神様は意外と優しい
綿柾澄香
やあ、また会えたね
どうして、私たちの流れる時間は違うのだろう。
猫である彼は私よりもずっと後に生まれたのに、私よりもずっと早くに死んでしまう。私は就職が決まったばかりでまだまだこれからいろんなことが待っているというのに、私が小学生の頃に生まれた彼は今、私の膝の上に乗って、目を閉じている。呼吸はひどくゆっくりで、弱々しい。その頭を撫でても、背中を撫でても、何の反応も示さない。「ふじまる」と、名前を呼んでみてもピクリともしない。きっともう、逝くのだろう。
覚悟は決めていた。人と猫とでは寿命が違うのだから、この日が来るのは必然だ。けれども、だからといって冷静に受け止められるほどに私は大人でもない。
今までの思い出がフラッシュバックする。
ずっと猫が欲しいと駄々をこねていた私に、絶対に世話をするように、と約束をさせて父が買ってきてくれた灰色の子猫。
よちよちと歩くその姿がとても可愛らしくて、ずっと見ていても飽きなかった。けれども、それから少し成長すると、生意気になって、すごく大変だった。こっちが叱っても知らんぷり、呼んでも来ないし、そのくせ宿題をしている時に限って私の足元にすり寄ってくる。柱は引っかき回すし、私の手も何度も引っかかれた。それでも、私が泣いていると、いつも側にいてくれた。それに、その仕草、一挙手一投足が可愛くて、彼がどんなことをしても、つい許してしまった。
ただ、彼がいてくれるだけで、私は満たされた。
けれども……と、私は考えてしまうのだ。
我が家に飼われたふじまるは、本当に幸せだったのだろうか、と。
もっとお金持ちの家に飼われていれば、ウチよりももっと贅沢で美味しいご飯を毎日食べられたかもしれない。自由な家に飼われていれば、好き勝手に外を出歩いたりさせてもらえたかもしれない。猫をたくさん飼っている家に飼われていれば、猫の友達をたくさん作れたかもしれない。好きな猫と出会い、恋をして、子供が沢山生まれたかもしれない。
豪華なご飯も、自由も、友達も、恋人さえも手に入らなかった我が家で、本当に彼は幸せだったのだろうか。愛情をもって彼に接していたのは間違いない。それだけは断言できる。けれども、彼はどう思っていたのだろうか。
「ふじまる」
と、もう一度呼びかける。
ピクリ、と右耳の先端が動いた。その背中に、私の涙が零れ落ちた。
* * *
全身に力が入らない。僕は年を取り過ぎた。きっともう、死ぬのだろう。まあ、仕方がない。生き物はみんないずれは死にゆくのだから。
僕の場合、その死に場所が彼女の膝の上でよかった。
彼女の膝の上は心地いい。えっと、彼女の名前はなんて言ったっけ? 人間の名前は難しくてよく覚えていない。ただ、彼女が僕にとても良くしてくれたのは覚えている。
僕がまだ幼い頃にミルクをくれたり、撫でてくれたりした。ああ、でもそれは今でもしてくれるか。本当にありがたい。最近は年のせいか、動くのも億劫になってきていたから。今も、彼女は僕の背中を撫でてくれている。目はもう開かないけれども、そのぶん彼女の手の平の温もりをより感じることができている。
彼女が、僕の名前を呼んだような気がした。彼女の声も好きだったから、せめて最後に彼女の声を聞きたいものだ。死ぬ間際なのだから、神様もそんなささやかな願いくらいは叶えてくれるんじゃないだろうか、と期待してみる。
彼女はとても泣き虫だ。小さな頃からよく泣いていた。僕が大きくなっても、彼女はまだしばらく小さかったから、何度も慰めてあげたものだ。覚えてくれているだろうか。多分、僕たち猫と人間とでは、流れる時間が違うのだろう。彼女は大きくなったけれども、それでもまだまだ子供だ。これから先も見守ってあげなきゃいけないけれども、どうやらそれももう出来そうにない。それが少し、心残りだ。
「ふじまる」
と、彼女の声が聞こえた。ああ、神様は意外と優しい。最期に僕の願いを叶えてくれた。
そして、僕の背中に何かが落ちた。
水滴……いや、涙か。やれやれ、彼女はまた泣いているのか。残念だけれども、僕はもうキミを慰めてあげる事は出来ないよ。だから、これからは自分の力で乗り越えておくれ。僕は知ってるよ、キミは泣き虫だけれども、そのぶん強いってことを。だから、キミなら乗り越えられる。これから先に待つどんな困難も。
僕は、キミに出会えて幸せだった。
本当にありがとう。
そして願わくば生まれ変わってまたキミと……
* * *
ふじまるが死んで、一年が経った。
会社からの帰り道。
月が明るく、静かな夜。
不意に耳に入ってきた猫の鳴き声。
その声が気になって、辺りを見回してみる。その声に、聞き覚えがあるような気がした。耳馴染のある、少し低い声。
公園の木の下に小さな段ボール箱があった。
その中には小さな灰色の子猫が一匹、丸まっていた。
まるで、ふじまるのような子猫。
ここでこうして、ふじまるに似たこの子猫と出会えたことに、意味はあるのだろうか。あれから一年。意外とショックは引きずらなかった。新しく始まった生活に必死だったからかもしれない。そうして仕事に慣れ始めた頃に一人暮らしを始め、その一人暮らしにもようやく慣れてきた。一人暮らしは少し静かすぎて落ち着かなくて、また猫でも飼おうか、と考えていた矢先だった。目の前のこの子猫は、そんな私に神様が遣わしてくれたのだろうか。ふじまるにそっくりな猫を。
もしそうならば、神さまは意外と優しいのかもしれない。
ダンボールの中にうずくまる子猫がゆっくりと顔を上げた。ビー玉のように澄んだ瞳が私を真っ直ぐに見る。
「やあ、また会えたね」
と、そう言われたような気がした。
神様は意外と優しい 綿柾澄香 @watamasa
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