REISE2 猟犬、四十年前の少年に逢う
ここは「四十年前」。
といっても――
折賀は思案した。
「過去へ戻ることはできない」という概念は知っていた。
どの過去へ飛んで、何をしても――いや、何もしなくても、過去に身を置けば必ずタイム・パラドックスが発生する。
現に、今ここにいるだけで、この時代・この空間には存在しないはずの化学物質・微生物・菌などを、どれだけ持ち込んでいることか。
自分がまだ生まれていない時代に、自分が影響を与える。
それだけで、もといた時代は全く異なる時代となってしまう。
自分がここへ来る理由さえもなくなってしまうだろう。
理論上、未来へのタイムジャンプは可能とされている。
いわゆるコールド・スリープや重力差による時間の流れの相違を利用して、年をとらないまま時間を駆け抜ける、という方法だ。
いったん未来へ飛べば、もとの時代に戻ることはできない。時間旅行は一方通行なのだ。
並行世界――。
イーッカが言っていた言葉が浮かんだ。
ここは、「別の世界」の「四十年前」。
自分を呼んだ声の主は、この世界の住人なのか。
イルハムの意志を感じる。
自分がここに来た意味を、確かめなければ。
◇ ◇ ◇
初めて折賀以外の存在が現れた。
車が一台やってくる。
グレーのフォード・マスタング。もちろんこの時代のモデル。
長いボンネットの向こう、運転席には四十代か五十代に見える淡い金髪の男が乗っている。
車は、すぐそばの住宅の横のガレージへ入っていく。
折賀は街路樹の陰に身を隠した。自分のような黒ジャージ姿の日本人が、この町に違和感なく溶け込めているとは思えない。
男性が車から降りて、玄関前へと回ったとき。
「グレンバーグさん!」
意識がはねた。聞き覚えのある名に、聞き覚えのある声だ。
ひとりの少年が突然現れて、グレンバーグと呼ばれた男の前に駆け寄ってきた。男が驚きの声を上げる。
「ロディ? きみ、なんでここへ! ひとりで来たのか?」
「グレンバーグさん! お願いします、僕の父さんを助けて!」
あの声だ。ハーツホーンが巻き起こした渦の向こう、鼓膜の奥に響いてきた小さな声。
「ロディ、それは……とにかく、今日はもう遅い。また今度な、送っていくから」
「ウソだ! そう言ってあなたはずっと――」
「ロディ」
グレンバーグの言葉に、暗い重みが加わった。
「子供が出歩いていい時間じゃない。警察を呼んで送ってもらうことにするぞ」
警察、と聞いて少年の動きが止まった。
勢いのままに出そうになっていた言葉を飲み込んで、代わりに静かな、どこか遠くへ思いを馳せるような目で、違う言葉を紡ぎ出す。
「もうすぐここへ、助けてくれる人が現れます。その人を、追い返さないで。否定しないで。あなたがダメでも、その人が、ちゃんと繋いでくれます」
「ロディ?」
「帰ります。それじゃ……」
少年は
グレンバーグは、ため息をついて自宅に向かい、玄関ドアの向こうへ姿を消した。
折賀はその住所をさっと確認し、静かに、少年のあとを追った。
◇ ◇ ◇
グレンバーグの言うとおり、日没の時刻が近づいている。
空の灰色が、夜を迎えるために一秒ごとに色濃くなっていく。
少年はバス停のベンチに座っていた。ここまでひとりで、バスで来たのだろう。
折賀も、少し離れた場所へ腰を下ろす。
「ロディ」
できるだけ優しく、声をかけた。
少年が折賀を見る。茶色の髪にグレーの瞳。まだ十代半ばの、愛らしい少年の顔だ。
「俺は、遠くから来た。たぶん、きみの声を聞いたからだ」
少年の目が大きく見開かれた。
「じゃあ、あなたが」
「さっきの話を聞いた。きみが呼んだのは、俺で間違いないか?」
ロディは少し困ったような顔をした。
自分が「助け」だと思って呼んだ人物は、本当にこの見慣れない風体のアジア系の若者なのだろうか。そう考えているようだ。
「たぶん、そうだと思います……。僕が、どんな理由で呼んだのかわかりますか」
「ざっとだが、察しはついた」
詳細は、この少年にではなく、グレンバーグに聞かなければならないということも。
少年はロディアス・ハーツホーン。あのハーツホーンの、少年の時の姿。
男性はグレンバーグ。年齢的に、かつて工作本部長だったという、アティースの祖父に当たる人物で間違いないだろう。
自分は、ロディの声に応えて、敵国に捕まって殉職したという彼の父親を助けるためにここへ来た。
父親がCIA局員である以上、まず局内の人物に情報をもらう必要がある。
工作本部長というポストならその点は何の問題もないはずだが、先刻の態度を見る限り、そう簡単にはいかないだろう。
おそらく、CIA側はロディの父親を局員だと認めていない。
ハレドとの死闘が終わり、ハーツホーンの裏切りが露呈した、あのとき。
アティースは、ハーツホーンの妻子はもちろん、過去についても徹底的に調べ上げた。
父親と兄に関するファイルは、肝心な箇所がすべて真っ黒に塗りつぶされていた。極秘文書ではお決まりの
二人の関わった作戦は、決して表に出てはいけない、CIA発令であるとは認められないことを意味している。
「きみは、どうやって父親のことやあのグレンバーグのことを知ったんだ?」
このような状況で、すぐに家族に連絡がいくとは考えにくい。
いくらロディが聡明に見えるとしても、ただの少年が工作本部長の所までたどり着くことなど、まず不可能なのだ。
そう、少年ロディの瞳はどこまでも澄んで、深い知性を思わせる。
この少年が、四十年後にはあんなことを――
いや、それを防ぐために俺はここまで来たはずだ。折賀は自分に言い聞かせた。
「グレンバーグさんは、何度かうちに来たことがあって。父さんと何か深刻な話をしていました。だから、父さんに何が起きたのか、あの人なら知ってると思ったんです。住所や電話番号もうちにありました。
父さんが今危険な目に遭っている、というのは、なんでわかったのか、僕にもよくわからなくて……
でも、今父さんを助けないと、僕も、それから兄さんも。みんなが大変なことになるんです」
兄のことまでわかるのか。兄の殉職は、まだずっと先の話だったはず。
予知能力なのか、千里眼というべきか。
この少年には不思議な能力がある。
もとの世界のハーツホーンにはなくて、このロディにはあるもの。
きっとこれが、「この世界のハーツホーン」なら助けられるかもしれない、という理由なのだ。
「グレンバーグに話をつけなきゃいけないな」
それがまず難題だが、折賀はさらっと何でもない風に言った。少しでもロディを安心させるために。
「きみはもう帰った方がいい。家族が心配するだろう。話の方は、俺が進めとく」
「あ、あの」
少年は驚いた。本当に助けてくれるの? と、その目が言っている。
「また、会えますよね?」
「そうだな。きりがいいところで連絡する。電話番号教えてくれるか?」
「あ、じゃあ、母が出ると思うので、同じクラスのトレス・ベイリーだと名乗ってください。ちょうど、お兄さんに声がちょっと似てるので」
頭の回転が速い。確かに、折賀の素性を母親にそのまま説明するのは難しいだろう。
折賀はロディの自宅とグレンバーグの自宅の電話番号を聞き、その場で記憶した。ついでに、電話をかけるためのコインを少しもらっておいた。
「ところで、お兄さんの名前は……?」
そういえば、まだ名乗っていなかった。
「俺はオリガ。きみに会うのは今日が初めてだけど、少しばかりきみに縁のある者だ。俺にどこまでできるかわからないが、力の及ぶ限りはやらせてもらうよ。よろしく頼む」
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