。強い力で。強い瞳で。


「千風……」


 読んでいた本を投げ捨て、トーノは立ち上がってオレの腕を引っ張った。

 痛い。そして近い。

 至近距離でオレを見据え、穏やかさの失せた声音で問うた。



「手首を、切るの?」



 思いがけない言葉に、理解が遅れた。


「刃物で手首を縦に切るの? 高い場所から飛び降りるの? 猛スピードで走る電車や車の前に飛び出すの? 胃が破裂するまで睡眠薬を飲むの? 目張りをした部屋で炭を焚いて閉じこもるの?」


 トーノは次々と捲し立てた。『ある目的』を遂げる方法を。

 真剣な顔つきで、でも少しずつ、苦々しくなっていく。


「それともまた、木にロープを垂らして、首を吊るの」


 ……口にするのも辛そうに、訊いた。


「初めて会った時みたいに」


 ぎゅうっとトーノの手がオレの腕を強く握る。爪が食い込んで痛い。その痛みが、五日前の出来事――トーノと初めて会った時の場面を想起させた。

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