神郡の石ころ

中川 弘

第1話 神郡の石ころ


 山道ばかりではありません。

 古道と言われる、今はもう、人も、多く通らない道を歩むと、いつも思うのです。


 この道を、これまで何人もが通って、今の道があるって。


 ここにある石組み、男の足幅にちょうどいいようになっていれば、きっと、これはそこを歩む男のために作られたものに違いないと、現代の女性が歩きにくそうに歩を進めているのを見て思うのです。


 熊野の古道など、今でも、土地の人が、遠方より訪れる人のために、日頃から手入れをしていてくれているという話を聞きました。

 かごを背負って、枝を拾ったり、手にしたシャベルで、ガタガタする石に土や小石を噛ませて、旅人が脚を踏み外すことのないようにしてくれているというのです。


 そんなことを知ると、この道を歩めることにあらためて感謝をするのです。


 先だって、ロードバイクに乗って、筑波山の麓まで出かけました。

 神郡(かんごおり)という、何とも霊験あらたかな地名の一帯があります。

 そこに蚕を祀った社があるのです。


 その社に続く石段の下まで行って、それまでは、その先へは一度も行ったことがなかったのです。

 でも、この時は、ロードバイクをそこに置いて、いつものように、iPhoneとサイクルコンピューターをハンドルから外し、それをサイクルジャージの背中の裾にあるポケットに差し込んで、私は、歩幅の狭い石段を登って行ったのです。


 昔の人の歩幅なのか、それとも、そういう風にわざと作ったのか、それはわかりません。


 おまけに、私の履いているシューズは、ロードバイク専用のビンディングシューストいうものです。

 ペダルを噛んで、離れないように、そして、ペダルを前へ押すだけではなく、引く力も引き出して、より速いスピードを出すためのシューズです。

 ペダルを噛むには、歯が必要です。

 野球のスパイクのように、このシューズには突起があるのです。 

 歩くたびに、カチッカチッと音がします。それに、滑ります。

  

 だから、私、細心の注意をはらって、狭い幅の石段をのぼっていったのです。

 樹木はうっそうと茂り、真っ昼間なのに、石段のあたりは薄暗いというアンバランスな環境の中で、私は、何か神々しい、犯しがたいものに近づく、そんな心境になっていったのです。


 いつも私が参る、近所の社は、綺麗に掃き清められ、お参りに来られた方が怪我などせぬように配慮されていますが、ここはそうではありません。

 油断をすれば、積もり積もった枯葉で足を滑らすことも大いにありうるのです。


 滑りやすい道を細心の注意をはらって上るとき、私はかつて訪れたハイデルベルグの古城での道を思い出したのです。


 ハイデルベルグの古城の階段は、ここ神郡の社のように狭い石段ではなく、広々とし、歩幅もゆったりとしたものでありました。

 しかし、敷き詰められた煉瓦ののぼりやすく設計された道には、秋の季節がもたらした落葉が掃かれることもなく積もっていたのです。

 ロシアからやって来た観光客が、キャッキャと言いながら、お互いの腕を取りあいながら、楽しげにその石段をのぼっていきます。

 ひとり旅の私は、滑りやすくなっているそんな道を、愚かにも、革靴で歩んでいったのです。

 ちょっとした油断が、いや、油断などしていなくても、革底の下の落ち葉は程よく濡れていて、私の足を掬い上げるなどわけないことでした。

 だから、私は、姿勢を低くして、まるで、神官が神の前で、体を折らんばかりにして祈る、あの姿で、ハイデルベルグ城の石段を上っていったのです。


 そうして、上っていった先に、今は、廃墟になった寂しげな古城跡があったのです。


 そんなことを思い出しながらも、私は、この狭い石組みの石段を、あの時と同じように、神官のごとくにのぼっていったのです。

 のぼる時よりもくだる時の方が、足を踏む外すことが、きっと多いに違いないと、私は、履いているビンディングシューズを見て思ったのです。

 きっと、シューズの手前にある突起は、私をこの急峻な石段からほうり投げるに違いないって。

 だから、おりる時は、これを脱いでおりようと、そんなことを考えながら、私は、歩を進めていったのです。


 狭い石段をのぼる私の足元に、一個の何の変哲もない石ころが落ちていました。

 私は無意識に、その石を避けて、石段に右足を置きました。


 そして、石段に足を落としたその時でした。


 なにゆえに、その石を拾わぬ……

 

 とそんな声が、うっそうとした覆いかぶさる樹木の中にこだましたのです。

 声は続きました。


 そこに石があれば、貴様は、それをよけ切れても、後から続くものが避け切れるとは限るまい。

 だったら、この狭い石段にある石は、それが小石でもつまづきそうであれば、手にとって、拾い、人の通らないところに置くのが、あるべき道なり……。


 私は、その声に、まったくその通りだと思い、一歩石段を下がって、その小石を拾い、石段の脇の雑草の茂る中に放り投げたのです。


 すると、また、例の声が響き渡りました。


 貴様がそこにある石を拾って、それを放り投げたことなど、誰も知るまい。

 だいいち、そこに石があったことなどさえも知らないのだ。

 だから、もしかしたら、そこにあった石で足をくじくこともなかったと感謝することもあるまい。

 でも、人であるなら、それでも、危険のあるものを取り除くのが、つとめなのだ……。


 訪れる人もほとんどいない、それはこの社の神の声に違いないって、私は畏敬の念を抱いたのです。


 参る人間であれば、そのくらいの気持ちになれと。

 自分のことばかり考えるから、人は、横柄になり、世の中は、険しくなる、そんなことを言っているように思えたのです。


 「参る」というのは、古来、下の領域から上の領域へと行く時に使う言葉です。

 そこが日本の社であれ、ハイデルベルグの古城であれ、参るというのは、人間の領域から神の領域へと近づくことなのです。


 だから、人は、いつもの気持ちであってはならないのです。

 

 小さな寂れた社に手を合わせて、私は、今度は「まかり」ました。

 神の領域から人の領域へと行くことを「まかる」と古来より言います。


 私はビンディングシューズを脱ぎ、裸足になりました。

 

 裸足になれていない私の足は、小さな砂つぶにまで、反応し、痛さに顔を歪めます。

 そこに小石があって、痛いっと足が反応すれば、下手をすると、転げ落ちるのは確かなことに違いないと私は思いました。

 

 そうか、この時のために、参るときには小石を除けよというのか。

 そんなことに気がつくのです。


 人間界、神の領域ではない界においても、それを行えば、人間たちもきっともっとよくなるに違いない。


 ……

 いや、違う。

 世間には、そのような人間に満ちているのだ。


 だから、世の中が回っているのだ。

 そうでないと、世の中は悲惨な状況に陥っているはずだ。


 生徒の命を軽率に扱ったり、同僚に悪態をついたり、そんな事はきっと小石を拾うことができなかった人たちがしでかすことなんだ。


 たくさんの命を預かる職にあった私だが、生徒の命が失われる、そんな過酷な場面に遭遇する事は、幸運なことに、ありませんでした。


 ありがたいことだと、何よりなことだと、そっと胸をなでおろすのです。

 そして、神郡のあの社の声を思い出すのです。


 こんな自分でも、多少とも石ころを拾ってきたのかも知れないと。

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