第2話 さくら花の幻惑
この春、ロードバイクを駆って、あちらこちらとつくばの街のさくらを堪能する、そんな贅沢な刻を過ごしてきました。
そんなさなか、まわりをさくら花に囲まれた、とある丘の上で、私は、奇妙な体験をしたのです。
どこをどう走って、そこにたどり着いたのか一向に思い出すことができないのですが、そこで、私は、あの声を聞くことになったのです。
人間は生まれてきたこと自体が「苦」なんだと、そんな女の声であったのです。
たしか、亡くなった祖母もそう言っていたと記憶しています。
しかし、それは「生」を嫌悪してのことではなく、生きるというのは、さまざまな苦痛に耐えて、時には、果敢に戦いを挑んで、それを乗り越えていく、それが「生」なのだということを教えるものでした。
きっと、さくら花に囲まれた丘の上で聞いた声も、意図するところは同じではないかと、私は耳を澄ましていたのです。
人生とはキラキラと輝きのあるものではなく、あるいは、満面に笑みを浮かべて、のほほんとやり過ごすものでもないと、私は愛車マドン号を降りて、360度さくら花に囲まれた丘の中央に立って、思ったのです。
そうではなく、人生とは、それを乗り越えればまた壁がそそり立つようなものであり、一向に安穏としたことが訪れることのない、その繰り返しだと納得して、なぜか安堵の心持ちを抱いたのでした。
この考え方、仕事盛りの頃に、随分と役立ったのではないかと今でも思っているのです。
きっと、この考え方があって、私は、なんとか、自分に与えられた仕事をこなすことができたのだ、だから、学校特有の湿り気のある、あのどろーんとした問題にも対処できたのだと、そう思っているのです。
医者は、多くは体を治すことで、人の精神や心も改善していきます。
学校の教師は、子供の心と直接対峙することで、そして、気配りをこれでもかってすることで、取り返しのつかない事態が発生に至らないようにするのです。
ですから、教師は丹念にものごとに対応することが求められているのです。
言うならば、この世の「苦」を一手に背負っているといってもいいくらいだと思っているのです。
生きて、老いて、病んで、死す。
もう少し大きくなって、自分で書物が読めるようになると、祖母の言葉の、それが原点だとわかりました。
仏教で言うところの「四苦」と言うものです。
人間、誰しも、この「四苦」の中に身を置いているのです。
笑みを浮かべて人に接し、誰からも羨ましがられるような人も、非の打ちどころもなく振る舞い、誰からも憧れの眼差しを向けられる人も、皆、この「四苦」の中に身を置いているのです。
まわりを見回しますと、はて、丘の上には、私の他に誰もいません。
この真っ盛りのさくら花を、誰も見に来ないなんて不思議なことだと思っていますと、また、声がしてきました。
お前は人間道をしっかりと歩んでいるのかって。
人間道というのがあるならば、自分は当然、そうしていると、私は心の中で叫びました。
私は、決して、天上人ではないからです。
さまざまな考え方があるかと思いますが、私がおぼろげに想い続けていたのは、天界があって、人間界があり、さらにその下に、餓鬼道、修羅道、畜生道、地獄道の四つの世界があると言うものでした。
それがいつの頃から、そうではないのではないかと思うようになっていたのです。
人間界で生きるものたちの中に、きっと、餓鬼も、修羅も、畜生も、そして、地獄もあるのだと、そう思うようになっていたのです。
私の中の記憶が、さくら花で囲まれた丘の上でくっきりと蘇ってきました。
足を広げて座る男がいました。
式典会場の狭い折りたたみ椅子に腰掛ける時、これでもかって股を広げて、その男は座るのです。
他人を慮れない男なのです。
でも、周りは、それを注意することをためらいます。
人間関係を慮って、自分の足を狭めるか、そこに近寄らないようにしますが、式典などでは席が決められているからそうもいきません。
そんな足を横柄に広げるような男こそ、慮りのない腹の膨れた餓鬼であると、人間界にも餓鬼がいるんだと、そう思ったことを思い起こしたのです。
そう思うと、そんな餓鬼のような人間、電車の中にも、バスの中にも、映画館の中にも見ることができます。
同級生の悪口を言っていじめをしたあの生徒のことも、ネットで好き勝手にものを言うどこぞ誰かも、同様に思い起こしました。
この手の人間には、人間としての品格がない、きっと、罵倒することだけに生き甲斐をみいだす修羅に違いないと。
そして、意図せず嘘をついてしまう人間もいました。
人間は嘘をつくことと想像すること混同してしまいがちなものです。
嘘は泥棒の始まりであると同時に、嘘は想像から、創造へとつながる、その始まりでもあるのです。
画家は、そこにはない光景を平然として描きますし、作家は空想という嘘の中で物語を作り出します。
でも、誰も、それを悪意のあることだとなじることはしません。
ですから、嘘は、時には方便にもなるのです。
しかし、嘘は、時に世間をごまかすことになり、皮一枚で、善にも悪にもなる、極めて危険な香りのするものなのです。
善なる嘘は、人を喜ばせますが、悪なる嘘をついてしまう人はまさに地獄の中にあるのです。
物語を書いていると、私など、善なるものと悪なるものの境目をいつも行ったり来たりしているのですから、実に、際どい人間だといつも思っているのです。
畜生というものも、私の想念の中にあります。
畜生とは、動物のことです。ですから、人間の語る言葉がわかりません。
人間は、相手を思いやって、言葉をかけることができます。心優しい人間たちは、自分が愛おしく思う犬や猫が、自分の話す言葉に応えてくれると思っています。
それこそ、人間の善なる心持ちがそうさせているのです。
基本的には、人間以外の動物は、皆、畜生なのです。
でも、私たち人間の中にも、言葉が、いや、想いが通じない畜生の部類がいるのです。
皆、それを知っています。そして、触らぬ神に祟りなしとやり過ごしているのです。
季節はさくら花の満開の下にあります。
きっと、怪しげなさくら花の妖気が、我が心の奥底に忍び込んできたに違いないのです。
あまりに美しきものの中には毒気があるのです。
毒気を浴びれば、困ったことになります。
そんなんではいかんと、私はロードバイクのペダルに力を入れて、さくら花の満開なる丘を下っていったのです。
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