5
時間の流れがあやふやで、どれくらい経ったかもう分からない。それくらい思考も感情もぐちゃぐちゃだった。
少女は依然として私の顔を撫でまわしている。金色の髪、小さな体躯、青白いドレス。私の人生とはどうしたって重ならない世界の住人だと一目で判る、淡い輝き。
「ねえ。何か言わないの?」
「あ、あなた……誰……」
どうにか声を振り絞る。少女は口を小さく曲げて、愛らしく微笑む。本当は「綺麗」とだけ言いたかった。頭は恍惚でいっぱいだった。この子が私だったらいいのにと、強く強く思った。
「ああ、やっぱり女なのね。私、目が見えないから、もう一度声を聞いて確かめたかったの。ねえ。もう泣くのはやめちゃったの?」
ぺちん、ぺちんと、白い手が私の頬をやさしく叩く。催促するように、親指がゆっくりと涙袋を押す。私はようやく怖くなって、座ったまま身をかわそうとよじり、そのまま床を背に倒れる。少女は私の胴にまたがって、また顔に手を伸ばす。
「や、めて……」
「どうして? 私、もっと触りたいわ。形を知りたいわ。だって初めてなんだもの」
少女は口を開いて、おかしそうに笑う。
「本当に……こんな醜い女は初めて」
その唇は歪んで、しかしなお美しい。
「ねえ。笑わないで聞いてね? 私、最初にあなたの顔を触ったとき、あ、って声が出そうになったの。だって、男の股を触ってしまったと思ったから」
自分で笑うなと言っておいて、少女は鈴のような声で笑っている。
乱暴に指圧された目から、何かが垂れ落ちる。それは涙のはずなのに、あつく、油のようにベタついて、死にたいくらいに恥ずかしかった。
少女は両手を顔から少し離して、また、今度は手のひらで挟むようにして、私の両頬を叩いた。汁気を含んだ音が鳴る。それが楽しくてたまらないという顔をして、何度も何度も繰り返す。
そうして、リズミカルに、野菜の名前を口ずさむ。ジャガイモ。ピーマン。玉ねぎ。レタス。カブ。ほうれん草。
「ブロッコリー。ねえ。どうしてこんなにブスなのに、一生懸命生きないの?」
言われている言葉がまったく頭に入ってこなかった。ただただ顔が上気して、ぼうっと薬のにおいが中で煙った。
「ブスはブスなりの幸せを追えばいいのに、どうしてそれすらしないの? どうしてまっとうな人生を誠実に歩もうとしないの? 夢すら持たずにただ生きて、しかもブスだなんて、そんなの絶対おかしいわ」
理不尽だ。感覚が薄れて土になってしまったかのような頭で、喉の奥をギュッとしぼって、どうにか思考する。こんなの絶対理不尽だ。かすれる声は、ちゃんと私の外に出ているのかどうかも分からない。
「そ、んなの……関係、ない……私に……私のし、あわせに……私は……関係ない……」
私の心に、私の形は関係ない。
思い付きなんかじゃない──三十年間、私を容れ物にして生きてきた私が、ずっと噛み締めてきたひとつの哲学だった。そうして積み上げてきたものだから、今、何もなくなりそうになっていた今でも、言ってやることができた。すこし、深い呼吸を取り戻す。
でも、どうして──だったらどうして──叫ぼうとする反証を殺して、私は少女を睨もうとして──
「嘘」
パキン、という音とともに、顔が光に撃ち抜かれる。
「美醜に拘らない自意識なんて無いわ」
少女が私を殴ったのだと、気づいたときには次の拳が飛んできていた。そうしてまた次が、その次が、さらに次が弾ける。目も、鼻も、唇も、か細い腕、白い拳で、したたかに打ちつけられる。
「私を見たんでしょう。ジロジロと。卑しい目で見たんでしょう。私になりたいと願ったんでしょう。私を下さいと祈ったんでしょう。
知ってる? ブスはね、幽霊にはなれないのよ。私と違って、死んだらおしまい。ねえ。悔しいでしょう。関係ないことなんて、ひとつもないのよ」
大根が、ゴボウが、踊るように降ってきて、私の顔と砕け散りあう。それが噛みつかれるように温かくて、三十年、私を噛んだ人なんていなかったな、なんてことを思って、また泣いてしまう。
「泣くのが好きなのね。私、あなたの泣き顔も嫌いよ。さっき泣いてたのだって、あの男に同情してなんでしょう。あれも醜かったものね。まるで私のようだって、勝手に重ねて泣いてたんでしょう。陳腐ね。全然中身なんてないじゃない。
可哀想。心から可哀想だわ、あなたたちは」
ふいに嵐が止んで、少女が私をうろの目で見つめる。
最初に見たときと同じ、本当の哀しみをたたえた、愛らしく、美しい顔。
その口が、小さく開く。
「死にたいと言いなさい。そうしたら、殺してあげる」
死にたい。死にたい、死にたい死にたい死にたい。
私をやめたい。あなたになりたい。あなたになって、あなたといたい。いつまでもいたい。どこまでもいきたい。
それがかなわないのなら、せめて、幽霊になりたい。
人間をやめたい。人間の私を捨てたい。愛されないのなら、愛しあう生き物をやめたい。
幽霊になって、一人で生きたい。
私の口が、渇きの果ての所作で空いて、喉が、最後の請願をしようとした、その、最後の瞬間。に──
「だから~
大音量で──ずっと握ったままだったスマホから、アラーム代わりのアニソンが鳴り響いた。
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