第2話

 蝉時雨。

 陽炎揺らめく昼下がり。一角にある中層のマンションに女はいた。

 よく片付けられた居間の卓には広げられた菓子袋と麦茶。その直線上にあるテレビでは、コメンテーターが馬鹿な話しをしている。それらは女にとって、日常の、退屈の象徴である。

 彼女の人生においてその風景はいつも付きまとっていた。部屋や家具は変わるにしろ菓子と麦茶とテレビは必ず女の目の前に置かれ漂う時の波に流されていた。

 女は他に娯楽を知らない。周りの人間が言うように動き、望むように進んできた結果、自我が求める快楽や愉悦が分からず、間食とテレビ。それ以外はスマートフォンでのweb閲覧くらいしか余暇を使えなかった。誰の目から見ても不健全な、枯れた人間の営みである。それは彼女自身も自覚しており、慢性的な倦怠を脱し、没頭できる何かを見つけたいと思ってはいるのだがその手段が分からず、どうしたものと考えあぐねるうちに、また菓子をつまみながらテレビ。あるいはスマートフォンを眺めるに至るのであった。それは能動的な彼女の生き方に起因する逃げの思考で、なにかを始めようとしてもできない言い訳ばかりを考えてしまい手を出せずに終わるのである。享楽でさえ自己の行動に責任が持てないのだ。もっとも、実際に彼女が持つ自由な時間はそれ程多くはないのであるが。




「ただいま」



 玄関が開く音がした途端に慌ただしく居間に駆けてきたのは彼女の息子である。今年で十となる彼もまた引越しに伴い転校を余儀なくされたわけだが、旦那譲りの楽天的で能天気な性格が幸いしすっかり田舎暮らしに順応していたのだった。ややもすれば、その鈍感さと図太さは都会よりも性に合っているようで、現に息子には早くも多くの友人に囲まれて、たまに彼らを自宅へと招いては女にいらぬ労力を強いていたのであった。

 家事を万全にこなし、そのうえ子供と旦那の面倒まで見るとなると女に趣味を始める隙はなかった。となれば、やはりテレビかスマートフォンを眺めるくらいしかできない。しかし、何をやっていいのか。何をしたら楽しいのか分からないのもまた事実である。結局彼女は、精神的にも肉体的にも不自由なのだ。



「あら。早いじゃない」


 女は皮肉を込めてそう言った。なんなら帰ってこずともよかったとさえ思っているだろう。彼女にとって子供は重荷でしかなく、旦那以上に煩わしいものである。


「うん。テツ君が用事があるからって、早く帰っちゃったから」


「そう」


 女は乾いた返事をしてからもう何も聞かなかった。テツ君とは息子の友人であり一番懇意にしている子供なのだが女が知っているのはそれくらいで、彼の人となりも住所も、普段息子と何をして遊んでいるのかも把握していなかった。早い話し興味がないのだ。

 彼女の実の息子に対する情はそんなもので、虐待まではいかなくともとんと無関心であり、愛の一欠片も抱いてはいない。刷り込まれた道徳により面倒をみているだけである。自身の腹を痛めて産んだ子であったがその存在は自身の自由を奪う、責務だけを背負わす害悪としてしか認識していないのだ。自由などあっても持て余すだけだというのに。


「お菓子食べていい?」


「……どうぞ。全部あげるから、部屋で食べてらっしゃい」


「ありがとう」


 だが幸いな事に息子は母の無頓着に気が付いていない様子であった。何を言われても、幾ら冷淡にされても、いつも調子よく、やや膨よかな頰を崩し女に向かって笑みを向けるのである。女はそれも気に入らなかったが、母親然としなければならないという義務感により口には出さなかった。息子の笑顔を見る度に、どうしようもなく不快な感情が腹の中で渦を巻いているにも関わらず。



「早く大人になってくれないかしら」


 女は食べかけのスナック菓子を持っていく息子の背中を見送り呟いた。その瞳は冷血で、虫を見るような嫌悪の色をしており、母親が子に向ける視線ではなかった。

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