【元通りへの月明かり】4/5

 暫くの静寂が続く。妹への感服の意を示した俺は、肩を竦めてから勉強机に腰掛ける。


 そう言えば慌ただしくて部屋をゆっくりと見ていなかったな。と言ってもこ綺麗と言うか、落ち着いているというか。棚に揃えられて陳列されている幾つものゲームのパッケージと、大きなピアノとライブで見そうな黒光りしたスピーカーがあって...ベッドがあって...。まあこの部屋が防音部屋としての機能を果たしていないのは見ての通りだが、一応楽器類とかの名残みたいのはある様だ。





「...ここで。ずっと一人でか」





 一人でいるには広すぎる。それも、中学生の女の子一人となれば尚更。この数年間。こいつは何をして生きてきたのだろうか。





「...兄さん」


「...んー?」





 頬杖を付きながらなんとなく辺りを見渡していると、くくるが俺の視界に入ってくる。胸の辺りできゅっと手を握りしめて、ただただ無言で俺を見つめている。その姿から先程までの意思の強さは感じない。


 痺れを切らした俺は首を傾げると、訝しげに尋ねた。





「...どうした?」


「...ごめんなさい」





 ...ん?





「...え?ええと。......え?」 


「...あくまで私の中での話。だから...」





 俺は口をぽかんと開ける。...ごめんなさいって。さっきの、俺の過去暴きの事で...いいんだよな?


 今更感が否めない。というよりあれだけの大口を叩いて、まるで急に別の人格が乗り移ったんじゃないかと思うくらいに急に弱気になられても...反応に困る。





「...私...の、悪い癖」





 くくるはそう嘆き、俯いたきり顔を上げない。弱々しく体を震わせ、ぎゅっと上着を手の中に引き寄せている。





「悪い癖って...さっきのが?」


「うん...。これまでもずっと...。そうやって私が、皆を傷つけてきたの」





 俺にはその言葉が示唆している真意が分かる気がした。





「皆って、小学校の友達とか?」


「うん...」





 月の光がくくるの頬を照らす。その姿が凄く幻想的で、可憐で、あまりにも綺麗だったから。俺はくくるから目が離せなかった。





「私、本当はずっと前まで沢山お友達と遊んでた。お父さんとお母さんにもピアノとか、書道とか、水泳とか、色々と習い事させてもらって。沢山のお友達と話をして、勉強が出来て...凄く楽しかった」


「それでこのピアノ...と、防音室か」


「...今は弾いてないけど。でも、今でも弾ける」





 今ではがらくた同然のピアノなんだろうけど、深く埃が積もっている様子は無く、今でも現役そのものな輝きを見せている。くくるが毎日磨いているのだろうか。きちんと整頓された教科書類。ラックに掛けられた制服と登校鞄は、明日にでも、行こうと決意さえすればすぐにでも飛び出せていけそうだ。...きっとそうだ。この子はきっと、ものを大切にする子なんだろう。





「...ピアノ、嫌いなのか?」


「...好き。大好き。...だけど...怖いから弾かない」


「怖い?」


「...私がピアノを弾くと...皆が離れていくの」





 離れていく...つまりピアノに何かの呪いの様なものが掛かっていたのか。それとも、くくるの弾くピアノの演奏があまりに聞くに堪えないものだったのか。


 なんてお粗末な考えが今の俺に及ぶ筈が無かった。何故なら俺は身を持って体験したのだから。くくるという存在がいかに人の人生を狂わせ、絶望を与えてしまうのかという事を。おそらく、くくるは学び舎の園で開花させてしまったのだ。「音楽の才能」という禁忌の花を。


 つまり、ピアノ教室に通い始めたくくるは、他の人とかけ離れた才能を周りに見せつけてしまったのだ。





「...皆、口々にこう言っていった。「くくるちゃんといると、自分が駄目になる。一緒にいると、自分ばかりが不幸になる」って...」


「不幸...」





 その友達はきっと、それでも諦めずに、くくるの実力に追いつこうと努力したんだろう。負けたくない。自分もああなってみせる...と。


 だが...才能は無情にも誰かの花咲かない才能を殺す。これは比喩なんかではなく。人間は自分より遥かに上回る才能を持ち合わせた人に出会うと、本当にそうなってしまう。


 もしその友達も、くくるが同じピアノ教室にいなければ、今頃周りから上手と言われ、褒められていたのかもしれない。だが同い年のくくるのピアノを聞いて、いざ自分の子供のピアノを聞いた時、親はどう思うだろうか。きっと、絶望的なまでの実力の差に、がっかりする事だろう。





 どうしてあの子には出来て、貴方には出来ないのか。そう親に言われたら最後。その友達は、真理に気がついてしまう。














「くくるがいなければ...自分はもっと...」














 それは、悲観の連鎖を食い止める唯一無二の方法。





 それは、原因を無理矢理決めつけて自分から消し去さってしまう安易な方法。





 自分に勝る存在がいるのなら、それを自分の中から消し去ってしまえば良い。なんなら居ない者として扱ってしまえば良い。とんでもなく残虐で、無慈悲な方法。そんな事は本人が一番分かっている。だが、そうでもしなければ自我を保てない。そうでもしなければ、自分が自分でなくなってしまう。これが、才能を持てなかった者が真の才能を目の当たりにしたときに出来る、唯一の対抗策だから。





 くくるは空を見上げている。暗い部屋で、優しく差し込んでくる光に目を向けて。





「友達も皆。同じ事を言っていなくなっちゃった。皆私を避ける様になって、次第に私の事をいじめるようになって...」





 くくるは表情を一切変えない。俺に半裸を見られた時の表情も、俺に迫っていたあの迫力ある時の表情も、今の悲しげな表情も...。





「...その頃かな。私が笑えなくなったのは。悲しくても泣けなくなっちゃった。感情が蓋みたいのをして、自分の気持ちを押し殺す様になったから。私はずっと、こんな顔のまんま」





 そう言って振り向いたくくるの顔は、先程となんら変わらない。詩張くくるとしての真顔だった。





「私もう...誰かを傷つけるのなんていやなの。だけど...どうすればいいのか分からない。私がもっと駄目になれば...。もっともっと何も出来ない子になれば...皆はまた、私と一緒に笑ってくれるのかな」


「...そんなの、間違ってる」


「ううん。これでいいの」














「...だから、私はずっと、ここで一人でいるんだよ」











 典型的な駄目人間の象徴。引きこもりは、くくるにとって目指してきた駄目人間の完成形なのだろうか。それとも、過去の友達を不幸に貶めてしまった事への償いなのだろうか。もしくはその両方。


 くくるが何を思い、何を決意して、一人でここにいるのかは俺には分からない。きっと分かってはいけないんだ。もし俺がこいつの事を心から理解しようとした時。俺もきっと、これまでの友達と同じような運命を辿ってしまうだろうから。





「ごめん...でも、私にはもう...近づかないで欲しい。私兄さんに酷い事言った」





 だからくくるはこうして、俺から距離を置こうとしている。





「...寂しくないのか」


「...」


「このまま、ずっとここで一人...なんだぞ」


「...分からない」











「でも...私はきっと。もう戻る事は出来ないから」








 その言葉と同じものを、俺は過去に聞いていた。




















 ねえ。夕空。














 私がずっと、誰かに認められなかったとしても。それでも...私はこの絵を描き続けなければいけないの。 





 だって、途中で諦めて。本当に大好きなものを中途半端に終えてしまう事が一番勿体ない事じゃない。





 それに私は、この絵が本当に素敵なものだと思っているわ。











 だから、もう戻れないの。きっと、私はずっと。死ぬまでこのまま。














 母さんが作業部屋で俺にそう告げた時。俺はただ黙って俯いている事しか出来なかった。母さんは少し寂しげで、何処か遠くをみて呟いた。





「...何も言わないのね。夕空も、あの人も」





 その一言が、母さんの心境の全てを表していたんだ。自分には絵だけあればいい。誰にも認めてもらう必要ななんてない。そんな言い草をしても、きっと心の何処かでは期待していた筈だ。

















 ーこんな自分でも。認めてほしい。








 ーどうかこんな自分でも、愛してくれませんか?




















 器の小さかった俺は、母さんの思いを受け止められなかった。自分では何も出来ないから。こんな自分ではどうしようもないから。だから、見て見ぬ振りを通し続けた。父さんの暴力はその代償なんだと。自分の醜さを受け入れなければならないと。





 だけど今だから分かる。母さんは、ずっと「誰か」の支えを求めていたんだ。自分を受け入れてくれる「誰か」を。それは画家でもなく。著名人にでもなく。

















 俺達、家族だったんだって。


























「だから...もう、近づかないで欲しい」


「...くくる」





 これが、くくるの本心なのだろうか。いや、きっと違う。だったらあんな風に俺に謝ったりしない。自分に絶望して、他人に失望しても、きっと心の何処かで期待していたんだ。





 そのままの、変わらない自分を認めてくれると。














 張りつめた空気。俺は呼吸を整えると、決意を固める。ずっと、もうずっとする事はないだろうと思っていた。





 自分と、戦う決意を。





「...分からないじゃない...だろ」





 俺は拳を強く握りしめる。





「...にい...さん?」


「分からないじゃない!そんな他人事じゃ済まされない。これは、お前の問題なんだぞ!!お前がこのまま、ずっとここで一人が良いっていうのなら。そう言うのなら好きにすればいい!俺の知った事じゃねえ。好きにすれば良いだろ!」


「...!」





 俺は精一杯に声を張り上げる。都合良くもここは防音部屋だ。俺がどれだけ騒ごうと。どれだけこいつに罵声を浴びせた所で下に居る詩張夫妻に届く事はない。ここは俺と、くくるだけの空間だ。誰の邪魔も入らない。誰にも。邪魔をさせない。





「...にいさん...どうしたの急に」





 くくるは俺の突然の怒りに動揺している。当然だ。





「私...もう兄さんに関わらないから。だからもう、大丈夫だから...」


「大丈夫な訳あるかよ」


「なんで...」


「...うらやましいよ。才能がある奴は。自分の才能が妬ましいって。こんな自分が罪だって。そうやってみっともなく嘆いて、自分のせいにしていれば、それで済まされるとおもっている。俺達無能の奴らの気持ちを考えずに...。そうやって見せかけの弱音だけをはいていれば、それで全部が綺麗さっぱりと終わるもんだと思ってやがるんだ!! 自己犠牲甚だしいよ。ほんとに...!」


「ち...ちが...う。私は...」





 ぶつからなくちゃ駄目なんだ。本当に心から言いたい事を伝えたいときは。例え傷ついたとしても。それで全部が無駄になったとしても。


 見て見ぬ振りじゃ、何も解決していかない。そんなの、ずっと前から分かっていた事じゃないか。





「お前達には当たり前の事かもしれない。だけど、周りは常に平均以上のものを求めてくる!出来ない事も、どうしようも無い事だって!他に出来る奴がいるから。たったそれだけの理由で同じ要求をしてきやがるんだ!」


「私は...」


「それで俺達への償いになったつもりかよ...!そんな事をして狂わされた俺達の人生設計が元の元通りになると本当に思ってるのかよ!」





 俺の事を嫌いになってもいい。それで構わない。だって俺には何も無いんだから。失う物なんはなから無いのだから。





 だから、どうか。





「...私だって、我慢してきた。ずっと、寂しかったけど、皆が幸せになってくれるんだって信じてたから!」


「無理に決まってんだろ!だってお前みたいなやつらがこの世の中にはごろごろと転がっていやがるんだからな!お前一人がどうなった所で俺達にはまったく影響していかない!お前がどうなったって、俺達が何も出来ないただのゴミくず野郎だって事に一切変わりないんだよ!!」


「...そんなの...私には...」


「...だから無理なんだよ!お前には!何も出来ないんだよ!お前が何をしようと、どんなに不幸のどん底にいようと俺達には何も影響していかないんだって!そんなもんなんだよ結局!お前が俺達に対して抱いてきた思いはそれくらいのもんで留まっちまうんだ!それだけの価値しかないんだよ!お前の犠牲には!」


「...そんなこと...」


「...それを分かろうとして分かっていない。だからお前は!」





 どうか。

















「いつまでもここで一人ぼっちなんだ!!!」


「そんなこと分かってるよ!!!!」

















  顔を俯かせながら、くくるは声を荒げる。長い前髪が目にかかっていて、目に影を落としていた。





「...分かってるよ!分かってるよ!私がこんな事したって意味ないって!それでも...分からないものは...分からないんだから...!どうしようもないって分かっているんだから!分からない事だって、ずっと、ずっと分かっきたんだか...」




















 不意な違和感を感じたんだろう。





 くくるは、ひたりと手のひらを頬に当てる。





「...あれ...」





 なみなみと溜め込まれたそれは、頬を伝って、ゆっくりと流れ落ちた。





「...私...なんで...」





 自分は泣けない。もう元には戻れない。そう俺に告げていた彼女は、月明かり照らされた部屋の中で、確かな変化の涙を流していた。

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