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「こんばんは皆さん、のどかなセイグリッドです」
思わぬ声にスマホを落としそうになる。
画面の真ん中には確かに「のどかなセイグリッド」が座っていて、ニコニコと、嬉しそうに笑っている。
「今日はですね、あの、ちょっと、いや、結構前、なんですけども、YouTuberデビューさせてもらったんですけども……三十人!チャンネル登録してくださったのね!ありがとう!とても嬉しいです」
「のどかなセイグリッド」が画面に向かって頭を下げる。深いお辞儀は十秒ほど続いた。吸い込まれるような不思議な無音。
私は動画がアップロードされた日を確認するが、詳細はわからなかった。過去に「のどかなセイグリッド」があげたものを他人が勝手に転載した動画のようで、元々の動画のデータについては記載が全くない。
ただ、私が見たことがないということは、元の動画は「のどかなセイグリッド」か、あるいはYouTubeによって削除されているのだろう。
顔は少し幼くも見えるが、どれほど前なのかは見当がつかない。
「はい。というわけでね。本当に嬉しいですということで、感謝の気持ちを込めてね。視聴してくれる皆さんが、幸せになれる体操を考えてきました。
セイグリッド体操です。今名付けました」
テーブルの影からスケッチブックを取り出してこちらに広げて見せる。大きく「セイグリッド体操」と書いてあり、今名付けたというのは嘘だと分かる。
こういう意味の無い嘘をつくのが「のどかなセイグリッド」だった。なんだか懐かしむような気持ちになっている自分に気づく。
一枚めくると、体操の手順が書いてあった。文字も図もごちゃごちゃでよく分からなかったけれど。
「幸せになるためにはね、まず笑顔なんですよ。笑うこと。あのー、ね、作った笑顔じゃなくて、本当の笑顔。本当の笑顔で笑うこと。その練習をする体操が、セイグリッド体操なんですね。こんな風に」
言って、「のどかなセイグリッド」がガバッと口を開く。横に大きく空いた口。その中がかすかに見えてしまって、「うっ」と声が出る。
「のどかなセイグリッド」はそのまま喋ろうとして数秒唸り、無理だと気づいて一旦口を閉じた。
「失礼しました。でもわかったでしょ? 漫画とかで、お椀の形の口で笑うの。あれをやるんです。
それで笑う。心を込めて笑ってください。
あ、でも声は出さなくていいです。声出して笑うのは、面白いときの笑いだからです。幸せで笑ってほしいので声は出そうとしなくていいです。出ちゃうなら出してもいいです。いいの全部。
とにかく自分の一番の幸せを持ってきて、それで笑ってください。基本はそれだけです」
また口を大きく開ける。口の端を指差して「ここ、ここ」と言う。
「ここ、口角を、ちゃんと上げると笑顔になります。
でもすぐにこの形にするのは難しいと思います。だから数字をかぞえるよ。セイグリッド体操は笑う体操です。
五、四、三……カウントダウンに合わせて口角を上げます。ゼロで一番の笑顔になるように。
カウントダウンを録音してきたので、皆さん一緒にやりましょう。僕も、やるので」
コメント欄に目をやると、ここにも嘲笑者たちが溢れていた。けれども、ここにコメントをしている者のほとんどは「のどかなセイグリッド」がニートを殴って(本当は殴られて)有名になってからこの動画を見ている。「のどかなセイグリッド」が冒頭で深々と頭を下げたのは、私たちに向けてではないのだ。
過去の「のどかなセイグリッド」には三十人のチャンネル登録者以外の声は届かない。
「いきますよ」
「のどかなセイグリッド」がラジカセのボタンを押す。
「五、四、三……」
「のどかなセイグリッド」の口角が上がっていく。どんどん綺麗な形になっていく。
私の心は慌てるばかりで、口を開くかどうかすら決めかねて、パクパク、パクパクと見苦しい。
「二、一……」
綺麗になっていく。
見苦しいままでいる。
「セイグリッド!」
幸せそうな──心底幸せなんだろうと思うような、笑顔がそこにあった。
私は小さく口を開けて、いかにもマヌケな、魚のような顔で、人の幸せを見ていた。
後悔に包まれる。逃してしまった、と思う。いま笑うしかなかった──私には、それしかなかったのに。
「皆さんどうでしたか、笑えましたか」
もう一度! もう一度!とすがる思いで「のどかなセイグリッド」を見る。三十人でない私にはどうしたって醜い顔にしか見えないけれど、それでも、食いつくように見る。
「もっかいやってみましょうか。カウントダウンに合わせて、口角を上げて。あと、幸せも少しずつ上げていきましょうね。カウントダウンに合わせて、少しずつ実感を高めて、本物の幸せに近づけましょう。
では、もう一度」
「のどかなセイグリッド」がボタンを押す。私ははやる胸を抑えて、一度、喉だけでグッとつばを飲む。
「五……四……」
とにかく大きく口を開く。幸せはよく分からなかったけれど、なんだか楽しい気分をむなしく想像する。
みっともなくてもいい、少しずつ整えて形にすればいいんだと自分に言い聞かせる。
「三……二……」
セイグリッドまでに本物になればいいんだと、言い聞かせる。
「一……」
セイグリッドまでに。
本当に、幸せになれば。
そう言い聞かせて、頑張る私の耳に──ガチャンとドアが開く音が飛び込む。「のどかなセイグリッド」が「あ!今だめ!」と言いながらラジカセを止める。
止めてしまう。
「あ、ごめん、撮ってるの?」
女の声。しかし、透明ではない。
「大丈夫だけど、何?」
「いいの? これインターネットに流れるんでしょ?」
「編集するから大丈夫よ」
そうなんだ、と言う分かったような分からないような声を、私は口を開けたまま聞いている。馬鹿っぽいとは分かっている。それでも、閉じたらもう開けない気がして、閉じることができなかった。
「ご飯、どうするかなと思って」
初めて聞くその声に、ぼんやりと確信する。母親だ。遺影を燃やされ、骨を呑み込まれたあの母親が、画面の外に立っている。
心がうろたえる。体全体がバクバクと脈打つ。汗が目に入って、少ししみる。
「のどかなセイグリッド」が、あー、と頭を掻く。
「あのー、さ……焼き肉、行こう。俺、お金出すから」
バチン、と、スマホが鳴る。電気が走り、ブッ、ブッと振動する。
「そんなお金、取っときなさいよ」
「いいのよ、給料出たから。だから、いいことがあったから、焼き肉食べたいし」
「いいこと?」
「いいの。行こう」
「まあ、それならそれでいいけど」
スマホが熱くなって、持っていられなくなる。
自分の気持ちがもうよく分からない。
口はポカンと空いて、幸せの想像が宙に浮いている。
母親がドアを閉めて去って、「のどかなセイグリッド」がカメラと目を合わせる。
「というわけで皆さん、母と焼き肉を食べてくるので今日はここまで。一回やったからね、何度も動画繰り返して見てくれればと思います」
画面がプツプツと乱れて、声にもノイズが混じり始める。
「皆さんも幸せになってね、美味しいものたくさん食べましょう。
ではでは、のどかなセイグリッドでしたー。バイー」
もう一度派手に大きな音がして、スマホは壊れて真っ暗になった。画面に触れても、ボタンを押しても、なんの反応も返ってこない。
私は呆然として、そのうちに疲れ果てて、そのまま眠りにおちた。
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