第7話

 未だ陽が居座っていた。

 息子が息絶えたのを確認した女は浴槽に水を張り、氷を入れてそこへ死体を沈めた。息子は知らぬ間に腕や足を打っていたらしく所々に痣ができ、鬱血した斑点が睡蓮のように深く、静かに色付いている。


「……」


 女はその傍にしずと立ち、穏やかにそれを眺める。子殺をした人間とは思えぬ表情はアントワーヌウィールツが描く絵から出てきかの如く、正気を逸脱した微笑を浮かべている。自身の凶行とその結果に如何なる思いがあるのか、女の顔からは推し量ることはできない。


 しばらく息子の死体を眺めた女は、頃合いを計り居間へ戻って息子を殺す時に倒れた椅子などを片付け始めた。意識的になのか、それとも無意識になのか、鼻歌を交え軽快にガラス片などを拾っていく。大変な散らかりようにも関わらず随分機嫌よく掃除をしていく。


 更に、女はその後夕食を作り始めた。準備した食材は優に五人分はある。育ち盛りの子供と、働き盛りの旦那にだすのであれば妥当と判断できる量であった。


 肉を叩き衣をつけて、油の入った鍋に沈めていくと、乾いた音が弾けていく。その間にキャベツを切って、トマトと共に皿へと盛り付けると、今度は出汁を火にかけ、朝のうちに刻んでおいた葱と蕪を入れ、味噌をといて味噌汁を作り、首尾よく揚がった肉を取り上げてキャベツの横に添えた。できあがったカツレツをカウンターに並べ、余った時間で食器を洗う。


 女は子細ないといった風に炊事をしていった。

 その光景は日常的な、普遍的に抱かれる主婦像そのままであったが、ありふれた単純な画が、殺人という非日常の輪郭を鮮明にさせ、一際に狂気を匂わせている。

 女の心中は、もはや常人には計り知れぬ境地へと至っていた。深層にあった破壊欲求が人知れず爆発し、現実と非現実を反転させたのだ。

 この分岐点が彼女にとって如何なる意味を持つのかは神さえも知らない。しかし、狂人の末路というのは、往々にして……







 十七時三十分前。居間は元の通り整理され、埃も落ちていない。一段落付き、日々と変わらぬ体勢で女はソファに腰を掛ける。そこには憂いも悲しみも焦りもなく、むしろいつもより清々しく見える。



「ただいま」


 それは旦那が帰ってきても同じであった。靴下をポケットに仕舞い、素足でフローリングを汚す旦那を前に、女は平然とした顔で対面していた。


「お帰りなさい。先に、お風呂へ入ってきてください」


「いや、飯にするよ。腹が減っちまった。坊を呼んでくれ。一緒に食おう」


 何があったかも知らずに旦那は口角を上げて自分の腹を撫でた。絵本で見る狸のような仕草を愛嬌ととるか下卑ととるかは人それぞれであろうが、少なくとも女にとっては、侮蔑の対象となり得る痴癖であった。


「いえ。先にお風呂へ」


 そんな旦那に女は食い下がり、静かに睨んだ。女の口調には芯があり、威圧的な印象を人に与える。


「いや、先に飯を……」


「いいですから。お風呂へ」


「……分かったよ。先に風呂入るよ。着替えを用意してくれ」


 気圧されたのか、旦那は渋々と女に従って、ゆっくりと歩いて脱衣所へと入り服を脱ぐ。そして、浴室への扉を開けると、風呂釜には……


「……おい」


 旦那は先までとは違い、機敏な動きで息子の死体に寄り抱き起こした。火照っていた顔が青ざめ、震えている。


「……おい……坊……坊!」


「どうしたの……」


 いつの間にか浴室の入り口に立っていた女の身体は奇妙に傾いている。まるで、なにかを隠すように。


「坊が……坊が……!」


 錯乱する旦那。女は、それを見て……



「あらまぁ……かわいそうねぇ……かわいそうねぇ……」




 かわいそうねぇ




 浴室が血に染まる。

 吹き出た鮮血が花を咲かし、辺りを染めていく。


「……!」


 喉を斬られた旦那は声を出す間もなく崩れ落ちていった。微小な意識が身体を動かそうとして四肢や胸をもぞと動かしたが、それだけだった。旦那の身体は脱力し、血溜まりに伏せ、生命の機能を停止させた。


「かわいそうね。かわいそうねぇ」


 女はそう呟きながら、白い歯を見せた。

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