35. 光の差す道 (fin)

 その日、リッテは目覚ましのけたたましい音を素直に受け入れ、目を覚ました。


 ベッドも枕も普通の寝心地の、彼女の部屋。

 外は見慣れた庭があり、廊下を出るとリビングの方から食欲をそそる香りがする。何度も繰り返した日常、憂鬱な日々。しかしリビングのテーブルに座る父のマイアは沈痛な面持ちであり、逆に母のクラヴィアはやけに機嫌がよい。


 まだ少し寝惚けているリッテは席につく。


「どうしたのパパ?」

「リッテ……パパ、仕事が変わることになった」


 なんだ、また失職したのか――とリッテは思う。

 普通の家庭では父親が失職すると言ったら大事だが、ヒルデガント家ではリッテの記憶する限りマイアは既に三回失職している。マイアが特別無能な訳ではないが、どうも星の巡りが悪いのかいつの間にやらマイアは誰かに責任を押し付けられるように職場を追われている。


 仕事が変わるということは、一応次の就職先の目途が立ったのだろう。脳の回転が鈍い中でリッテはそう思った。


「よかったね、すぐに転職先見つかって。大丈夫、気にしないよ」

「違うんだリッテ……吸収合併なんだ……パパの会社はもっと大きな会社の一部にされるんだ……その会社が、会社が……!!」

「ホープライト卿が懇意にしてる大会社なのよね~」


 上機嫌にフライパンを揺らす母、クラヴィアの言葉にマイアはテーブルに突っ伏した。


「もう駄目だ……完全に我が家は革新派として認識された……嗚呼、このままでは可愛い私のリッテがあんなどこの馬の骨とも知れないクソガキに奪われて逆らう事も出来ずにあんなことやこんなことをぉぉぉぉーーーーーーッ!!」

「五月蠅いわよ貴方」

「いいのか、お前はリッテがホープライト卿の一声で嫁に行かねばならない立場になって!! ジークノイエだか何だか知らない小僧に無理やりリッテを連れまわされ続けるんだぞッ!!」

「発想の飛躍まで五月蠅いわねこの根性なしの悲観主義は。ヴ家ならともかくあの高潔な卿がそんな下品な事をするわけないでしょう。今一番下世話なのは貴方です」

「ふぐぁッ! り、リッテぇぇぇ……」


 お前だっていやだろう、と助けを求めるような視線を送るマイアに、リッテは自分のスリッパを脱いで手に取り、スパーン!! と、マイアの頭を全力ではたいた。

 そして、わが目を疑う父に、娘は冷たい言葉を言い放つ。


「ジークのこと知らない癖に知った風な悪口言わないでよね。そんなこと言うパパきらーい」

「リッテぇぇぇぇぇぇーーーーーッ!!」


 その日、マイアの朝食は少し貧相になり、その分他の家族の食事がちょこっと豪華になった。




 * * *




 いつもの通学ルートを歩く。

 ほんの少し前まで、リッテにとってここは処刑場に向かう道のようだった。近所からは通り過ぎた後にひそひそと陰口を叩かれ、時には直接的な暴力に等しい嫌がらせを甘んじた。逃げ出したい衝動にも何度駆られたか分からない。


 でも、今は違う。


 家を出て間もなく、見覚えのある男が待っていたかのように自然にリッテと隣り合って歩き出す。白髪はくはつを汚すような紅の色。何事にも動じない琥珀色の美しい瞳が、今日もリッテを見つめる。


「おはよう、リッテ」

「おはよう、ジーク」


 嫌味も同情も何もない自然な挨拶。

 リッテが求めるように手を伸ばすと、ジークは何も言わずその手を受け取ってくれた。人によっては握手さえ拒否される、貧乏娘の手を。


 最初の出会いは最悪だった。いきなり全裸で現れて人の胸を触った最悪男だ。一応後で謝罪されたし許したが、あそこからよくもまぁ印象をひっくり返したものだと感心してしまう。

 或いは、もう彼に惹かれている自分の心変わりに呆れているのか。


 不意に、ジークが口を開く。


「今日は機嫌がいいのか?」

「え、そう……見える?」

「何となくな。決闘した甲斐もあったようだ」


 自分の考えを見透かされたようでリッテは一瞬どきりとしたが、ジークは別の予想をしていたようだ。少しほっとした一方で、何故か少しだけ、見透かして欲しかったと肩を落としている自分がいる。

 言われてみれば、今日は決闘が終わった翌日だった。


「確かに、退学とか認めてもらうとか色々気負いしなくていい朝は久しぶり。うーん、心なしか空の太陽もいつもより陽気に見える気がする!」

「太陽光に変化は見られないが……確かに僅かに位置がずれている。星の自転と公転の関係上先日と全く同じではないな」

「そーゆー意味じゃないっつーの」


 言わんとすることが通じなかったことに少し失望するが、同時にリッテのよく知る彼の天然反応が出て和んだ自分もいる。もはやジークのことならなんでも喜んでいるんじゃないかと思えてくる陽気さだ。


 そんな二人きりの時間をもっと続けていたかったが、現実には通学ルートにはそう遠くない果てが待っている。その果てであるラインシルト学園の校門ではざわつきが起きていた。

 原因を探るように視線を動かしたリッテの身体が硬直する。


 そこには、首を固定するサポーターを巻いて普段の凛々しさが減退したミズカと、藁の敷物の上で正座して首から「私は決闘中に興奮して後輩の服を全て破りました」と書かれたボードをぶら下げてしくしく泣くノーマの姿があった。


「なにこの……なに? こんな『ハイランダー』ある意味見たくなかった……」

「おや、来ましたね」


 ミズカがこちらに声をかけて来たため、二人で歩み寄る。


「その、何してるんですか?」

「ノーマへのお仕置きですが……ああ、この首ですか? 実は不覚にも覚えていないのですが、決闘の終わりに何かあったのか痛めてしまいまして。皆に何があったのか聞いてみても口を濁されて、私だけよく分かっていません」

「そ、そうですか……」

「覚えていないのなら我が説明しようか? リッテが――」

「覚えてないならきっとそんなに重要な事じゃないですよー!」


 リッテは空気を読まず真実を口にしようとするジークに全力で肘鉄を喰らわせて話を中断した。言わずもがな、彼女の首をやってしまったのは自分であるという事実を隠蔽する為である。ジークの裸から目線を逸らす為とはいえ、不意打ち気味にやってしまったと後悔の念が押し寄せる。


 幸い、あまりにもあんまりな負傷理由なので周囲も言うに言えなかったらしい。ただ、ジークがノーマに服を破られた辺りは覚えているのか、さっきから露骨にジークから視線を逸らしている。


「ともかく、結果は引き分けという事になりましたが、私もこれ以上貴方の決定にとやかくは言いません。勝手ながら行く末を案じて戦い方を教えて差し上げます」

「あ……ありがとうございます!」

「まぁ、幸いにも貴方を退学にしようとした教員は不埒な犯罪で学園を去りましたし、周囲も多少は貴方のことを認めたようですよ?」


 そう言われて周囲を見渡すと、普段はもっと露骨に陰口を叩いたり見下した視線を送る生徒が少なくなっていた。高評価になった訳ではないが、大きなマイナスが小さなマイナスになった程度には変化がある。


 生徒の中から見知った顔のライデルとリップヴァーンも姿を現す。


「センパイ、昨日の決闘ご立派でしたっ!! 誰が何と言おうと私の中ではセンパイの勝利ですよっ!! 熱く必死に戦う姿に惚れ直しました!!」

「……リップも一生懸命応援ありがとね。励まされたよ」

「~~~っ!! 感激ですぅ!!」


 本当に感極まった顔でひしっとリッテに抱き着いたリップヴァーンは、そこでちらりとジークの方に鋭い視線を向ける。


「……今回は一応頑張ったということで貴方のことは大目に見ますが、私はまだ認めた訳じゃないですからねっ!!」

「む、そうか。確かに理想の結果ではなかったかもしれん……認められるまで努力することにしよう」


 さらりと流すジークに更に目つきが鋭くなるリップヴァーンだったが、それ以上は言及せずに下がる。リッテが何も言わないことや彼の尽力なしに引き分けまで持ち込むことが出来なかったのを、頭では理解しているのだろう。

 我慢したご褒美にと頭を撫でてあげると、人懐こい猫のように嬉しそうな顔をした。

 いつも通りのリップヴァーンに苦笑しつつ、ライデルも話しかけてくる。


「まさかあんなことになるとはねぇ……僕はリッテちゃんの一撃が防がれたとき、正直もうダメかと思ったよ。ミズカちゃん、どんな心変わりしたんだい?」

「……別に。すこし感傷に浸っただけです」


 首の怪我で顔を逸らすに逸らせないミズカは、ほんの少し気恥しそうにライデルを睨む。理由はどうあれ、リッテの思いの丈が届いたのだから結果オーライだろう。

 同時にライデルは「まさかねぇ……」と言いつつ視線をノーマの方に移す。ノーマは「足がしびしびするよぅ……」と小さな声で哀れみを誘う苦しみを訴えていたが、確かにジークが全裸を晒す要因になっているのであまり同情する気になれないリッテだった。


 こんなにも賑わしい学校生活なら、少しは明るく学校に通えそうだ、と、リッテは頼れないようで頼れる相棒の腕を抱いた。


「じゃ、今日も学生の本分を全うしますか! ね、ジーク!」

「うむ。我の知りたいことはまだまだ尽きぬからな」


 リッテはジークと視線を合わせ互いに視線を合わせ、気付いたら同時に笑っていた。

 へんちくりんで天然で何故か二度も全裸になった男の子だけれども、リッテは不思議とジークがいれば何でもできるような気分になった。



 ――これは、一人の少女と一柱の龍が織りなす奇妙な物語。


 ――そして。



「……ねぇ」

「なんだい?」


 豪華の限りを尽くした美麗な馬車の中で揺られる二人の少年と少女。

 浮浪者と変わらぬほどに荒れた身なりの少女は、光のない瞳で美しい装束に身を纏う少年を見つめる。


 美しい少年だ。一際目につくのは、その瞳。

 片方は空の青さを集めたような蒼。

 片方は猛り狂う炎のような紅。

 普段は紅の瞳を隠すためにしているという眼帯は、少女の前では外されている。まるで彼女にはありのままの自分を見てほしいとでも言いたいかのように。それが、少女には理解できない。


「どうして……私を買ったの」


 少女は、奴隷だった。

 物心ついた頃には虐げられていて、親には売られ、幾度か奴隷として惨めな隷属を強いられてきた。彼女にとって、目の前の少年は四人目の主人になる。

 ――前の主人に煮え湯で顔を焼かれ、買い手がつかなくなった『処分』待ちの死にぞこないの奴隷を、目の前の少年はわざわざ選んで買ったのだ。周囲の反対を押し切って。


「私は綺麗じゃない……醜く爛れたこの皮膚が、見えなかったの? 従者と大揉めしてまで、私を買う価値が……あった?」

「見解の相違だと思うよ。価値は生まれるものだとぼくは思う。でも、そうだな……強いて言うなら、君の瞳に光が灯ったら、いまよりきっと綺麗だと思ったから」


 恥ずかしげもなく歯の浮くような台詞を口にする少年に、少女は心底理解出来ないとばかりに緩やかに首を振った。


「何なの? 貴方は……」

「ぼくかい? ぼくは……ひとの未来を憂う、ただの怪物さ」


 少年はどこまでも素直に、どこまでも飾り気なく、透き通ったような笑みでそう告げた。

 少女は一瞬、その少年をと錯覚した。

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