第3話

 息子が持ち込んだ汚れを片づけると、女はそのまますぐに夕食を作り卓に並べて、再びソファへと座ってスマートフォンを眺めた。灼熱の残光で辺りを照らす夕暮れが部屋に射し込む。夏の異様な明るさは永遠の昼と一日の終焉を予感させる矛盾を孕んだ景色を形作っており、そこに佇む女の姿は不気味を体現したかのような異体となって、一瞬、妖の類と見間違いそうになる。


 時刻は十七時を回っている。そろそろ旦那が帰ってくる時刻であるが、女の表情に変化はない。

 成り行きで入れた籍は束縛の証明でしかなく、初夜から続く、後悔とも忿怒ともとれる冷淡な面持ちのまま女は旦那と過ごしてきた。彼女にとって家庭とは自らを押さえつける広い墓場でしかない。奉仕し、搾取され続ける生ける屍の住み着く所が家なのだ。そんな場所で笑顔など、人間らしい顔などできようはずがない。女はずっと、不満ばかりを抱えて生きていた。

 しかし、それとは反対に旦那は女と家庭に満足していた。女が家事を完璧に行うばかりか、一言の不満も口にしないからである。それを旦那は自己表現の拙さと愛がある故であると合点し、そんな彼女だから愛おしいだのと歯が浮くような台詞を酒の席で同僚に聞かせたことが多々あるのだが、そうした自己完結に溺れるばかりでなく、僅かでも女の心中を察する努力をしていれば、もしかしたら微笑の一つでもまろび出ていたかもしれない。しかし。旦那は鈍く疎く、己の身勝手に無自覚で、女の方も自分を尊み、家族を愛していると根拠もなく確信しているのだった。それ故に女の機微など鑑みることもなく、家族の為に働いていると、幸せにしていると臆面もなく言えるのである。女の能面が時に不安を煽り、理解できない思考に怒りが湧くこともあったが一晩酒を飲めば忘れてしまう。その筋金入りの能天気さは凡そ悩みとは無縁であり、女からすればまったく疎ましい限りなのであった。





「ただいま」


 その旦那が帰宅したのが十七時時三十分である。定時に退勤して真っ直ぐ帰ってくるとだいたいいつもこのくらいであり、女が最も溜息を吐く時間であった。


「お帰りなさい。お夕飯は作りましたけど、先にお風呂になさいますか?」


 汗に濡れた旦那にそう問いかける女の本心は後者に込められている。汚れと臭いが不快だから先に身体を洗えと、彼女はそう言っているのだ。しかし言葉の裏に隠された真意を読める程旦那の頭は聡くない。人の気心を推量れぬのが彼の彼たる所以である。


「腹が減ったから先に飯だな。坊を呼んできてくれよ。一緒に食べよう」


 旦那はシャツを脱ぎそれを女に渡した。卸した当初は純白だったはずなのだが、いつの間にやら薄っすらと黄ばみがかかっている。家族の為に汗水を流して立派に働いている証明ではあるが、やはりその不潔は精神的に嫌悪感を招くもので、口にこそ出さぬが女は快く思ってはいなかった。

 手にした瞬間に伝わる汗の湿潤と残り香に眉をしかめ、先に湯を浴びればそのまま洗えるのにと内心穏やかではない。おまけに、肌着のランニングから見える肢体が醜く、肥大化した内臓が腹を押し出し、その上に積み重なった贅肉が胴長の身体を構築している。大きく露出した肌は脂で滲んでおり、目にしただけでベタついた錯覚を起こす。それでもって昼間に掃除した部屋を裸足で歩き回るものだからフローリングには足跡がクッキリと残り、また床を拭かなければならない惨事となっているのである。せめて用意したスリッパを履いてくれればいいのに旦那は一向にそのつもりはないようで、彼はいつも帰ってくると早々に玄関で靴下を脱ぎ、ズボンのポケットにそれを収めてわざわざスリッパを跨いで居間までくるのである。何もかもが、下品で、育ちの悪さが伺える。

 女はその無頓着と無神経と無遠慮に堪え難く、かといってどうすることもできず、旦那が湯に浸かっている間に黙って床を洗浄するのであった。その後は洗い物を片付け、風呂から上がった旦那から職場の愚痴を聞き、一番最後に湯浴みを行い、寝る前に旦那に按摩をしてやり、時には夜の相手をして、眠りにつけるのは日付が変わる頃である。そして翌日は五時に起床し、旦那と息子の朝食と弁当を作ってやらなければならない。

 気が抜ける時間は昼間の数時間。その数時間も、テレビやスマートフォンを観ていたら終わってしまう。

 ワイドショーで流れる軽薄なコメンテータの言葉が馬鹿らしく思えても、web上の極論や一般論に辟易したとしても、女は他に時間を使う術を知らなかった。幼少の頃から育まれてきた価値観から脱却できず、完璧な主婦たれと自縄自縛し、自由を手にする事ができずにいた。

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