ムッシュ
嗚呼ムッシュ。
貴方は酷いお方です。
私の心を奪っておいてそのまま消え去ってしまうなんて、なんと惨い仕打ちでしょうか。
窓越しに貴方と目が会った途端、私は貴方に全てを奪われてしまいました。
例えそれがたった一瞬だったとしても、貴方のその全てが私に貴方を刻み込んでやまないのです。
嗚呼ムッシュ。
それでも私は貴方のお名前すらも存じ上げないのです。存じているのはしなやかに曲線を描いた身体とその端正なお顔立ち、そして深く澄み渡った蒼色の双眸だけ。
刹那貴方は軽やかな足取りで去ってしまったのです。急いで貴方の元へ駆け出そうとしても、この檻から私は逃げることが出来ないのです。見せかけだけの自由と私を縛る赤い枷。
窓から出ようともがいて私の爪はもうボロボロです。自慢だった濡羽色の面影はなく、私はとうの昔に醜く穢れてしまいました。
それでも毎日代わる代わる、大きな化け物達が私を覗き込みます。まるで私を押しつぶすかのように時折その大きな手をこちらに向けて。時には窓を激しく叩かれ、時にはじっと私を見つめて威嚇してくるのです。私はそんな毎日を静かに耐え忍ばなければいけません。
生まれてこの方、まだ私は乾いたものしか口にしたことがありません。
いつか潮風が吹く海岸沿いで、貴方と一緒に優雅なディナーのお料理を頂いてみたいものですわ。それはどんなに幸せな一時でしょうか。
どこのお料理が美味しいのかしら。お魚にはどんなドリンクが合うのかしら。貴方ならばなんでも知っておられるのではないかと、つい思ってしまいます。
ここを離れて貴方の元へ行けたら、なんて素敵なことでしょうか。
しかし私は囚われの身。
嗚呼、嗚呼。この苦しみからどうして私がひとりで逃れられましょう。
ムッシュ、どうかこの偽りの楽園から私を連れ出してくださいまし。
必ず、いつか、私を外の世界へ貴方と共に解き放ってくださいまし。
哀れな私めとの最初で最後の約束です。
嗚呼ムッシュ、私のムッシュ。
いつまでも貴方のお傍に。
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