【呼び捨てがいい。】5/5

 ぶっちゃけ何の曲かは分からなかった。


でも、確かに何処かで聞いた事がある。幼稚園でか、それともはたまた別の何処かでか。遠い記憶と曖昧に重なり、繋がってはまた離れ、そしてうっすらと消えていく。思い出せない。


 滑らかな旋律が終わる。くくるは一通りの演奏を済んだ後、息を吐き出して、滑らかに動かしていた指の動きを止めた。俺は暫く目を奪われる。今、目を離したら、二度とくくるのこの姿を見る事が出来なくなるかもしれない。謎の勿体ない精神が働き、俺の目を釘付けにしていく。くくるはそっと目を閉じて、椅子から体を回して俺を見た。





「...うまいな。流石」





 俺は心からの拍手をする。やはり才能に嫉妬されるだけはある。俺は音楽に造詣が深い訳では無いが、それでもこれが中学の子が奏でていたものだとはにわかには信じられない。もし目を隠して音だけを聞いていたとしたら、プロが演奏していたと言われて納得してしまいそうだ。





「...」


「...」


「...」


「...ええと」





 しかしくくるは、俺を見ただけで後は何も言わない。ただただ俺を見ている。そういった暫くの沈黙の後、くくるは漸くして口を開く。





「...んだよ」


「...え?」


「...んだよじろじろ見て」





 開口一番めちゃくちゃ暴力的だった。渋谷でおっさんが煙草咥えて、グラサンかけて今の台詞を吐き捨てた所で誰も違和感を覚えないくらいには凶暴的だった。そもそもそんな危険社会を暗黙にしているこの世の中に違和感を覚えない日本人も如何な物かとこの場をお借りして警鐘を鳴らしていきたいものだが。今はどうでもいい。





「勝手に見ないでよ...変態」


「...理不尽だ」





 まあ確かに。こいつは突然ピアノを弾き始めたのであって、決してロマンチストな告白をしながら、「兄さん...見て...」なんて言った訳ではない。あいつの欲求を解消する為の手段がたまたまピアノだっただけであって、俺にそれを覗かれるのは些か不快になる気持ちも百歩譲ってまあ分からんでもない。こいつが俺に糾弾するのもまあ、頷けない話ではないという事だ。





「...悪かったよ。てかどうした急に。キャラが安定してないぞ」





 慰めにもならない返事をする。くくるはそっぽを向いた。





「なんか...泣いたらどうでも良くなった。世界終末プロジェクトが発案されたら積極的に乗り出していきたい」


「自暴自棄にも程があるだろ...」


「...全部兄さんのせい」


「...まあ、その通りだが」





 反論の余地無く、百二十パーセント程の確率で俺が悪い。俺は妹を追い込み、多少荒い手段を用いてでも、腹を割って話させようとしたのだから。まさか泣いてくれるとは思っていなかったが。俺は頭を下げる。





「すまなかった...。泣かせて」





 今は誠心誠意謝るしか無かった。





「...兄さんは私をわざと嫌な気持ちにさせたんでしょ。なんで謝るのさ」





 それもこいつにはお見通しのようだった。まあ急に、それにあんな露骨に俺が機嫌を損ねたら、こいつは何か腹に一物抱えてると思われるのが当然の節である。


 しかし被害者にそれが分かられたとはいえ、それで俺がこいつにした罪が軽減される訳ではない。俺はもう一度頭を下げ、念を押した。





「いやあ。まあ、...本当に悪かった...」





 くくるはふうと小さく息を吐き出すと、無言で頷いた。





「いいよもう...なんでそんな事したの」





 俺は拳を突き出し、極端にぷるぷると震わせる。





「...かっとなって...つい...」


「嘘。絶対違う。体に直接聞くよ」


「じょ、冗談だよ...てか体って」





 女の子の口からこのワードは、粋な連想をしてしまうものだ。年頃な男は。





「...私を泣かせて、何を企んでたの?」


「分かったよ」





 流石のくくるにも、俺が故意的にこいつに何かをしたのは理解出来たらしいが、どうしてそれを行動に起こしたかの動機までは理解出来なかったらしい。


 天才だから全ての事柄が手に取るように分かるのというのはお門違いだ。天才はあくまで、「普通出来ない事を平然とやってのける存在」であり、決してそれを「不可能な事を可能にしてしまえる神の様な存在」に置き換えてしまってはいけない。不可能は、不可能だから不可能なのだ。当然こいつにも、分からない事の一つや二つある。


 だから、くくるという天才に事の経緯を説明をするに当たって、これだけは勘違いしないで欲しい。





 俺は、説明を求められているのではなく、説明を、課せられているんだ。と。





 だから俺はこの質問に対して、こいつに敬意を持って答えよう。それが不覚ながらも義理の妹の不意の涙で胸がときめいてしまった、俺の邪な気持ちの払拭にもなるだろう。...いや、ならないだろうな。





「...思い出したんだよ」


「...思い出した?」





 言い出した手前だが、なかなか気恥ずかしいものがあるな。





「ああ。母さんの事だ」


「...お母さんと、私を重ねたの?」


「まあ、そう言う事になる」





 具体的には、母さんの事を思い出して謎の使命感にかられただけなんだけど。くくるの言い分にも間違いは無いから、訂正を求めるのも野暮だと思い、そっとしておいた。しかし問題はこれからだ。俺の衝動理由にどうやって話の肉付けをしたものか...。説明をするにしても、少し事情が厄介というか...。と、考えていると、くくるはピアノの鍵盤をしまい、布をそっとかけると、





「...もういいわ」





 と呟き、椅子から立ち上がった。俺はきょとんとする。





「...いいって...ピアノがか?」


「ばかにぶちん」


「...なんだよその若干以上に流行遅れな、今流行らせても流行りそうのない言い草は...」


「兄さんの言いたい事は分かったから、私に説明は不要だって言ってるんだよ」


「...え」


「もう分かったって言ってるの」





 衝撃を遥かに越える衝撃。これが、常人では行えない。普通では出来ない理解をやってのけた瞬間。今の俺の言葉一つで、こいつは俺の心の中を読み取り、先程の動機にへと変換させてしまったのだ。それに対して、今更これ以上の驚きはしなかったが、それよりも驚いた事がある。くくるが戸惑いながらも、少しだけ、ほんの少しの少しだけ。口元を緩めていた事だ。自分でも気がつかないくらいの、誰かに言われ、指摘されて漸く気づかされるくらいのレベルの。


 無くした筈の涙。無くした筈の笑顔...。もしかしたらその解釈に語弊があったのかもしれない。ただただくくるの感情は、そういう瞬間が発揮される場面に出会わなかったから垣間見えなかっただけであって、本当は心の中からそう思える瞬間に出会えたとき、こいつは、誰よりも表情豊かなのではないか。





 俺は、妹に期待している。





「兄さんは優しいね。あんなに酷い事言ったのに、私の事を考えてるなんて」


「...別に。ただ、今言わないと二度と言えない気がして。多少強引に言い分を押し通そうとは考えたが、まさか泣かれるとまでは思わなかった」


「...初めて私を泣かせたのがにいさん」


「...なんかいろいろと煩わしい言い方をするな」





 俺はばつが悪そうに笑う。くくるはそれに釣られない。





「私の事なんて放っておけばよかったのに」


「...そう言う訳にはいかないだろ」


「...家族になるから?感動的だね」


「違う。俺と出会ってしまったからだ」


「なにそれ」





 お笑いぐさだろうか。それでもくくるは笑おうとしない。どれだけ馬鹿らしくても、阿呆らしくても。他人を傷つけ、冗談以外で他人を嘲笑する事をしない。本当に優しいと言うのなら、俺ではなく、こいつの方がお似合いなのだ。





「出会ってしまったから...なんて、酷い理屈」


「...俺は、自分に期待をしていないからな。何かを期待以上にこなして、それでいて自分の筋を押し通せるなんて思っていない」


「高校一年生が何か悟ってる」


「...これでもお前よりは長いんだ。そのへん悟らせろ」





 それは、これまでの経験則で分かった事。受け入れがたい現実を、受け入れなければならない決心をするくらいに。俺はこれまでの人生で、俺の弱さを分からされてきた。だから、過度な自分への期待はとんだ大事故を招くのだと理解している。





「俺は俺を信用していない。誰かが出来ない事は、多分、俺にも出来ないだろうし、俺が出来ないと諦めた事は、多分他の誰かにならきっと出来る。出来ない事は、諦めるしかない。例えそれが家族からの願いであっても。大切な、妹からの願いだろと」


「...」





 酷い兄の姿だろうな。とんだ情けない兄が来たと思われているのだろう。俺は話を続ける。





「俺はお前に頼るしかなかった。お前だったらきっと変われると願った。お前だったらまだ間に合うと信じた。だから...俺はお前に怒鳴り散らしたんだ。俺じゃあお前を変えてあげる事は出来ないから。お前を助けてあげる事なんて出来ないから。お前の力に、頼るしか無かった」


「...あんな滅茶苦茶な怒り方されたの、初めて」


「元から俺がお前の性能で怒る権利なんてないだろうさ。今だって。そしてこれからもずっと」





 だって、俺はお前に怒る事の出来る様な、「力」を持ち合わせていないのだから。


 例えこいつが、俺が楽しみにしていた食後のプリンをこいつに盗み食いしようが、俺の起床間際に勝手に目覚まし時計の電池を引き抜こうが、俺は多分こいつには怒れない。怒る前に、まず怒る意味を確認するだろう。確認したら、きっと俺は、俺を自制するだろう。こうした経過を経て、怒った所で俺に一切の得が無い事をまず頭の中に植え付けてしまう。


 怒っても結局、こいつには勝てないだろうと結果付けてしまうだろう。そう最終判断を下すのだ。





「...私に変な期待して、そんなの無駄だよ。だから後悔して、皆離れていったんだから」


「...だけどお前は俺の遥か上の反応を示した。俺が予想していなかった、遥か彼方上の結果を出した」


「...何もしてない。だからきっと、兄さんもすぐ私の側から離れていく」


「違うさ。だってくくるちゃん...」





 俺はくくるに歩み寄る。くくるはぴくりと肩を揺らし、目を閉じている。体を傾け、そっと頭を撫でた。























「お前が、俺が離れていくのを食い止めてくれたんだから」








 くくるは目を開く。そして、まだ拭いきれていなかった頬の涙の痕を、長い服の袖でぐしぐしと拭き取る。拭い取っても、拭い取っても。くくるはずっと、顔を塞いでいた。恥ずかしいのだろうか。それとも俺に顔を覗かれるのが嫌だったのだろうか。





「...ばかみたい。ばか...ばかだよ」





 俺はわざとらしく笑みをこぼす。





「やっぱりお前はすげえよ。俺は何もしていない。これは全部、お前が起こした奇跡なんだぜ。くくるちゃん。誰の助けでもなく、お前が閉ざされた心の蓋を持ち上げたんだ。自分の力で」


「...ばか...みたい」





 俺は馬鹿だ。間違いなく。





「正直羨ましかった。俺にも、あの時お前みたいな強さがあればって。悔やむ気持ちだって無かったとまでは言えないけどさ。少なからずこうしてお前と出会えた事は、間違いなく俺にとって得だった。俺にまた、誰かに頼る気持ちの整理をくれた。ずっと抱え込もうと決めていた後悔を乗り越える時間をくれた。だから俺は、...ここにいようと思えた」


「...ばかみたい」





 馬鹿だ。俺は。だってこれでは。








 俺は「弱者」なのだと、認めてしまっているようなものなのだから。





「俺と出会ってしまったからには、お前は俺に頼る事は出来ないぜ。何故なら、その時は俺がお前を頼るからだ。俺じゃあ何も出来ない。何も変わらないって、それは一番自分が良く知っているから。だから、俺はお前に何もしてあげられない。お前はお前の力で変わっていくんだ。俺にはお前のその才能を認め、最大限に引き延ばせる後押しをしてあげる事しか出来ない。それが俺、詩張夕空としての兄の姿だ」


「ばか...みたい...」





 だけど。これでいい。





「後悔しても無駄だぜ。俺はもうここから離れるつもりもないし、俺はお前の義理の兄を降りるつもりなんて無い。お前がどれだけ鬱陶しがろうと、邪見に扱おうが、俺はずっとお前の側にいるからな。覚悟してろよ」





 そう、俺は認めたのだ。自分は妹に勝る兄ではないと、妹の前で、高らかにそう宣言してみせたのだ。この兄は妹に才能に押し殺され、離れていく訳が無いという確証を、馬鹿げた立証を。俺はくくるの前で提示してみせた。俺にはもう、プライドも過去への未練も無いという事を見せつけ、俺から奪う物なんて何もないんだという事を。こいつは理解した。





「私...きっと兄さんの邪魔になる。今は良くても... これから先...」





 俺はくくるの頭を小突く。いた。と、くくるは頭をおさえた。





「...ばかにぶちんだよ。お前は。邪魔なもんか。お前がいなければ俺は俺でいられないんだからな。だから、俺と出会ったからにはとことん付き合ってもらうぜ。お前との時間は、俺探しも兼ねてるからな。半べそかいて俺を追い出そうったってそうはいかない」


「...自分勝手。兄さんは」


「...お互いにな」





 くくるは俺を受け入れた。だから俺は、こいつの才能を受け入れられた。


 だから俺は。こいつの兄でいられる。だから俺達は、兄妹でいられる。





 さて。と、俺は気を取り直して手を差し伸ばす。始まりはまずは挨拶からだ。二度目になるが、これを一度目にしてしまえばいい。





「...改めて、宜しくな。...くくるちゃん」





 くくるは口を尖らせる。





「...やだ」


「ほんまか」





 ...まじか。俺はまだこいつには受け入れられてなかったのか。という軽いショックの後に、すかさずくくるが言葉を付け足す。





「...名前」


「...名前...がなに?」


「名前が良い」





 訳が分からず首を傾げる。





「...呼んでいるだろ?くくるちゃんって」


「...ばかにぶちん」





 この度何度目かのばかにぶちんは、この一時であいつと俺の中での軽い流行語大賞になったらしい。俺はじゃあ何がいいんだよ。と聞き直すと、くくるはぐっと唇を噛み締めた後に、声を殺したように囁く。





「...呼び捨て...がいい」





 俺は思わず頬を紅潮させた。義理の妹ながら、今のこの言葉にほんの少しときめいてしまった俺が情けない。本当にわがままなお嬢さんだ。本当に。ほんの数時間の出来事で、まったくもって注文が多い。


 まあ、だけど...。





「...宜しくな。くくる」





 くくるはくしゃくしゃな顔をして、頬を赤らめると、俺が伸ばしていた手をすりぬけて、ふわりと体に抱きよった。





「...宜しく。にい」





 こういう時は柔らかく笑ってから、場面的に白い画面にフェードアウトだろ?なんて野暮なことは言えない。くくるが満足げにいるのを見ると、そんな不満たちも消し飛んでしまった。























 とまあ、これが、くくるとの出会いの日の出来事。完全に過去を廃棄して、無かった事にしようとした俺の過ちを即時に清算してくれた。詩張くくるへの感謝の一日。くくるが本音を明かす時、誰かが傷つき己を呪う。そうなってしまうという恐怖はまだ完全には払拭しきれていない。だから今日もくくるは俺に言葉を継ぎ足す。





「なんでもない。あくまで私の中での話」と。





 それがあいつの中での心からの謝罪であり感謝の言葉なのだと。いつからか俺はそう思う様になった。あいつから俺へのメッセージなんて、ざっとこんなもんだ。


 くくるは今日も俺を嘲笑う。散々馬鹿にして、そうして呟くいつもの言葉。俺はそれを受け入れる。そう約束したのだから。無能は無能として、有能な妹に尽くしてやると決めたのだから。


























 だから、




















 俺はありのままの無能の姿で、こいつの側に居られる。

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寂しさへの縛り 白姫真夜 @shirokishi464n

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