前日譚(片水崎高校)
CODE0 文化祭当日のシフトは最重要事案です!
9月20日
――
暑い。とにかく暑い。
文化祭を二日後に控えたこの日の朝、俺は目に入ろうとする汗を手で何度もぬぐいながら、ようやく二年一組の教室に到着した。
教室内は冷房が効いているのがせめてもの救い。
ふかふかの大判タオルで思いっきり顔を拭きたいところだけど、あいにくリュックの中にはいつ洗濯したのか思い出せないよれよれの小さいタオルしか見つからない。
仕方なくそれで顔を拭いてると、背後から聞き慣れたいつもの声が飛んできた。
「甲斐、はよーっす!」
来たなサッカー部員。
いつものように陽気なオレンジ色の空気をふりまきながら、まるでここまでドリブルしてきたかのような勢いで教室内に駆け込んだかと思うと、そのまま俺の前の席に滑り込む。
こいつもめっちゃ汗かいてるけど、息があがってないのはさすがだ。
俺が「おー」とあいさつを返すと、お調子者
「――甲斐。例の作戦、いよいよ本日決行する。時刻は十二時十分。打ち合わせどおり、援護を頼む」
「え、やだよ?」
「そっ、そこをなんとかっ!」
一瞬だけ男らしくなったタクの顔は、俺の正直すぎる返答を聞いたとたん、いつもの顔に戻ってしまった。
やつをとりまくオレンジ色の中に、少しずつ不安の色がにじみ始めている。
そりゃ不安なのもわかるよ、だけど。
「告白くらいひとりで行けよ! 告白するのに付き添ってほしいって、あほか! 女子か!」
「だってだって! もしフラれたら間違いなく俺は死ぬ! そのとき誰が俺をここまで連れ帰ってくるというんだ!」
「知らんわ! 男らしくひとりで死んでろよ! だいたい俺に肉体労働をゆだねる時点で作戦崩壊だろ!」
「じゃあせめて骨一本拾ってくれるだけでもー!」
周囲にわき起こる爆笑をものともせず、なおも追いすがるタク。
こいつは普段はみんなをグイグイ引っぱる頼れる行動派のくせに、好きな彼女に関してのみビビリレベルMAXを発動してしまうらしい。
今までにも彼女をデートに誘う勇気が出せず、俺がつきあわされて三人で遊びに行ったことが計三回――俺と彼女の間に何かが芽生えたらどうするつもりだったんだ。いや結局何も芽生えなかったけどさ。
周囲の男子どもの大半は、タクを見ながらゲラゲラ笑っているけど、ひとり笑っていない男子がいる。
ダークブルーの色をまとったそいつは、俺たちの方に近づいてくると、「岩永」、とタクの名を呼んだ。
◇ ◇ ◇
二学期に入ってから、教室内の一部の空気があきらかに変化し始めていた。
相も変わらずバカ騒ぎやゲームに興じる男子どもとははっきりと一線を画した、女子たちがにぎやかに集まる区域。
その中心に、いつもひとりの男子がいた。
――
別に、こいつがひとりでモテモテハーレムを築いているわけではない。
彼らはまじめに、文化祭のための準備を進めているのだ。
文化祭の組担当実行委員は男子の
で、クラスの女子たちが文化祭実行委員の折賀にどうにかならないかと訴えたのが発端だ。
当の井出に詰めよってものれんに腕押しなので、結局折賀がさっさとやるべきことを整理して動き始めてしまった。
その結果、折賀の有能ぶりに感心した女子がやつの周囲に群がり、女子の間で役割分担をし、てきぱきと着実に作業をこなしている。
一学期中に
その一方、男子の中では、折賀と女子たちのあまりの手際のよさに
「別に今さら俺たちが出張らなくてもよくね?」
という空気が漂ってしまっている。
男子は文化祭当日に突っ立って客寄せだけしてればいい、と言うやつもいれば、女子と急速に仲よくなった折賀をやっかむやつさえいる。
タクが健在なら、何かしらこの空気を変えてくれそうなもんだけど――本日昼休みの告白ミッションを完遂するまで、こいつはいないものと思っといた方がいい。
ちなみにクラスの出し物は
衣装・メニュー・ビラ・看板等の作成、室内と廊下の装飾、食材や備品の買い出し――と、やることはいくらでもある。
そういや井出が発注したはずの組Tシャツもまだ配られてないけど、まにあうのか?
そんな状況の中、折賀がタクに声をかけてきた。
「岩永。当日のシフト希望まだ出してないのお前だけだぞ。さっさと出してくれ」
「あ、ああ……当日のシフトね、えっと……」
タクをとりまく『色』が、わやわやと、あちこちに意識を散らし始める。文字どおり目も泳ぎまくってるし。
さっきまでのタクの叫びを聞いていたやつなら、こいつがシフト希望をまだ出せない理由に合点がいくだろう。折賀が聞いてたかどうかは知らんけど。
「ええと、ちょっとまだ決めらんなくてさ……今日の放課後でもいい?」
「昼休み中だ。放課後まで持ち込むな。俺だってとっとと帰りたいんだ」
反論の余地もない。
折賀の負担を考えるなら、やっぱ俺が付き添ってミッションの行方を見届けて、シフト希望を出すところまでセットで面倒見てやるしかなさそう。
「甲斐は、いつでも大丈夫、ってことでよかったよな」
ふいに名前を呼ばれて、折賀と目が合った。
こいつの色は、いつ見てもブレがない。
ゆるぎないダークブルー。
高潔な責任感のあらわれとみるべきか、それとも黒い悪感情の一歩手前か――もちろん前者だと信じたい。
「ああ、うん。俺、部活とかないし、バイトも融通きくとこだし。人手が足りなかったら長めに出てもいいよ」
手伝いを申し出るにはちょうどいい機会だった。
俺がそう答えると、折賀の両目がキラーンと鋭く光った――ような気がした。気のせい?
「それは助かる。クラスより文実の方でいくらか人手が欲しいんだが、少しだけ何か頼めるか?」
「え? うん、まあ簡単なやつなら」
「じゃああとで仕事のリストをざっと送信するから、どれができるか返信頼むな」
俺の連絡先を教えようとしたら、もうとっくにクラス全員分を登録済みだという。さすがに仕事が早い。
そして折賀が自分の席に戻って間もなく、俺のスマホにはズラーッと文実の当日の仕事内容が並べられた長文メッセージが送られてきたのだった。仕事早すぎだろ!
◇ ◇ ◇
昼休み。タクの決戦のときがついにやってきた。
タクだけでなく、俺も折賀に返事しなきゃいけねーから、どっちに転んでもさっさと話が終わってくれると助かるんだけど。
いや、もちろんタクの幸せを願ってますよ? 一応親友として。
「あ、あのさ、
暑い中わざわざこんなところに呼び出しといて、その前置きは必要ないだろ。
タク、ズバッと言っちまえ!
「えーと、あさって文化祭だろ、あー、だからってわけじゃねーけど、つまり、えーと……」
ここまで来てビビリスキルが止まらないとか。それでもFWか。
場所は、体育館と特別室棟に挟まれた細い通路。
告白の相手は、俺たちの一コ下で、タクとは家がとなりどうしの幼なじみという、「岩永ラブコメ界」最重要キャラ確定の小柄な女子・
新聞部所属で、その身を縁どる基本色はいつもほぼオレンジかイエロー。つまりタクとはかなり近い性質だ、たぶん。
「あ、もしかして」
タクがもたついてるうちに、勘の鋭い相田の方が話を始めてしまった。
「まさかの三人同時告白ぅ―!? 相田人生初のモテ期到来っすか!」
はいー??
「違う! 断じて違う! 甲斐はただの付き添い! ……って、あれ、三人?」
タクと俺が、同時に相田の視線を追ってふり返る。
視線の先には、ここにはいなかったはずの第三の男――青黒き
「折賀ぁ!? お前なんでこんなとこにいんだよッ!」
「井出を捜してるだけだ。お前ら、井出見なかったか」
「今のこの状況わかんねーかなー? 少しは空気読んでくれよ!」
緊張で心臓が縮みっぱなしのタクは、もちろん余裕のカケラもなくブチ切れ寸前。
「この、俺が! 一世一代の告白をしようってときに! イケメンが背後に立つんじゃねー! 俺の雄姿がかすんじまうだろーがーー!」
威勢だけはあっぱれだけど、怒りの内容がセコいぞタク!
――そのとき、タクにとってあるまじき事態が起こってしまった。
相田が目をキラキラさせながら折賀のもとに駆けよったのだ!
「折賀センパイ! ずっとお待ちしておりました! やっぱり来てくれたんですねー!」
なにこの状況??
絶賛絶句中の俺とタクの眼前で、なだれのごとき相田の語りが止まらない!
「来てくださると信じてましたー! わが新聞部が心血注いで作りあげた文化祭特別企画! 『
「……あんた、さあ」
ようやく相田が一呼吸おいたところで、折賀が呆れたような声を出した。
「何度言われたって断るに決まってんだろ。帰宅部だぞ、俺は……」
「だからこそです! 終業の合図とともに鮮やかにその身をひるがえし、自分たちの部に引き込もうと追走する各部エースの勧誘攻撃をもすべてかわし、ただひたすらに『一刻も早く帰宅する』ことのみを追い求める孤高のランナー! 運動会リレーやマラソン大会で文句なしのぶっちぎり一位を記録し、校内歴代俊足ランキングにおいてその名を知らぬ者なし、人呼んで『神速の帰宅部部長』――! センパイ以上に部長の名にふさわしいセンパイがおりますでしょうかー!?」
「……もう行っていいか?」
俺も帰宅部なんだけど、部長職が存在してたとは知らんかったわ。
相田の
「岩永――わかってるな。あと二十分だ」
「う、うぐッ……!」
場を
「タク……あんた、まさか折賀センパイにとんでもないご迷惑を……」
「いや、あのですね、俺はまずお前に告ってから……」
相田の『色』に赤黒いものが入り交じり始めている。これはヤバイ!
「このッバカタレーー! 告白だったらOKしてやるからとっととセンパイのために尽くさんかい! 二十分もお待たせすんなー!」
ここまで暴虐的な交際OKのお返事、初めて聞いた!
相田の中ではとっくに気持ちが決まってたんだろうけど。もう、タクが相田の小さな尻に敷かれまくる未来しか見えない。
立ち去りかけてた折賀は一瞬で状況を把握し、タクではなく相田に文化祭当日のシフト時間を聞き出し、手際よく仕事をひとつ済ませてしまった。
要するに、たった今できたてのカップルが一緒に文化祭を回れるよう、シフトの調整をしてくれるということだ。さすが女子の人望が厚いだけのことはある。
そのとき、俺の視界の
「折賀、井出捜してるんだったよな?」
「ああ、あいついくら言っても組T持ってこねえから、今日中に取りに帰らせようと思ってな」
やっぱその件か。
俺は折賀の仕事がもうひとつはかどるようにと、つい、余計な一言を言ってしまった。
「井出だったら、今体育館に入ってったよ」
折賀の目が瞬時に体育館の方向をとらえる。
その瞬間、俺は自分が大失態をやらかしたことに気がついた。――やっちまった!
俺たちが今いる通路と体育館の間はフェンスで区切られていて、さらにフェンスの向こう側には高さ二メートル超えの、隙間なく密集したシラカシの垣根が続いている。
垣根の上に体育館は見えても、そこへ向かう人の姿を確認することはほぼ不可能なのだ。
俺には人が発する『色』が、
俺の目に映ったのは井出の『色』だけだった。言い直さなきゃ気づかれる!
「あー、今、なんか井出っぽい声が聞こえてさ……それにあいつ、体育館に行くって言ってたような気がするし」
我ながら苦しい言い訳。声なんてほとんど聞こえなかったし。
「本当にあっちか?」と、折賀はわずかに両眉をよせて考えるような様子を見せたが、いきなり青黒い炎のエフェクトをブワッと増大させたかと思うと、
「これから井出を狩りにいく。あの野郎、人のメッセージ何度も無視しやがって……舞台組に釘もらって、文実掲示板に
と、本当にやりそうな怖いセリフを吐いたあと、異名に
……だ、大丈夫だよな?
あの様子なら、井出を発見しだい俺の発言の違和感なんてすぐに忘れてしまう、はずだ。たぶん。
そのとき、すっかり放心しきって時間に取り残されていたひとりの男が、ようやく口を開いた。
「ま、マジ? 早夜、マジで俺とつきあってくれんの?」
おせーッ!!
◇ ◇ ◇
9月21日
翌日、文化祭前日準備の日。
担任が、なかなか姿を見せないと思ってたら、突然大慌てで教室に駆け込んできた。
「みんな、突然だけど聞いてくれ。折賀が本日付で急に学校を辞めることになった。家の都合で急に決まったそうだ。
本人はもう学校に来れないらしいから、原田、あいつの荷物まとめておいてやってくれ。ロッカーはあとで先生が開けておく」
騒然となった教室の中で、やつが受け取るはずだった黒いTシャツが一枚、机の上に寂しく置かれていた。
――いったい、なにがどうなってんだ……?
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