人生、売ります«下»

あの夜廻からというものの、私は眠れぬ夜を過ごしていた。夢見が悪く、寝た心地が全くしないというのが正確なところか。

夜な夜なあらゆる者たちが、こぞって私を責め立てるのだ。


ある時は見知らぬ少年少女が夢枕に立った。黒髪の少女が、私の左袖にギリリと爪を立てる。

「あなたはいいわよねぇ。ただふつうで、へいわなじんせいをすごせばいいんだもの…ねえ、どうしてわたしたちをみすてたの?」

白髪の少年が、私の右手首をギチギチと締め上げた。

「どうしてぼくたちがこんなめにあうんだ、なんにもわるいことなんてしていないのに!なんでおまえじゃないんだ!」

憎々しげに歪められた瞳たちからひたひたと黒い雫が零れ落ち、私の革靴を汚した。


またある時は何も物言わぬ父と母が夢枕に立った。

彼らの腕はだらりと力無く垂れ下げられ、直立不動のままただじっと、何も考えていないような目をこちらに向け続けていた。生気のない瞳たちには、負の感情のみが見て取れる。彼らは確かに私を責め続けていた。何故、何故お前なんだ、と。彼らはとても静かに、それでいて着実に私を押し潰していった。



そしてついに、私が夢枕に立った。

「私は?」


幸せ?幸せ?幸せ?幸せ?幸せ?



…しあわせ?

わたしは、


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.


.


.


その瞬間夢から目覚め、私は瞬く間に飛び起きた。文字通り転がり落ち、そこら中をぶつけ物が飛び散る。頭から生暖かいものが顔に伝う。そんなことなどどうでもよかった。

私はひたすら絡繰のようにただ錠剤を飲むためだけに動き続けた。錠剤。あの銀の錠剤は何処だ。何処、何処だ。何処なんだ。


探せ、探せ、探せ。

錠剤、錠剤を。私をこの悪夢から解き放つ錠剤を!

私は彼らを振り払うことさえ出来るのなら、それだけで良かった。


部屋にかけてあるジャケットの右ポケットから光が漏れている。覗き込むとそれは鈍く光り輝いていた。嗚呼、これは聖なる光か。

私は膝をつき涙を流した。神に感謝して止まなかった。慈悲深い神はこんな哀れな私を救って下さるのだ。息を吐き神からの授け物を手に取る。情けなくぶるぶると全身が震えた。呑め。これを呑めばお前は自由だ。さあ。


ごくり。


水など必要なかった。それは私にとてもよく馴染んだ。次第にゆっくりと思考が冴えてくる。呑んだ。私は呑んだのだ!


…刹那、自分が間違いを犯したと気がついた。あれだけ高揚していた気持ちは一瞬で吐き気に変わった。呑んだ。呑んでしまった。私には分かる、終わりだ。これで全てを喪ってしまった。あれほど老婆が忠告していたのはこのことだったのか。私は全てを悟った。体に力が入らず、そのまま両手両足を投げ出して伏した。虚無感だけが体を通い、体の芯から冷え切っていくような心地がした。


断じて私は救いを手に入れたわけではなかった。私が呑んだようで、その実私が虚に呑みこまれていたのである。

存在するかなども分からない幻影たちに、平穏な日常を恥じるように踊らされ惑わされて、彼らの思うがままにほふったのだ。神など初めから存在しなかった。


夢は醒めることなどなく、それはただ一つの人生の指針なのかもしれない。その羅針盤を喪った私にもはや居場所など存在するはずもない。

人生を買うという行為と同時に、私は自らの安寧を売ってしまったのだ。他でもない自らが手放したのだ。新たな人生が私を絡めとり捕える。このカルマは一生私を離しはしないだろう。


.


私は静かに露天に腰を据え、人生を掻き集め陳列させた。彼らは今日から私にとってかけがえの無い、そして憎々しい人生の相棒となるのだ。


「迷える貴方様に、今宵も人生を売りましょう」


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