第4話
その日もいつも通りに女は起きた。
太陽が昇り切らぬ時間であっても昨日の昼の暑さが消えずにジワリと汗が滲み出るような朝。薄暗い時間であっても熱がこもり、コンロに火をかけ鍋を振れば顔は赤くなり額には粒立った雫が噴き出してくる。それをハンカチで拭きながら、女は二品。三品と皿を彩っていき、六時になる頃にはもうすっかりと準備は完了していた。後は卓に並べるだけである。一通り片付けも済ませた後、女はいつものようにソファに座り、朝食のパンとコーヒーを卓に置いてテレビを付けた(旦那と息子には白米と味噌汁を用意している)。
女は特にこだわりがあるわけではないが、朝はいつも同じニュース番組を観ている。バラエティ色の強い俗な構成で、如何にも頭の悪い人間が好みそうな低俗な内容なのだが、女はもうずっと、その番組にチャンネルを合わせ続けていたのだった。
「里見ちゃんは浮気しないの?」
テレビの中で司会役の脂ぎった中年男が芸能人の不倫騒動に託けてそんな事を若い女性アナウンサーに聞いた。当人は笑顔で「しませんよ」と即答し、単なる戯れとしてその場を収めていたのだが、女は一連のやり取りを見て俯き、尋常ならざる気配を纏って食べようとしたパンを皿に置いた。
真っ直ぐとモニターを見つめる女。彼女の目には明らかな憤怒が、憎悪が、嫉視が込められている。
若さ。
美貌。
愛嬌。
女が持たぬ全ての要素を手にした女が、不貞など働かぬと言ったのだ。男を拐かし、騙し、裏切り続けてもなお咎められぬような女が純真を謳ったのだ。
それを女が許せるだろうか。
自由を奪われ、主婦という役割を演じる女が、地の底に住まい無感動に生き、何一つ得ることもなく歳だけを重ねた皺の深い女が、猫なで声を出し媚びている美しく若い女の姿を許せるであろうか。許せるわけがない。許せるわけがないのである。
「……」
女の奥歯が噛み合い、軋む。
普段の無表情からは想像できない激しく深い憎しみの面。漆黒で塗り固められた怨嗟により生じる純粋なる悪意。望み叶わぬ者が行き着く果てにある深淵が、女の顔に覗いていた。
形容するのであれば蛇。毒牙と邪眼を持つ禍々しいクチナワである。蜷局を巻く女の悵恨は計り知ることができない。幼少の頃から封じられていた彼女の自由意志は瞋恚へと変換され、欲するものが分からぬ貪欲から無明へと陥っていたのだった。その三毒は悪虐非道の花を咲かすに十分な土壌を肥やし、発芽の時を持しているのであった。もしその花が開花すれば、女は血を求めずにはいられないだろう。他者の鮮血と苦悶。そして鬼哭を糧とする化生へ成り果て、人の道には戻れなくなってしまうに違いない。
しかしそれが果たして悪なのだろうか。
女はずっと、人に言われるように生き、自分の意思を抑えられてきた。欲望や願望さえ非とされるような教育を受け、我欲を述べるのを禁じられてきた。そんな女を「よくできた嫁」と評する社会を、身勝手な倫理道徳に染まった人間を使役する社会を、果たして本当に善といえるのだろうか。
彼女の自由を奪った人間達に罪はないのだろうか。人の意思とは、単純な善悪により決定されなければならないのだろうか。正義によって殺される人間と悪意によって殺される人間に差はあるのだろうか。人の命と尊厳に貴賎があるというのか。秩序によって黙殺されてきた女の意思はどうすれば救われるのか。周りの人間は誰も答えてはくれない。故に女は寡黙に耽り従順となる他なかった。飼い殺され、社会の奴隷として生きていく以外に許されていなかった。では、彼女の人生とは、いったい……
「おはよう。朝飯できてるか」
居間に半裸でやってきたのは旦那であった。気が付けば七時に近い。いつもなら朝食が卓に並んでいるはずなのだが、あるのは食べかけのパンと、マグカップに半分以上も入っているコーヒーばかりである。
「……おはようございます。すぐに用意しますね」
「頼むよ。今日は朝から現場見なきゃいけないから、食って力をつけておきたい」
「はい……」
大きく笑う旦那を冷視しながら聞こえぬように溜息を吐き、女は台所へいって味噌汁を温め直した。
自分が食べるわけでもない食事を作るのはもはや下女の役割である。その関係は対等ではない。だがわ旦那の方はそんな事を考えもせず飯を用意しろと、さも当たり前のように女へ言いつける。
いつもの変わらぬ光景は、いつもと変わらず差別的であった。だが、女の心境が荒み続けているのを旦那は知らない。毎日が平和であると根拠のない安楽を確信し、間抜けた顔を晒して生きているのだ。
不変など幻想にしか過ぎない。平常と異常の境目ははいつだって薄氷のように薄く脆いのである。
そう。
平和な日常というのは、いとも容易く崩れ去るのである。
いとも、容易く……
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