26. 嫌いになった色
リッテが道場を後にしてから、シュマイザーはジークの前に立った。
「君は、何故私が道場を畳んだかは聞いているかい?」
「いや。五年前に畳んだとしか」
「そうか……では、少し年寄りの昔話を聞いてくれたまえ」
年寄り、と自分を称したシュマイザーだが、まだそう名乗るには早いのではないかとジークは思う。人間の年齢に対する感覚は薄いが、少なくとも彼の肉体は『ハイランダー』の二人以上の力を感じる。しかも纏う気配や匂いから、彼はジークに慣れ親しんだ戦い――殺し合いを相応に重ねてきた存在だろう。
人間にしては、強い。さぞ他の人間に教えを請われたことだろう。
そんな彼が何故道場を畳み、そしてリッテの先ほどの怯えとどう関わるのか。それを知るためには、少し遡った話を聞く必要があった。
「今から五年前……わたしはアルタレイの貴族街近くに道場を構え、それなりの数の門下生に力の何たるかを教えていました。リッテもそこに通っていました」
シュマイザーは遠い目で回顧する。
「御存じの通り、リッテは彼の英雄ジークフレイドの子孫でありながら、稀有な才能を持たずに生まれてきました」
「口癖のように剣の覚えが悪かったと言っていた」
「それに関しては彼女の戦いに対する苦手意識も原因の一つですが……確かに、周囲に比べて歩みが少し遅かったのは否定できません。それでも彼女は彼女なりに、誠実に剣を学んでいました」
嘗てミラベルという国では剣を嗜む貴族はさほど多くはなかったが、共和制になり一時期第二階級の人間への襲撃が多発してから、護身用に剣術を習う人間が増加したという。
「リッテの両親は息子さんの事もあってか、嫌がるリッテを半ば無理やり道場に連れてきたんです。おかげで嫌々剣術をやるリッテをやる気にさせるまでずいぶん気を揉みました」
「それは愚痴というやつか? それにしては不快感が顔に表れていないな」
「それはつまり、嫌ではなかったのですよ」
そういえば、とジークは思い出す。
大人という生き物は子供の世話を焼くことに喜びを感じる――本にそう匂わせる記述を何度か見た。人間や神々との戦いがなければ、母上もそうだったのかもしれな、と思った。
「……しかし、一人の門弟に手を焼くというのは、他の門弟に回す手が減るということです。それに元々成長の遅かったリッテは家の事もあり、陰口や小さな嫌がらせの絶えない子でした。そして……事件が起きた」
* * *
井戸の水に映る顔を見つめながら、リッテは思い出す。
シュマイザーはリッテによく言っていた。
道場は剣術ではなく剣道を教える場所なんだ、と。
『力はただ持っているだけでは心と均衡がとれず、暴走を招く。人は力を持つと試さずにはいられないからね。だから術ではなく、道を示さなければならない』
『道? ……なんの道?』
そう質問すると、シュマイザーは悲しそうに頭に残った大きな傷跡を指先でなぞった。
『こんな傷を負わない道……そして誰かに負わせない道さ』
それ以上、多くをシュマイザーは語らなかった。
ただきっと、とても悲しいことが起きたのだろうとは子供心に察することが出来た。自分は先生をそんな風に悲しませない剣士になろうと思えたから、嫌な剣術も頑張った。
だけど――道を通った結果よりも遥かに早く、道を逸れた結果が目の前に姿を現した。
寄ってたかって押さえつけられる体。
憎悪でも怒りでもなく、愉悦と好奇心に満ちた顔、顔、顔。
『お前がいると道場の全員が迷惑するんだよなー』
『アハハハっ、お前顔必死過ぎ! ブッサいなぁ!』
『こういういるだけで迷惑なのに自覚のない輩には、これが一番いい薬になる』
その中の一人――貴族の出の女の子が手に持っていたのは、大きな鋏の切っ先。
『わたくしは親切ですから、剣に邪魔なその髪の毛は切ってあげますわ。英雄の子孫にその色は相応しくありませんしね?』
嫌だと言っても、やめてと言っても、面白がるだけで誰も何も聞いてくれなかった。聞く耳を上回る、力という甘美で残酷な強制手段によって、リッテはシュマイザーが事態を把握して駆けつけるまで道場の中心で晒し者にされ、滅茶苦茶に髪を切られ続けた。
その日以来、リッテは自分に向けられる切っ先が恐ろしくなった。
医者は先端恐怖症とかよくあるとか言うけれど、そんな言葉で片付けられるほど安っぽい怖さだとは思って欲しくない。
「忘れられないよ……五年経ってもさ」
あの日、あの時の恐怖は、リッテにしか理解できないものなのだから。
* * *
「あの時のリッテを見た瞬間ほど自分の愚鈍さを呪った事はありません。顔を覆って泣きじゃくるリッテと散乱する赤い髪……そして、そんな光景を囲って笑っていた子供たちの『悪戯がばれた』程度にしか思っていない渋面……」
「それがお前が道場を畳んだ理由……」
「門弟たちが暴走する可能性を知っていながら、結局手遅れになるまで何も出来なかった……私の伝えるべきことは伝えている筈と妄信していた。大人のエゴだったのです」
ジークは静かにその話に耳を傾け、様々思考を巡らせ、そして結論を口にした。
「分からんな。我にはお前の気持ちもリッテの気持ちも分からん」
ジークは誰かを教え導いた経験がない。
ジークは誰かに一方的に嬲られたことがない。
そこに至るまでの自分の姿を想像することすらできない。
故に、ジークには今の話は言語的には理解できても、発言者の意図する事は何も理解・共感できなかった。
率直に告げたその言葉にシュマイザーは一瞬目を丸くし、大笑いした。
「あははははは! それでいいと思いますよ、ジークくん! あはは……リッテくんも『君の気持は痛いほどわかる』なんて歯の浮くようなセリフはきっと聞きたくないでしょう。成程、君は興味深い」
言いながら、シュマイザーはジークに木剣を差し出した。
「日が暮れるといけません。リッテくんはまだ戻ってきていませんが、君の動きを見ておかなければいけない」
「うむ。よろしく頼む。我は未だリッテに教わった範囲でしか剣というものを知らぬでな」
「教え甲斐があるというものです。では――」
瞬間。
構えらしい構えすらしていない筈のシュマイザーの木剣がジークの首筋寸毫まで振り下ろされた。
「率直に聞きましょう。君は何者ですか?」
「ジークノイエ・ホープライト。アモン・ホープライトの養子で、僅かながらジークフレイドの血を受け継いでいる」
「そうなのでしょう。そして、それだけではないのではないですか?」
「……」
表情は変えず、しかし、ジークは静かに高揚していた。
(やはりな、この男……戦士であるか)
ジークは初対面の時から本能的に感じていたことがある。
シュマイザーは戦士だ。ジークの基準として、戦士と認めうる存在だ。すなわち、存在そのものを賭けて命懸けの殺し合いに身を投じる、古代の人間の戦士たちに匹敵するだけの覚悟を持っている。
「周囲の人間は誤魔化せたとて、私の第六感をはぐらかせると思わないことです。君が発する気は人にあって人に非ず……いえ、それ以前の問題です。上手く術で気配を抑えてはいるようですが、君がその身に宿すエネルギーは既に一つの生命体が持ちうる限界を遥かに凌駕している……!!」
厳しい口調で問い詰めるシュマイザー本人の額から汗が流れ落ちる。人間の事は理解できない部分が多いジークも、その汗の意味は理解できた。
「恐怖しているな。勝負が成立しない、生命体としての力の差に。恥じることはない。よく気付けたものだと感銘すら覚える」
「……ええ、そうなのでしょう。何者かと問いはしましたが答えは決まっている。今こうして必殺の間合いに入っている今ですら、私は自分の勝利という結果を一切想像できない。リッテくん、何故君はこんな途方もない怪物と手を繋いでいたのですか……!!」
「代わって答えよう。偶然、成り行き、そして縁だ」
シュマイザーが瞬時にジークから距離を取り、改めて剣を構える。
その全身から放たれる青白い闘気が、陽炎のように大気を揺らす。
生命の輝き――ジークにはそれが美しく見えた。
「リッテくんをどうするおつもりか!」
「リッテとはパートナーだ。我は彼女から学び、彼女に手を貸し、成長するのみ」
「その果てに何を求めるか聞いているのですッ!!」
「我が言語能力は、それを人間の言葉で簡潔に説明できるほどの経験を有しておらぬゆえ」
「痴れ事をッ!! このシュマイザー・ベルケ、二度と門弟を泣かせはせぬッ!!」
シュマイザーが仕掛けてくるらしいことを悟ったジークは、リッテに教わった基礎の構えを取った。彼の剣道とやらにも興味はあるが、どうやら先に剣術を体験することが出来そうだ、と喜びすら感じていた。
そしてこの瞬間――ジークの影に潜むシャドウシーカーと呪術で様子を見ていたダッキが顔面を蒼白にした。
『いかんッ!! この人間、もはや人の限界を逸している!! 二人が暴れては道場どころか辺り一体が消し飛ぶぞッ!!』
『うにゃああああああ!? こうなったら体重増加覚悟で仙桃ドカ食いドーピングして道場を異界化させる他ありませんッ!! 流石のジーク様も外のリッテちゃんの事は念頭に置いていると思いますがッ!! え、置いてますよね!?』
『任せる』
『任されたぁぁぁぁーーーッ!! ダッキちゃん男のヒトに求められたら断れないのぉぉぉぉぉぉぉんッ!!』
一人にとっては修練。
されど三者にとっては地獄。
リッテの与り知らぬところで、リッテの未来を賭けた死合いが始まった。
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