安直な殺意

白川津 中々

第1話

 女の人生は平凡なものであった。

 何があったわけでも何かを失ったわけでもなく、コンベアで運ばれるようにして主婦に落ち着き、子を産んでもなお単調な月日を単過ごした人間に相応しい、退屈な顔をしていた。

 一般論と道徳に育まれた彼女の生活は決して面白味のあるものではなかったが女房としては都合が良く、旦那は女を半ば蔑ろに扱っていたのが、旦那の方も旦那の方で女に似つかわしく凡庸であったためにこれといった騒動は起きず枠にはまった生活を逸脱することはなかった。双方ともに何かしらの不満は抱えていたが、角を立てる面倒を避けるために旦那は酒で忘れ、女はテレビやwebに浸かって現実から逃避し、各々内々にてそれぞれに抱く嫌悪を処理をしていた。それは旦那の生家がある田舎への転勤が決まり(かねてより上司に打診していた)、家族揃って移民してからも同じであり、旦那は支店の男連中や旧友と飲み代を出し合い、女はソファに根を張る日々が続いた。

 慣れぬ地への移動は女にとって大変な不安と苦痛を伴ったが、上辺だけの信頼と団欒を装い付き従って、勝手分からぬ土地の中、唯一安堵できるマンションの一室にて家事と暇に精を出していた。

 しかしその一時凌ぎに嫌気が差しているを女は自覚している。日々無為に流れる時間は顔の皺を深くさせ、鏡を見る度に落胆するのだ。

 経済的には自由であり、衣食住は保証された生活。それは当たり前のようでありながら中々に得難い幸福であると女自身も承知している。しかし、それでも彼女の中には鬱積が澱んでいた。不自由のない、安定した生活の中で女は、胸を波打つ泥を持て余していたのだった。


 浮気でもしてやろうかしら。


 女は募るフラストレーションの発散方法を知らず、テレビで流れているような、あるいはまとめサイトでみるような、極めて安直な邪を時折頭の中で巡らせるのだが実行できた試しはない。それは機会がないというのもあるのだが、旦那と子供に対し負い目を感じたくないという理由が一番にくる。彼女が育ってきた環境では清く正しく倫理と道徳が育まれ、人間社会においては真っ当と称されるような生き方をしてきたのである。その善性のブレーキが彼女に不貞をさせなかった。人としての正しい生き方を、彼女は強いられていたのだ。

 だが果たして彼女の本質はどうだろうか。地味で目立たず、洗脳に近い教えによりまったくの人畜無害として過ごす女であったが、彼女の生まれ持った素質は、性分は、本当に極平凡な、善とされるものなのであろうか。実際、女の持つ人の性が明るみに時は、女が過ごしてきた三十五年の間にはなかった。少なくとも、誰彼にあぁしろこうしろと命ぜられるままに生きてきたきた彼女に自我の発露は見られなかった。女に用意されていた受動的な毎日が個人の根源を覆い隠していたのだ。

 それ故に、今日まで女と女の周囲に生きる人間は平凡であり、退屈な平和を甘受していたのである。


 とある年。とある夏。とある田舎に女はいる。女の中に住む獣は、未だ目を覚ましていない。

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