3

「よく寝た……もう昼?」

 日がずいぶん高くなっている。

 トーノはオレが頭を乗せていた部分の足を、名残惜しげに撫でて、頷いた。

「オレもメシ食お」

 学校指定のボストン型の鞄から弁当箱を取り出す。

 母親お手製の弁当はずっしりと重かった。完全に冷めた昼飯は、おかずも米もちょっと右に寄ってしまっている。

 箸を持ったところで、視線を感じた。

 トーノがオレを、というかオレの弁当をじぃっと見つめていた。

 試しに唐揚げをつまみ、わざとトーノの目の前で左右に動かす。

 それに合わせてトーノの目線も動く。さっきはオレを子犬扱いしたのに、今はおまえが犬か。ジャーキーを持った飼い主にもてあそばれる飼い犬か。


「食う?」

「え、いいの?」


 遠慮とかしろよこの食いしんぼ野郎。

 言うが早いか、トーノは唐揚げをそのままパクッと食べた。

「すごい、冷めても柔らかい。千風のお母さん、料理上手だね」

「それ、冷凍食品」

 毎日ほぼ同じメニューなので、オレ的には飽き気味の唐揚げを、トーノは心底うまそうに食う。

「最近の冷凍食品やばいねー」

 なんて抜かして。


(……そういえば)


 最初の『口止め料』も弁当だった。


 思い起こせば二日前。学校をサボったオレは、あてどなく通学路を彷徨っていた。

 平日の昼間に、制服姿でウロウロするのは目立つ。

 かといって着替えなんかない。通学路を行ったり来たりすることで、「遅刻したんです」のていを装って、補導を免れようとしていた。

 だけど疲れて、いい加減落ち着きたくなった。


 ――どこかに隠れたい。


 ゆっくり座れる場所を探して、手近にあった建物……『つばき産婦人科』の裏に回った。

 奥へ奥へ、ひとけが完全に途絶えて、ひとりきりでいられる場所を求めて。

 辿り着いたのが、植え込みだらけのここだった。建物の外観の繊細さからは信じられないような、乱雑で手つかずな、誰からも忘れられ誰からも省みられない庭。

 その瞬間、心の底からホッとした。

 ……のも束の間、そこには先客、つまりトーノがいた。


 ――「ねぇ、そこの君。そんなことをする前に、ちょっと、俺の命をたすけてくれないかな」


 変てこな第一声の変なヤツは、『命をたすけた』後、自己紹介すると脅してきた。

 ここは病院の私有地だから、勝手に入ったら不法侵入だとか何とか。

『命を救けた』恩人に対して何たる言い草だとムカついた。


 ――「口止め料でも払えってのか。あいにくオレは金なんか持ってねーよ。ほら!」


 と、キレて鞄を開けて中身を見せつけた。

この日は財布を忘れたのだ。

 中を覗き込んだトーノはにっこりと笑った。オレはその笑顔にうっかりドキッとしてしまった。

「じゃあ、これで黙っておいてあげる」

 そう言ってヤツが長い指でつまんだのは、弁当だった。


(……思えば最初から、マジのガチで変なヤツだった……)


 たった二日前のことなのに、ずいぶん昔のように感じる。

 トーノはオレの弁当をまるごと奪って、ルンルンとかっ込んでいた。いちいち味の感想を言うのが面白くてめんどくさい。

 少し強い風が吹いた。木々を揺らし、落ち葉を舞わせる突風は、オレの髪をなぶった。

 けれどすぐに穏やかな風に戻り、頬を撫でてくれる。

 空は快晴で、陽射しはぽかぽかしていた。生ぬるく平和な、五月の風景。

 時間を忘れそうな空間だった。

 ここだけ別世界みたいだ――なんて。

 今まで百回は目にしたありふれた表現を、まさか自分が使うとは。

 ここ最近、思いも寄らないことが続いているな、とふと胸に重みを感じた。


 それから、記録に残すまでもない無駄話をして、ふたりで無為に過ごした。

 夕方も過ぎ、辺りが暗くなると、オレは根っこが生えそうなくらい重い腰を上げた。

「ケツ痛ぇー。コンクリ固すぎ」

「大丈夫? さする?」

「ごめんマジ意味分からん」

 トーノの真顔の謎提案に、遠慮しますと手で制した。ズボンの砂埃を払うと鞄を肩にかける。

「千風、明日の口止め料は米系がいいな」

「来ること前提かよ」

「来ないの?」

「……行くよ」

 などと答えれば、薄闇の中でもはっきりと伝わる歓喜の気配。

 別に変な趣味はなくても、ここまで露骨に喜ばれたら、悪い気はしない。

 つまり、オレも嬉しかった。

 いつまでも手を振って見送るトーノを背に感じながら、来た道を行く。

 幸い、大人に見つからずに外に出られた。同じ高校の生徒をちらほら見かける。今は部活残留組の下校時刻なのだ。

 さりげなくその中に混ざる。これでもう怪訝な目で見られることはない。

 イヤホンを取り出し、携帯電話で音楽を聴きながら、ごく普通の高校生の装いでオレは帰路を辿った。

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