第3話(終) お湯の温度と接し方

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「――さま、お客さま」

 気遣わしい福富の声で、我に返る。俺は湯呑を持ったまま、お店のカウンターに座っていた。

「あの、今、俺」

 トンネルから出てきた後のような感覚の中、戸惑う俺に向かって福富は「まずは一服、いかがですか」と促した。彼の目線は手に持った湯呑。お茶を淹れたばっかりだったと思い出し、口を付けた。

 やはりおいしいのだけれど、今は苦みがどこか辛い。

 福富は「ご説明しても?」と小首をかしげたので、無言でうなずく。

 おそらく、彼は事情を知っているはずだ。

「実は、このお店は、心にくすぶりを抱えた人にしか入れません。そして、先ほどお客さまのいた場所は、お客さまの世界を、別の角度から見たものです」

「心のくすぶり……? 別の……角度? 世界?」

 福富の言うことは、常識では考えられないことだった。ほとほと理解が追いつかず、頭の中にはとにかくクエスチョンマークしか浮かばない。

「説明が難しいのですが、記憶と感情が混じり合った別の世界、とでも言いましょうか。少なくとも、今ここにある世界とは違います。ですが、お客さまが先ほど受け取っただれかの感情は、妄想でも作り話でもなく、本当のもの。それだけは、信じてくださるとうれしく思います」

 つまり、俺は普通では見えない不思議な店に入り、不思議な世界に行き、斉藤の心の声を聞いた。心の声は真実なのだと、福富は言っている。

 そこで、さっき福富の言った「心のくすぶり」という言葉が引っかかった。俺がこの店に入れた理由だ。

「じゃあ、福富さんは、俺がその……くすぶってるって、ご存じだったんですか」

「さすがに、具体的な事情まではわかりません。ですが、ここに来る人はたいてい、体も心も休息が必要な人ばかりです」

 手元の湯呑を見た。不規則な生活、すさんでくすぶった心。まさに、それは店に入ったときの俺だった。

「悩みや苦しみをどうするかはご本人の気持ち次第ですが……僭越ながら、おいしいお茶とおにぎりで、そのお手伝いができたらと思い、私はこうしてカウンターに立っています」

 思い出すのは、うま味と甘みのある一煎目、さわやかさの二煎目、そして、お米のおいしさが詰まったおにぎり。再び、腹の辺りがじんわりと温まってくるようだ。

「どうぞ、気持ちが落ち着くまでいて下さってかまいません。もしよろしければ、私を狸の置物だと思ってひとりごとを言ってくださっても」

 自分で「狸の置物」と言うとは。うっかりふき出して、笑ってしまった。古い店先に置いてある、どこか憎めない顔のアレだ。確かに、福富に似ている。

 思えば、ろくな食事もしていないし、寝不足だったのも、無駄な怒りをためてしまった原因かもしれない。

 今は、お茶とおにぎりで体も心も落ち着いている気がする。そして、今、だれかにこの胸の内を聞いてほしくなった。

「すいません、笑ってしまって……。あの、話を、聞いてもらえますか」

 もちろん、と福富が言う。俺は、今までのことを話し始めた。

 


 福富は時折相づちをしつつ、俺の話に黙って耳を傾けてくれた。最後に一言「それは、大変でしたね」と言い、そっと微笑むだけだった。

 だが、今の俺にはそれだけでよかった。否定せずに話を聞いてくれる……ただそれだけで、くすぶりが消えているようだった。

「――ああ、なんか、すっきりします」

 俺の手には、ほかほかと湯気を立てる湯呑がある。

 三煎目のお茶は、保温ポットから直接急須に注いだものだ。

 味は、俺が今までイメージしていた日本茶特有のさっぱりした味わいで、食後に飲むお茶としてとても合っていた。

 それを話すと福富は「そうですよね」と言った。

「それに、だれかに胸の内を話すというのは、ストレス解消の一つではありますし。あと、先ほどお話したテアニンには、リラックス効果があるんです。だから「世界」に入りやすくなるんですよ」

 と、教えてくれた。

 世界うんぬんは信じ切れないが、一煎目を飲んだあとの心がほぐれる感じは、テアニンのおかげだったとわかり、感心してしまう。あのうま味を思い出すと、このすっきりとした三煎目と同じ急須で淹れたとは思えない。

「日本茶ってすごいですね。温度や淹れかたで、こんなに味が違うなんて」

「ええ。同じ茶葉でも、最初から熱湯で淹れてしまうと、苦みだけが出てしまい、本来のうま味を出すのは難しいのです。適切なお湯の温度や量、抽出時間を守れば、楽しいひとときを過ごせるのが、お茶の楽しみです。――それはもしかしたら、人と人との関係も、似たようなものかもしれません」

 福富がしみじみと語った最後の言葉に、俺は息をのむ。

「関係、ですか」

 ええ、と福富はゆっくり頷く。

「三煎目のお茶は、お客さまのようにすっきりと感じることもあれば、その熱さと苦さにやけどをしたり、苦みだけが口の中に残ってしまうこともあるかもしれません。余談になりますが、苦みの元であり、覚醒作用のあるカフェインや、渋みの元であるカテキンが抽出されるのは、高い温度のお湯です。それらは時に気持ちを奮い立たせ、大きな力を生み出しますが、その逆もしかりです」

 淡々と紡がれた言葉の意味を考える。

「対応次第で、相手も変わる……」

 もう少し落ち着いて、斉藤の様子を見ていれば。一言、困っていそうな部分を聞けていたら。

 もしかしたら、上手くいくのかもしれない。

 お茶を飲む。頭の芯も、体も、そして心もすっきりするような感覚。

 すべて飲み干したあと、はっきりとした声で言いたくなった。

「ごちそうさまでした」

 湯呑を置き、手を合わせる。

 すると、景色が突然、揺らいだ。驚いていると、

「お帰りですね」

 と、福富の声が聞こえた。

「またお越しくださいとは言いづらいお店ですが、困ったときは、またおいでくださいませ……お茶のしずくは、貴方のそばに……」

 だんだんと遠くなっていく声をききながら、俺の意識もまた、眠るように遠くなっていった。

 

 :::


 会社の会議室。簡素な机を挟んだ向こうに座るのは、俺の後輩である斉藤だ。

「これ、先輩が淹れたんすか」

「味は期待しないでくれ。何度か練習したんだが、やっぱプロみたいにうまくいかないや、ハハ」

 俺らの前に置いてあるのは、緑色の水色すいしょくが綺麗なお茶が入った湯呑。

 あの不思議な日本茶カフェ「九十九ふくふく堂」に迷い込んだ次の週。俺は午後の小休止に、斉藤に声をかけた。日本茶を淹れるから、少し付き合ってくれないか、と。

「なんで、日本茶なんすか」

「いや……最近、日本茶にハマっていて」

 俺はあの日の夜、いつの間にか家に帰っていた。夢かと思ったが、手に握っていた「おみやげです。九十九ふくふく堂」の手書きメモがついた煎茶の小さな袋が、夢ではないと証明していた。

 それ以来、俺はあのお茶の味が忘れられず、休みの日に茶器と茶葉一式をそろえてしまったのだ。

「俺も斉藤くんも忙しいから、少しは気分転換になると思ってさ」

 努めて明るく言ってみせると、斉藤はどこか疑り深い表情になった。

 以前の俺なら、悠長に休むことなど考えられないからだろう。だが、今の俺と斉藤の間には、こんな時間が必要だと思っていた。

 俺はまだ、斉藤に謝っていない。

 湯呑のお茶に口を付ける。福富の淹れたお茶には敵わないが、それでもさわやかさとほんのりとしたうま味が、俺の背中を押してくれた。

「今さらなんだが、先週は話も聞かずにダメ出しばかりして、すまなかった」

 それから俺は、作った設計書が間違っていたのに斉藤のせいにしたこと、自分の苛立ちから不親切に対応したことを詫びた。

「一年目で不安だらけなのに、変な気を遣わせて、悪かった」

 頭を下げた。顔を上げると、斉藤はあっけにとられた顔で俺を見ていた。なんと言っていいからわからず、俺はまたお茶を飲むしかなかった。

 すると、斉藤は湯呑を手に持ったまま、ぼそりと言った。

「また俺がなんかやらかして、怒られるんだと思ってました」

「やらかしたのは俺だよ。切羽詰まってたからって、後輩を萎縮させてたんだから」

 少し自虐的な笑いが、ハハ、と、漏れる。この時間も、一方的な自己満足にしかならないかもしれない。それでも、お茶で少しでも気持ちを和らげてくれたら、と思ったのだ。 

「まあ、とりあえず、一口どうぞ」

 照れ隠しのために、お茶を勧めた。「いただきます」と、斉藤がおそるおそる口を付けると、眉がぴくりと動いた。

「どう、かな」

「……うまいっす」

「そっか、よかった」

 俺も自分の湯呑に口を付ける。どちらともなく、ほっとした吐息が漏れる。先輩、と斉藤が言った。

「俺も、きちんとわかんないとこ、聞くんで。改めて、よろしくお願いします」

 湯呑を持ったまま、斉藤はちょこんと頭を下げる。

「ああ、よろしくな」

 今日の茶葉は「九十九ふくふく堂」のもの。行きたいと思っても行けない店なんだろうけど、それでも、もしもう一回行くことがあれば。


 福富さんと、お茶の話がしたいと思った。


:::


 しゃっ、しゃっ、しゃっ、と、軽快な音が「九十九ふくふく堂」の店中に響く。

 福富が、煎茶を炒ってほうじ茶にしている音だった。

 ほうじ茶特有の甘さと香ばしさの入り交じった香りが、店内に満ちていく。

 ――いい香りだなぁ

 だれもいないはずの店内に、福富の声とは違う、しゃがれた老人のような声がした。

「最近、炒る暇がなかったですからねえ」

 ――なあ福富、それが終わったらワシの茶渋を取ってくれねえか

「いいですよ。綺麗にしてさしあげます」

 ――しっかし、人間ってのは、ほんと難儀な生き物だよなあ。自分も相手も傷つけて、勝手に機嫌を悪くして

 しばらくすると福富は火を切り、香りよく炒られた茶葉を紙に広げる。焙烙ほうろくを片付けると、戸棚に置いてある黄金の急須に手を伸ばした。そして、手中の急須をつるりとなでる。

「あ、見て下さい。あのお客さま、おみやげにお渡ししたお茶、飲んでくださったみたいですよ……茶器までそろえて……うれしいなぁ。こんなに優しいお顔に」

 カウンターの釜の中、ポコポコと小さな沸騰の泡が浮かぶ水面には、茶器をそろえていそいそとお茶を淹れる、くつろいだ表情の男性が映っている。

 先日雨の日に店を訪れた男性……森本である。

 ――こりゃあまあ、すごい変わりようだな、オイ。店に来たときは、目の下にクマはあるわ、始終不機嫌そうな顔をしとったっていうのに

「確かに人間は難儀です。ですが、彼は気持ちの切り替えを知り、相手に歩み寄ろうとしています。再び困難もありましょうが、そのとき、立ち止まれる余裕を思い出していただけると思います。ああ、だから人間は愛おしい。そう思いませんか、コガネコヅチ?」

 ――お前、本当にお人好しだな

 コガネコヅチ、と福富が呼ぶのは、まさに手にした黄金の急須であり、姿なき声はここから聞こえているのだった。

 コガネコヅチの呆れた声に、福富は困ったように笑う。

「お人好しで結構です。心のくすぶりを抱えた人々の休息所であるこの店を開くのは、付喪神たる私たちのお役目ですから」

 ――おーおー、さすがは雨の日も風の日も店の前に立ち続ける根性のあるド真面目な、元・狸の置物の福富くんらしい台詞だねェ?

「意地悪なことを言うんですね、昔は立派な「打ち出の小槌」だったコガネコヅチさん? プライドも綺麗さっぱり洗ってさしあげましょうか。大丈夫です、その鼻持ちならない気品は洗っても消えるものではないと思うのでご心配なく」

 ――言うじゃねえか、古狸

 ケケケ、とコガネコヅチがからかうように笑う。

「まかりなりにも付喪神ですからね」

 長い年月を経て、使い込まれた「モノ」には精霊が宿るという。彼らは力を得た存在であり、こうして人の世界の狭間で過ごし、時に人間に干渉する存在なのである。

 福富は、店という形で人を囲い、お茶とおにぎりで体と心を癒す力を。

 コガネコヅチは、世界を行き来し、記憶と感情の世界へいざなう力を。

 ――……っと、おい、来たぞ。ちっ、ワシの茶渋取りはまた今度か

 コガネコヅチの声に、福富は「どうやらそのようですね」と顔を上げる。

「いらっしゃいませ、お客さま」

 重たい扉を開ける音が響く。


「九十九ふくふく堂」が開店するのだった。


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