第2話 日本茶を淹れたら別の世界に行った件について
というかこれはいわゆる「日本茶」なのかと、まずそれを疑った。自分の知る日本茶というのは、熱くて渋い味わいが広がるものだと思っていた。最近でこそペットボトルのお茶にうま味や甘さが書いてあるが、そんなことを気にしたことは、正直ない。
が、これはどうだろう。
じんわりと舌を駆け巡るような甘さとうま味。苦みはないとは言わないが、うま味や甘みを邪魔しない程度に、日本茶っぽいさわやかさがある。
思わず福富の顔を見る。「よろしければ、ご説明しても?」と小首をかしげる様子は、成人男性らしからぬ愛らしささえ感じられたが、今はどうでもよかった。ぶんぶん、と言葉もなくうなずく。では、と若干福富が背筋を伸ばす。
「お茶は一煎目、低温のお湯で淹れるとうま味が多く抽出されます。科学的には「テアニン」と呼ばれる、一種のうま味成分です。今日のお茶は静岡の本山茶といいまして、若々しい香り、澄んだ
淡々としているが、妙に心地よい福富の語りとその内容に、俺はいちいちほぉ~と感心の声を上げていた。
話を聞いてから、再びお茶を飲む。理屈がわかってしまえばなんてことはないのだが、それでもうま味と爽やかさが心地よく、気持ちがほぐれていく。
「お湯の温度って、どのくらいなんですか」
「おおよそ、七十五度くらいでしょうか。沸騰したお湯を急須や湯呑、湯冷ましに注ぐと、一回につき温度が六度から八度からほど下がります。ああ、湯冷ましというのは、急須とお揃いのデザインで、少し大きめの容器のことです」
先ほどのカウンターで行われていた様子を思い出した。あのとき、釜から汲んだお湯は急須、湯呑の順で入れられていた。なぜ何度もお湯を移すのかわからなかったが、そういった理由があったとは。そして、あのスープカップのような容器は、湯冷ましなのか。知らなかった。
さらにもう一口。甘みを堪能してからまた、と口を付けると、中身がなくなっていた。実はまだあるんじゃないか、期待を抱いて湯呑を傾けても、当たり前だが口には一滴も落ちてこない。
そんなあさましい真似をしてもいいと思うくらい、このお茶は衝撃的だった。
「――では、二煎目からは、お客さまご自身で淹れていただきます」
福富は、カウンターからステンレス製の保温ポットを差し出した。
「俺が、ですか? というか、おかわりがあるんですか?」
彼の言葉に、俺は目を丸くした。てっきり、この一杯だけだと思っていたのだ。
「ええ。日本茶は、三煎目まで飲めます。二煎目からは、抽出時間が短いのですぐに飲めますよ」
「でも、俺、日本茶なんかまともに淹れたことなくて」
会社ですら、お茶くみなんていう概念はなく、ペットボトルのお茶か、コーヒーメーカーのコーヒーを出すくらいだ。
戸惑う俺に、福富は優しく「大丈夫です、とっても簡単ですから」と言う。その優しさは「ポットのお湯の出しかたはわかりますか?」から始まったくらいに親切だった。
さすがにそれはわかります、と返したら、
「そうですよね、失礼しました。申し訳ないです、人間が使う道具にいまいち疎いので」
と言われた。最後の部分がどういう意味なのか判断しかねたが、続けて発せられた「二煎目はまた違った味わいなんです~」という弾んだ声にすべての疑問が吹き飛んだ。
一煎目とは違うもの、という言葉に、ちょっと心をワクワクさせながら、ポットに手をかけた。
「まず、湯冷ましに半分くらいまで、お湯を注いでください。……そうです。次に、湯冷ましがしっかり温まったら、お湯を急須に入れてふたをします。こちらの砂時計をひっくり返して、砂が落ちきったら飲みごろです。ほんの十秒ですよ」
福富は小さな砂時計をお盆に置きながら説明した。
手順としてはそこまで難しくない、というのは本当だった。しかし、福富の言葉通りに手を動かすだけなのに、ちょっとだけ緊張する。
「砂が落ちきりましたね。湯呑に注いでください。――最後の一滴まで注ぎきるのが、おいしいお茶になる秘訣です」
最後の言葉は、カウンターで彼を見つめていたときに聞いた台詞と一緒だった。手に持った急須を湯呑に注ぐと、今度は先ほどよりも少しだけ色の濃いお茶が出てきた。
最後の一滴まで出そうと意気込んで、手に力を入れた瞬間だった。お客さま、と福富の声がした。
「できれば、急須は優しく振ってください。乱暴にするとよくないのは、物も人も同じです」
壊れ物をあつかうような、慎重な声音だった。どうしてか、親や先生に怒られたような、そんな羞恥心が広がっていく。
乱暴にするとよくないのは、物も人も同じ。
思い出したのは辛く当たったときの、後輩の顔だった。失望したような、表情を失った暗い顔。
仕事だから仕方ないじゃないか。いつまでも学生気分では困るのに。俺はあえて嫌われ役になるしかないのか――。凪いだ気分がまたささくれ経つような気分になりかけたそのとき。
「大丈夫です。淹れる手順を守れば、お茶はおいしくなります。お客さまなら、できますから。さ、力を抜いて」
にこり、と微笑んだ福富の表情からあふれるのは、底なしの信頼と、肯定。
促す言葉は、とにかく優しい。言葉だけならば、あやしい宗教かセミナーの洗脳にも聞こえる。だが、そこには俺という存在を認め、神様のようなおおらかさと誠実さを向けられている気がして、気味悪さはなかった。
手首の力を抜く。努めて優しく、急須を振った。
「――よっ、と」
ぽちゃん、ぽちゃんと急須からしずくが落ちる。緑の波紋がじんわりと、湯呑に広がる。しずくが落ちなくなるまで繰り返し、急須を置いた。
湯呑を近付けると、鼻に草原のような青い香りと、香ばしさが吹き抜けた気がした。口にすると、一煎目よりも渋みとさわやかさがはっきりとしたお茶の味がする。それでも甘さやうま味はなくなっていない。さっきと同じお茶の葉とは思えなくて、目を丸くした。
「味が、違います。おいしいです」
驚いている俺を見た福富は、そうでしょうそうでしょう、とまるで自分のことのようにうれしそうだ。無邪気な笑顔の後ろに、一瞬だけお花畑のまぼろしが見えそうになった。
「おいしくできたのなら、よかったですー」
にこにこと笑う福富は、やはり不思議と人なつっこく感じた。
「あの……おいしいのは、あなたの教え方がよかったんです。手順は多かったですけど、大丈夫って言ってくれたりしたので」
説明を聞かずに直接急須にお湯を入れていたら、こんなにおいしいお茶にはならなかったと思う。
すると、福富は目を丸くし、やがてはにかんだ。
「あ、あはは……まさか、お客さまに説明を褒めてもらえるなんて。私はただ、おいしいお茶を飲んでほしいだけでして」
ふっくらとした頬を指でかく福富の顔は、ほんのり赤い。
「よかったら、おにぎりも一緒にどうぞ」
まだ赤みの引かない福富に薦められるまま、おにぎりを手に取り、かじる。
香ばしいごまとエビらしき香りの中に、一瞬さわやかなお茶の香りが混じる。海苔の香り、米の甘みも相まって、かみしめる度においしさが、全身に染み渡るようだった。
「これ……マジうまいっす……中身……」
感動で体がわなわなと震えそうだと言うと、大げさかもしれない。
「自家製の、桜エビとお茶のふりかけです」
食べれば食べるほど食欲が刺激される、満たされる。そんな感覚は久しぶりだった。あっという間にすべてがなくなり、惜しむ気持ちを慰めるかのようにお茶を飲む。
さっぱりとしたお茶の味をさらに堪能したくなって、柄にもなく目を閉じた。
腹を満たしたとき特有の多幸感を味わったあと、さあもう一口、と目を開く。
ポポン、と、太鼓のような音が響いた。
「え?」
どこで鳴ったのかと振り返ると、周りの景色がぐにゃり、とまるで波紋のようにゆがんだ。
突然の怪奇現象に驚いて立ち上がると、そこは。
「……会社?」
俺が立っているのは店ではなく、馴染み深い会社の中だった。
:::
状況が飲み込めず辺りを見回すと、仏頂面の「俺」と、どこか苦い顔をした後輩……
これはいったい、どういうことなのか。戸惑っていると、斉藤はちらちらとデスク前の「俺」を見ては、なにかを言いたげにしている。
――設計書通りなのに、なんでこんなバグ出てるんだ? うわ、コード間違ってる
――でも、今聞いたら絶対機嫌悪いだろうな
――自分で考えろって、
――だから聞けない
――聞いたらめっちゃ機嫌悪くなって、ねちねち言われるのがオチだ
突然、斉藤の声が、直接脳内に響いたのだった。えっ、あっ、と声が出たが、だれも俺に気づく様子はない。ためしに手身近なものを触ってみたが、スカスカと透けた。つまり今の俺は、幽霊のような状態ということか。
そして、脳内に響いてきたのは斉藤の心の声……だろうか。
気になって、斉藤に近づく。ディスプレイには、プログラム作成画面が表示されている。
重要な部分が歯抜けになったそれを見ていると、小さくため息をついた斉藤が打ち込み始めた。しばらくしてできあがったのか、俺に声をかける。
「森本先輩。今よろしいでしょうか」
「はぁ?」
――「俺」は、逆ギレそのものの返事をする。
「先ほどのテスト設計書でバグが出たので、チェックをお願いしたいのですが」
「見てわかんないかな。俺、今すっげー忙しいんだけど……ん、なにこれ。どうしてこんなのになった?」
思い出した。手が回らない案件があり、仕方ないので斉藤に自分の書いた設計書を渡したのだが、できあがったものにバグが多すぎたのだ。
「っていうか作ってる間に気づけよ。汚いコードだな」
「……すいません、気づけなくて」
斉藤が、小さな声で謝る。聞いたのは二度目のはずなのに、昼間よりもか細く聞こえた。
それを見た「俺」は、ハァー、とわざとらしいため息を吐く。
「謝ればいいってもんじゃないし。っていうかさー、でたらめにコード書く前に聞けばよかったんじゃん。そんなことも考えられないの?」
斉藤の目が見開き、唇がきゅっと閉じられる。やがて、目には微かな失望の色と、冷たい表情が現れた。
――なんだ、こいつ!
脳内に、斉藤の悲鳴に似た声が聞こえた。
「……ちょっと席を外します」
斉藤はそれだけ言い、部屋を出て行った。「俺」が「なんだ、あれ」と半笑いで隣の社員に言う。
呆然としていると、ポチャン、としずくの落ちる音がと同時に、視界がゆがみ、暗闇に包まれた。
ひとりぼっちになって、頭がすうと冷えてきた。
斉藤の戸惑いや気後れを知った今では、自分がいやな先輩にしか見えない。
冷静に考えれば、設計書は自分の書いたものだ。元々間違っているならば、ミスは作った斉藤だけの責任ではない。
なのに、俺はぐだぐだと怒りにまかせて彼を責めた。自分は炎上案件で忙しいのだと言い訳にして。
あのあと、彼はなにもなかったように戻ってきて、仕事を続けていた。だが、彼は始終無言で、退勤時ですら、一言も発しなかった。
直接響いた斉藤の声。まるで苦いものを食べたように心地が悪い。
助けてくれ、どうにかしたい。
息苦しく思っていると、目の前に黄金の輝きが一つ、見えた。
光に照らされて見えたのは、黄金の急須を手に持った福富の姿。
俺を見る彼は、やはり優しい表情を浮かべている。だが、どこか心が痛む、というような様子だ。それはまるで、俺の胸の内を見透かしているようだった。
すっ、と急須を持つ腕を上げると、小槌を打つような動きをした。
ポポン、と音が響く。すると、急須が一際まぶしく輝いて、視界が黄金色に包まれた。
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