第5話
女は朝食を出すと息子を起こし食卓に座らせた。
「朝起きられないなら夜更かしなんてしないでちょうだい」
女は冷たく咎める。以前までは勝手に起床し卓についていたのだが最近は部屋まで行って声をかけないと目を覚まさない。そんな息子の変化に、いらぬ手間が増えたと憤っている様子である。
「明日はしっかり起きる……」
欠伸交じりそう答え、息子は味噌汁を啜る。その際、ズズズと聞こえる大きな音に女は眉間に皺を寄せた。
息子も旦那も食べ方が卑しく、そのあまりに下品な作法に絶えかねた女は一々とマナーについて口出しした事も多々あったが、父子共々聞く耳を持たないどころか、ついには「細かい」と苦言を呈すのであった。以来、女は二人の好きなようにさせているが、内心唾棄したいほどに嫌悪し、軽蔑していた。相応の教育をされてきた彼女にとって彼らの食事は食卓に排泄音を立てられているようなものなのであるから、承服できるわけがない。
「ごちそうさん。じゃあ、行ってくる」
「俺も一緒にいくよ」
立ち上がった旦那に随伴すべく息子が残った料理を掻き込み、「ご馳走さま」とも言わずに外へと出て行った。
息子の席には食べ散らかされた残飯が卓を汚している。茶碗にこびり付いた米。汁椀の底には飲み損なわれ口から流入した咀嚼物。目玉焼きは黄身ばかりが啄まれ白身は手付かず。ししゃもは腹だけに歯型が付いていて、ひじきは一口食べた痕跡が残るだけでほぼ残されている。無残に散らかされたそれはもはや料理ではなく汚物といった方が適切に思える。朝早くに起床し作ったのにも関わらず、出された側はまったく感慨もなく、無造作に扱っている。これが毎日というのだから、なんと残酷で無慈悲な所業であろうか。
女は汚れきった皿を下げ、自身が調理した料理の残骸を捨てる。感情の籠らぬ目には諦観の相が覗く。女は自らに対してのぞんざいな扱いに、無碍にされる環境に慣れてしまっていた。自身がただ生活を快適にするだけの道具としか見なされていない事を受け入れ、過ぎ行く毎日にいらぬ思考を持たぬようにしていた。例え「あれを止めろ」「ここを直せ」と言っても旦那も息子も聞かぬし、憤慨して見せたところで細かい事を一々口にして面倒な女だと侮蔑するに違いないのである。何をしても無駄であるならば、もう全てを諦め徹頭徹尾無関心に至るほか平常を保つ術がない。憤怒を収める先がない以上、女は不条理を受け入れ、形ばかりの平穏を維持してきたのであった。
しかし、負の感情というのはどうしても内々に処理しようとしても残留し、それが積もり積もれば、ほんの小さなきっかけで心の均衡が崩れ、イドの激流に感情の堰が決壊してしまうのである。殊に憎悪の土壌があればその激流はより強く、早く、凶悪に精神を呑み込み、人を狂気へと誘うのだ。
女は相変わらず淡々と皿を処理し、片付けをしている。流れ続けるニュース。いつもであれば、退屈な作業の慰みにしているだけであり、気に留める事などありはしなかった。しかし…
「先程。母親を殺害したとして十七歳の少年が殺人の容疑で逮捕されたという情報が入ってまいりました。情報によりますと本日昼頃、長野県塩尻市の交番に母親を殺したと少年が出頭し、実際に少年の家宅を訪ねたところ、居間で母親と見られる女性の死体が発見されたそうで、県警は少年を緊急逮捕したとの事です。少年は、腹が立ったから殺した。と供述しており……
女の手が止まり、片付けを放り出しテレビに近付く。ニュースはすぐに終わりコマーシャルが始まってしまったが、女は直立し、じっと眺め続けている。
その表情は、何かに憑かれているような、あるいは本性が露わになっているような、普段の女とは違う、何らかの意思を感じるものであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます