外伝『もうひとつの最終決戦〜四十年前のスパイ〜』
ミッション:アメリカ・ヴァージニア州→西ドイツ・西ベルリン(※時空の向こう側)
REISE1 猟犬、四十年前の世界に立つ
アパートの二階に、相棒が住んでいる。
インターホンの呼び出しボタンを押すと、やがてドアが開き、明るめの茶髪が、人の好さそうな笑みとともにひょこっと現れた。
何度目かの、相棒宅への訪問。
部屋の主の視線が、ここまで抱えてきたブツに注がれる。「やった!」と、小さく声がもれる。
「入って入って」
入室をうながされ、両手に大きな包みを抱えた男――
部屋の主・
包みの中には両手鍋。蓋を外すと、一人で食べるには多すぎる量の、色とりどりの旬の具材。
折賀が肘にぶら下げてきたエコバッグには、「
さらに「しめ」用のうどんまで。今夜の鍋は豚カレーだ。
「二人で仲良く食べてね♡」というメッセージがありありと読みとれる品ぞろえは、折賀の母親の発案に違いない。
この完璧な布陣を前に、鍋だけ受け取って相棒をそのまま帰すほど無慈悲な甲斐ではない。
美弥ちゃんは忙しいんだ。しかたがない、しかたない。
十九歳の男が母親の言いつけどおりに、両手に鍋を抱えて一駅分の距離をてくてく歩いてきたのだ。自慢の駿足もさすがに封印だ。
「美弥ちゃん、今日は宿題忙しいんだって?」
「『おわびに愛情たっぷり増量しときました』だと」
「日によって兄妹どっちが来るかわかんないって、まるで兄妹ガチャだな。オリガチャか」
それも違和感がない。一人暮らしをしていても、甲斐は何かと折賀家全員にかまわれている。
美弥との交際を報告する際に「家事はちゃんとやる」と宣言した甲斐だったが、「勉強が忙しいときくらい甘えればいい。普通だろ」という相棒の言葉にありがたく乗っかって、こうしてたまに食事の差し入れをいただいている。
この場にいない二人の女性と、「体はデカいが影の薄い、一家の大黒柱」への感謝の念を込めながら、鍋をおいしくいただいた、若者二人――通称「
◇ ◇ ◇
以前、折賀の叔父が訪問した際に
「ほんとになんにもない部屋なんだねー。まさか冷蔵庫も洗濯機もないとは思わなかったよー」
とディスられ、透明な衣装ケースを食卓代わりにしていた甲斐の部屋には、今はさすがに小さな座卓や冷蔵庫が設置されている。
座卓の上で、たっぷりの肉に野菜、「しめ」のカレーうどんまでおいしくいただき、スープの最後の一滴まで存分に味わいつくした二人。
満足げに足を伸ばして「ふー、食った食ったー」と大きな息をついた甲斐が、首をこてんと傾けて、
「なー、また、あの話してよ。今俺たちしかいないんだし」
「この前けっこう話したけど。お前、序盤で寝てたよな?」
「だってお前、戦時のCIA設立の話なんてのをクドクドと……いやいや、今日はちゃんと聞くから!」
甲斐が言う「あの話」とは、二人がもとCIA長官・ハーツホーンを追って離れ離れになり、それぞれの場所で目的を完遂した、あのときの話だ。
部外者に語るには、あまりに奇想天外。
報告書にまとめるにも荒唐無稽すぎて、記録に残すことを断念したほどだ。
甲斐が知らない、折賀だけが経験した空間と時間。
まめな折賀は個人的に少しずつ書き綴っているが、甲斐はそれを読むよりも折賀の口から聞くことにこだわった。
「CIAって、確か
首を起こし、さっきよりも少し真面目な口調で甲斐が尋ねる。
「それだけじゃないが、そうだ」
「なんか……複雑な気分だな」
甲斐の言いたいことはわかる。
日米の間には、今なお決して消えることのない甚大な遺恨がある。
甲斐はアメリカ人と日本人の間に生まれた。
折賀の信頼する上司もアメリカ人。
二人とも、CIA傘下の組織で日本を拠点とし、日米のメンバーに囲まれて働いてきた。
別に、あの国を国家単位でひいきしているわけじゃない。
ただ、周りのメンバーたちとの良好な関係が続いてほしいと思うのだ。
「国の違いとか、民族の違いとか。そんなものとっぱらって、世界中みんなが仲良くなれたらいいのにな」
甲斐がつぶやく。折賀も同じ思いだ。
二人とも、あのときのミッションで、それぞれがアメリカ人と手を組んで成果をあげた。
各国の持ち味・文化を薄める必要はない。
ただ、見えざる壁が少しでも低くなれば。いっそ、壊してしまえれば。
あの、ドイツの都市・ベルリンを分断した、あまりに有名な壁のように。
「ハーツホーン・ミッション」と二人が呼んでいる、あのときの作戦。
こことは違う世界で、甲斐は十年前のアメリカへ飛び、ハーツホーンの兄を救出した。
折賀が訪れたのは、四十年前のアメリカ。
そして、まだ壁があったころの東西のベルリンだ。
ハーツホーンの、捕らわれた父親を助け出すために。
◇ ◇ ◇
あのとき――
病院の中庭で荒れ狂う巨大な渦を、二人は崩れかけた病棟の上階から見下ろしていた。
ハーツホーンがコピー・吸収能力を発現した。
時空能力を欲した彼が、まさにその
このままでは、いずれ周囲をすべて吸いつくし、二人もろとも重力に飲み込まれて消えてしまうだろう。
折賀が言う。
「お前は最高の
甲斐は頭をわしゃわしゃとなでられた。
つまり、折賀は甲斐に触れていた。
理由はわからないが、あのとき、折賀だけに見えていた「気配」があった。
渦の向こう。
助けを求めるように手を伸ばしたハーツホーンに、別の小さな「気配」が重なった。
助けを求める声が、聴覚を支配しているはずの鳴動の中で、確かに聞こえた。
『……助けて……』
ハーツホーンの声? いや――
『僕の父さんを、助けて』
甲斐には聞こえていないらしい。聞こえたなら真っ先に反応するはずだ。
折賀だけに聞こえるなら、その声は折賀を求めている声。そう思った。
甲斐には告げなかった。
告げればきっと、こいつまで一緒に飛び込んでしまうだろう。
救える命があるなら救いたい。
この
折賀の手が甲斐から離れ、黒い
五感が引き裂かれるような感覚。
黒い渦が、生き物のように自分の全身を食らいつくす感触。
飛び込んだのは、やはり甘かったのか。
あの小さな声は、ただの空耳だったのか。
不思議と恐怖は感じなかった。
あの男――
自分が最強と認める男・イルハムが、声の主がいる場所まで導いたような気がしたから。
◇ ◇ ◇
空気にもみ込まれるような、鳴動がおさまった。
静かだ。呼吸はできる。手足も動くようだ。
ゆっくりと辺りを見回す。
視界の色は、ざっくりといえばグレーと、茶に近いオレンジ色で構成されている。
グレーなのは、空と道路。
茶色っぽいオレンジは、道路の両側にある歩道のタイルと、歩道に沿って立ち並ぶ建物の外壁。
歩道には、葉を茂らせた街路樹が等間隔で立ち並んでいる。
ところどころで、細長い街灯や道路標識が黒や黄色のアクセントを添えている。
折賀はそのひとつの建物――立派な外観を備えた二階建て住宅の、玄関前にある小さな階段に座り込んでいた。
ここは、おそらくどこかの平凡な住宅街だ。
日本とは違う。
海外でわりとよく見る景色だ。住民の姿は見えず、静まりかえっている。
道路標識は英語。
街の名前・通りの名前がわかる表示は見つけたが、どこの国のどのあたりなのかはわからない。
道路の片側には、住民のものと思われる自動車が、ずらっと何台も縦列で駐車してある。
道幅も、始めから駐車スペース分だけ広くとられている。
どの車も、ナンバープレートには「VIRGINIA」とある。
つまりアメリカ・ヴァージニア州。何度か訪れた、
だが、自分が知っているヴァージニアとは明らかに違う。
車が。どれも、どう見ても古いのだ。
ぺたんと薄く、やたらに細長いボンネット。曲線がほとんど見当たらない、カクカクとした横長ボディ。いまどきお目にかからないようなツートンカラー。
まるで、中古クラシックカーの展示場だ。
たまたま、歩道にぐしゃっと捨てられている新聞紙を見つけた。
拾い上げ、広げてみる。ワシントン・ポスト紙だ。
上の方に、発行の曜日と年月日が記載されている。
「時間」と「空間」の、大雑把な見当がついた。
自分がいた時代の、ちょうど四十年前。
場所はヴァージニア。
あの渦に飛び込んだ先が、この時間・この空間だというのなら。
イーッカたちのいる異次元世界へ飛んだときのように、自分はまた、時空能力でここまで「飛ばされた」んだろう。
次は、「ここで自分が何をすべきなのか」と、「どうすればもとの世界へ戻れるか」を探る。
ここがどこであれ、きっと自分は何かを成し遂げるために来たはずだ。
『僕の父さんを、助けて』
おそらくは、あのとき聞いた小さな声に応えるために。
「そうだろう、イルハム」
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