人生、売ります«上»
「もし、そこのお方。人生を買わないかい」
当てもなく夜廻していた私に、突然街灯の下から露天売りの老婆がそう声をかけた。
人生。この老婆は人生を買う、と言ったのか。
「…誰の人生を買うのですか」
「もちろんお前さんの人生だよ。どうだい、詰まらない毎日にはもう飽き飽きだろう?」
なるほど確かに、私はただこの世界の枠組みに生かされているような生には、もう辟易としていたところであった。何故この老婆がこんな場所で怪しげな商売をしているかなどには微塵も興味はないが、売り文句には何処かそそられるものがあった。甘美な誘いに蝶は群がるものである。私は平凡な日々に刺激を求め、周りをチラリ、と一瞥してから静かに老婆に歩み寄った。
「一体どのような人生を売っているのですか」
「これまでわしは数多の人生を売ってきた。しかしそうさねぇ、今のお前さんにはこれがいいだろう」
そう言って老婆は、私に鈍い銀の丸い物体を手渡した。小さなビニール袋に入ったそれは、錠剤のような形をしている。
「これは…?」
「見たところお前さん、若人じゃないか。人生まだまだ捨てたもんじゃなかろうに、こんな人生屋を見つけてしまったのだねぇ。いやはや、どうしたものか。そうは言ってもわしもこの先永くはないからねぇ、どうやらお前さんが最後の客になりそうだよ」
「はぁ…」
「人生は諸行無常、本来人生とは1度きりなのさ。生とはちぃぽけであまりにも儚いものだ。しかしだからこそ人間は他の生き方を求めるのよ。とある人間は絶望から、またとある人間は憎しみから。動機は様々さねぇ。そんな迷える子羊たちにこうしてわしが人生を売っているのさぁ」
「あの…その、お代は?」
「ああ、駄賃はお前さんが私の最後の客になってくれることで十分さ。わしも、やっと。やっとこの
分かるような分からないようなことを延々と言い続ける老婆に嫌気が差した私は礼を言い、早々に露天を後にした。暇つぶしに立ち寄ったようなものだが、失敗だったかもしれない。右ポケットには銀の錠剤が1粒。老婆が言うにはこれが人生なのだったか。人生とは、なんてちっぽけで軽いものなのだろうか。ポケットに入れたことなど直ぐに忘れてしまうような、ほんの小さな存在だ。
ふと時計を見ると、もう日付が変わる頃であった。少しの散歩のつもりが、もうこんな時間だとは。自宅への足を早めながら、明日のレジュメや残業に回す仕事を考えているうちに私は、ポケットに入った錠剤のことなどすっかり忘れてしまっていたのだ。
(続)
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