第10話

 受話器を置いた女は顔だけ洗うと、申し訳程度に化粧を塗り直し、タクシーを呼んで外へ出た。




「警察署までお願いします」


 女が一言そう告げると、運転手は訝しみながらも「はい」と返事をしただけで、それからは何も発さず車を発進させた。事情を聞きたそうにも見えたが、バックミラー越しに映る虚ろな女の姿が彼の口を噤ませたのだろう。





「千六百円です」


「はい。ありがとうございます」


 金を渡し、頭を下げてタクシーから出る。

 女はそのまま警察署内へ入り、受付で電話をしたものだと述べると、入退室に必要なカードを渡され「生活安全課へお願いします」と機械的な案内を受けた。




「はい。分かりました」



 女はこんなものかというような顔で案内の通りに生活安全課と書いてある札の窓口へ足を進めた。


「あの、すみません。先程お電話しました……」


「あぁ。はい。いらっしゃっていると、受付で聞いています。まぁとりあえず、事情も聞かなきゃならんので、こちらに……」


「はぁ……」


 なぁなぁと対応をする中年の警察官に連れられ女は奥の部屋に入った。そこはドラマなどで観るような、いわゆる取り調べ室と劇中で呼ばれている部屋の構造に似ており、今ひとつ現実味を実感できぬといった面持ちで、勧められるままに椅子に腰をかけたのだった。


「それじゃあね。昨日の夜から旦那さんと息子さんがご帰宅なさらないと。そういうわけですね」


「はい……」


「はいはい。えぇっとですね。不躾で悪いのですが、昨夜、旦那さんと喧嘩でもしましたか。いや、すみませんね。一応、聞かなきゃいけない決まりになってまして」


 そうした取り決めが本当にあるのかどうか、女には知る由もない。しかし、人が二人。しかも一人は子供であるならば、なにかしら探りを入れてくるのは当然であり、その点に関しては女も予測はできていた。


「はい。その……」


 目を伏せ、声を詰まらせる女。思わせぶりな態度に、警察官が身を乗り出す。


「なにかあったのですか」


「……私、旦那と子供と、上手くいかなくって……でも、それを中々、本人には言えなくて……辛い時は、あの、恥ずかしい話なのですが……」


 卓に放り出される女の両腕は袖が捲られ、その下の、血が沁みた包帯があらわとなっている。


「リストカットを……」


 説明するまでもないがそれは女が自ら切ってできて傷である。


「あぁ。はい。なるほどなるほど」


 警察官はまいったなという風に小刻みに頷きながら椅子にもたれて腕を組んだ。


「昨夜も、なんだか一人考え込んでしまって……当てつけで旦那に見せてやろうと思って切ったのですが、それを見たら、随分怒りまして、子供と一緒に……」


「えぇ。分かりました。それは大変でしょうな。それでは、捜索願いを出されるという形でよろしいですか?」


「はい。お願いします」


 手続きは順調に進んでいった。女は書面で旦那と息子の特徴などを記し、警察官はそれを退屈そうに眺めるだけだった。思いの外順調に事が進み、心なしか女の口角が上がった気がするが、それはいつもの鉄面皮に比べればそう思えるかもしれないという違和感未満のものであり、実際のところは欠伸を噛み殺したくらいの事なのかもしれない。だが、彼女の緊張に若干の綻びができたことは確かで、針金でも入っていたかのように鋭角だった身体の力が抜けて、気が付けばひしゃげたように、首から腰にかけて曲がった状態で座っていた。何のことはない。すぐ終わるじゃないかとでも言うように、女は油断をしたのである。


 だがそれが甘かったと、すぐに実感する事となる。


「失礼。遅くなりました」


「あぁはい。今、用紙に記入してもらってます」


「……」


 ノックとほぼ同時に男が入室してきた。目の前にいる中年とはまるで違い、きびとした動作で隙のない、猛禽のような眼光を光らす人間だった。


「すみませんね。一応、事件性のある場合も考えて、刑事さんにも話を聞いてもらいますので」



 中年の警察官はそう言ってニヤと愛想笑いを浮かべたが、それとは対照的に刑事の方は、まるで女を犯人かのように鋭く睨らむ。


「はい。分かりました。刑事さん。お願いします」


 女の身体が、再び強張った。

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