第15話
二時間ほど電車に揺られて女は終点の駅で降りた。広く明るい構内で、人並みに呑まれながら改札を出て呆然と立ち尽くす。わざとらしい白光と騒音に晒されたその姿はまるで白痴であり、足早に帰る人や酔っ払い。時間を持て余している暇人などのどれにも属さず一個として孤立していた。
半ば混乱のまま見知らぬ土地へ運ばれてきてしまった彼女が身を寄せる場所など知るわけもない。家庭という檻の中で世界の断片しか認識できなかったわけだから一人で生きていく術を持ち得るはずもなく、無力であった。
ひとまず、なけなしの金を使って宿泊しようという判断くらいはできたようで、女はホテルを回った。とはいえ、予約もなくいきなり客を入れるような宿などは早々なく、しばらく断られ歩き、ようやく腰を落ち着けられたのは、ドヤに毛が生えたような、狭く粗末な部屋だった。
「……」
女はベッドに腰掛け消沈している。だが恐らくそれは、罪の意識に駆られたり贖罪の念に打ちひしがれているというわけではなく、単に底質な部屋に対しての嫌悪と、このような場所に身を落とさなければならない不運(少なくとも女はそう思っているだろう)への嘆きであろう。中流家庭で生まれ育ち、中流家庭の嫁となった女は凡そ底辺の人生とは無縁であり他人事であった。テレビで食うにも困る人間の特集がニュースで流れてもショウとしか認識できず、金がないと四畳半で悲嘆に暮れる貧者を眺めながら茶と菓子を食べていた彼女にとって、今のこの状況は、落ちぶれていくしかない現実は、悪夢以外の何者でもないのである。
「……」
小さなベッドに横になった女の目からは雫が零れ落ち、儚い筋が顔に通る。彼女の積み上げてきた、普通、平凡といったものが流れ落ちていくようで、そこには悲劇めいた破滅への影が忍び寄っていた。
「……」
女は横になったまま動かなかったが、日付が変わって少し経つと服を脱いでおざなりにシャワーを浴び、しっかりと歯を磨いた後に備え付けの部屋着を纏って床に就いた。寝息は聞こえない。もしかしたら起きていて、今後の身の振り方や逃走経路などを考えているのかもしれないが、微動だにしない彼女の姿からはうかがい知る事はできず、静かに時が過ぎ、風が何度か吹き荒れると、夜が明けたのだった。
女が動き出したのは五時だった。目覚ましがなくとも自然と目覚められるほど染み付いた生活サイクルは慣れぬ枕の上においても狂う事なく働くようで、ベッドから立ち上がった瞬間から一寸の怠慢も見せずに女は用意を済ませてしまった。そうしてベッドに座り、テレビをつける。朝一番のニュースが流れると、モニタには女の住んでいる田舎の風景が映し出されていた。
十歳の少年が行方不明。
先日姿を消した父子の母親も姿を消す。
警察は事件と事故の両方で調査中。
……
女は急いでテレビを消し、荷物を持って部屋を出て、古いフロントに鍵を置いてホテルを後にした。受付は明らかに怪訝な顔をしていたが女はそれに気付く余裕もないようで、足早に駅へ向かい、乗れる電車に飛び乗ったのだった。
ただ流されるままに女は逃げていく。
いったい何処へ行きたいのか。どうすれば彼女は救われるのか。その答えは、彼女自身も、分かっていなかった。
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