6
スマホがキラキラと歌い続けている。横目で見た画面には「明日C勤。寝る前にマスク用意」の、そっけない文字。「逢いたい」と囁いて曲が一周し、また最初から歌い始める。
熱いお風呂でのぼせたかのような吐き気と倦怠感のなかで、ゆっくりと興奮が醒めていく。自分の呼吸音が聞こえる。荒く、切れ切れで、そのうえ歯がガチガチと鳴っていてうるさい。手も足も鉛のように重たかった。
「はなれて……」
自分でも情けなくなるような、かほぞい涙声。
少女は私にまたがったまま、すぅっと右手を上げる。そうして当たり前のように私の頬をはたく。
「それ、煩いわ。とめなさい」
優しくあやすような声とは裏腹に、痛みは今までで一番強かった。
離れてよ……と言おうとした声が、口のなかでぐずぐずに崩れて消える。視力の無い目が私を見下ろす。ごめんなさいと言いそうになって、やっぱり消える。
軋む指を起こし、アラームを止める。少女は満足げに頷いた。
「いいわ」
少女の両手が、そっと、私の首に伸びる。
電撃に貫かれるように体が跳ね、叫ぶ。
「やめて!」
白く冷たい指が、初めて、首筋に触れる。
「やめて!殺さないで!」
「どうして? ちゃんと自分の心を見ているのかしら」
冷めた体。冷めた頭。勢いと弾力を失った思考。私の心は昨日までと同じ、ずっとずっと生きてきた今までと同じ状態に戻っている。
「死にたいでしょう?」
その通りだった。
危うく頷きそうになるのを、舌を噛んでどうにか止める。
「あは。私があなたの心を動かしてるとでも思ったの? 私はただ、ここにいるだけ。死んでしまってもなお、いられるだけ。
そしてあなたは、私を見て気づいたの。思い出したのね。
ねえ、初めて人に嘲笑われて、自分が醜いんだと知った日があるでしょう?」
駅のホーム、どこの誰とも知らない男子高校生の二人組。一人が私を見て何かを言って、笑って。もう一人はその頭を軽く叩きながら、大きな声で。
「すいません!こいつバカなんで!ほんとすいません!カンベンしてください!」
おかしくて堪らないのを隠そうともしない顔で、楽しそうに。パシン、パシンと。叩いて。
私は、あの時から……きっと、ずっと。
「死にたいと言いなさい」
また、少女が言う。噛んだ舌から血の味がする。お腹が薬と肉のガスで張って苦しい。
頭は透明に冴えて──とりあえずで生まれた慣性、しかたなくで生きてきた惰性が削ぎ落とされて──より純粋な私の心を、鏡のように映す。
口が、開いていく。
「言いなさい。心のとおりに」
死にたい。死にたい。死にたい。
やっぱり死にたい。絶対死にたい。
思いながら、少女の美しい顔を見て──喉の奥で唸りながら、見て──
「嫌!」
その顔に、齧りついた。
鈴が割れたような短い悲鳴が私の口内に響く。噛む歯に更に力を込めて、頬と下唇の一部を抉りとる。
白い腕に突き飛ばされて、私は無様に床に倒れた。
「どう、して……」
少女の傷は見る間に癒えて、元の美しい顔になる。見開かれた目、口を覆う所作で、その美はより鋭く、繊細に研がれていく。
私は口のなかに残ったものを、何度も何度も噛んで、ちぎって、すり潰す。幽霊は糖で出来ているらしい。甘い味と香りが、呑め、呑め、と誘惑する。私は噛み続ける。苦しい。苦しい。握った人差し指の角をこめかみに当てて、グリグリと痛めつけて、正気を保つ。痛くて、苦しくて、涙が出る。噛み続ける。
少女と目が合う。視えなくても見えるように、強く睨みつける。
そうして、口のなかのものを、わざとペッと音を立てて、吐き出す。
「嫌……」
声が震える。消えていく。
しかしもう少女は、嘲笑ってくれない。
「どうして……」
「嫌!嫌っ!」
倒れたまま、頭を左右に痛いほど振って、言葉を揺すり出す。首と顎の骨が、何度も、小さく破裂する。
「なんでよ!死にたいくせに!死にたいんでしょう!」
「嫌!絶対嫌!やだぁっ!」
「顔も心も醜い自分が大嫌いなくせに!」
「それでも、いや……」
「だから、どうしてよ!」
「負けて死ぬのは……嫌……」
少女の顔が、初めてゆがむ。
「絶対……絶対いや……」
肉を強く噛み続けて欠けた歯が、口からぽろりとこぼれ落ちる。「のどかなセイグリッド」の顔が頭に浮かぶ。私は、ああはならない。あんな風に負けて死んだりはしない。
あんな風に愚かに、無価値に、不気味に──死にたくない。
「なんて、傲慢な女……」
怒りを顕わにして、少女が言う。
怒った顔も美しくて、愛らしくて、でも、何より怖かった。
「わかった。殺さないわ。ううん、もう頼まれたって、殺してなんかあげない」
私の左目を、白い足が優しく、そっと触れるように踏みつける。ひやっと、死の温度が伝う。
「その代わり、また会いに来てあげる。何度も、何度も会いに来るわ。
ねえ。私、あなたを絶対に許さない。こんなに人を嫌いになったのは、生まれて初めてよ」
踏みつけていた足に蹴り上げられ、少女が視界から外れる。そしてそのまま、どこかへ消え去ってしまう。
部屋にぽつんと一人残されて、起き上がる力すらも出ない。静かで、寂しくて、自分の心臓の音が聞こえる。
「どうしよう。助けて。死にたい。死にたくないのに、すごく死にたい。」とツイッターに投稿する。フォロワーが一気に十人減って、また泣いてしまう。
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