22. はじめての徹夜

 リッテがびしょ濡れになって家に帰ると両親は当然の如く心配したが、あまり深くは突っ込まなかった。こんな風に帰ってくることは初めてではなく、リッテもあまり深く聞かれたくない事を知っているからだ。


 ただ、どうしても辛いときは相談して欲しい、とは必ずいつも言ってくれる。リッテはそんな両親が好きだが、今日だけはそれに返事をせず、食事はいらないと言い残してシャワーを浴びに浴室へ向かった。


 リッテが浴室に向かった後、両親――マイヤとクラヴィアはどこか作業的に無言で食事を済ませ、顔を見合わせて嘆息する。


「……重症だな」

「ええ」


 朝に朝食を奪い合った娘が、夕方帰ってくると食事がいらないと言う。

 その変化の意味を悟ることのできない両親ではなかった。


「恐らく学校で何かあったのだろうが……ああまで沈み込むとは」

「学校に問い合わせてもまともに取り合ってはくれないでしょうね……リップヴァーンちゃんなら何か知ってるかしら」

「ああ……うちの子を慕ってくれる数少ない子だから。まったく、親ながら情けない――ん?」


 ちりりん、と、訪問者を知らせる玄関のベルが鳴った。




 * * *




 全身に流れ落ちるお湯の心地よさが、少しだけ今日の辛さを洗い流してくれる。

 余り長時間使う事の出来ないお湯のレバーをきゅっと絞り、流れ落ちるお湯が止まる。タオルで体を拭き、髪の水分を丁寧に落としていく。


 曇った鏡を手のひらで拭うと、血色はよくなっても疲れを隠せない自分の顔があった。

 くすんだ赤髪に圧し掛かられた娘の顔。

 この髪が嫌で、子供の頃は鋏で切ろうとしたこともあった。

 あの時は母にこの上なく怒られたのを覚えている。


 今でも、心のどこかでこの髪色を疎んでいる自分がいる。

 母方の色になっていたら、自分は少し違う人生を歩んでいたのではないのか、と。しかし遠い先祖の血は何世代重ねてもしつこく魂に情報を刻み続け、今もこうして錆のようにリッテの髪を赤く染める。


 まるでこれは、呪いの色だった。


 ヒルデガント家は、いつ滅んでもおかしくない無能一族にも拘らず、必ず結婚相手と子宝に恵まれるという不思議な性質があった。もちろん亡き兄のように、子宝が必ず健やかに成長するとは限らないが、それでも今日まで家は存続している。


 しかし、結婚相手と出会うまでには当然ながら数々の失恋や諦めがある。無能な英雄の一族という蔑みや嘲り、そして家柄故に想いを伝えられない悲恋がある。

 ヒルデガントは別れることで出会う一族だ。

 そして僅かながら、ジークにもその血は流れている。


(いつかきっと、いい出会いがあるよ……私にも、アンタにも)

 

 これでいい。互いの為に、きっとあの選択でよかったのだ。

 自分自身に言い聞かせるように頷いたリッテは、浴室を出て服を着換えた。一着しかない制服を洗って乾かさなければいけないことに今更気付き、どうしようか考えながら。


 と――玄関が騒がしいことに気付き、こっそり廊下の隅から様子を見る。


 そこに、両親の前に立つジークの姿があった。


「つまりリッテはそのヨクシツという場所にいるのだろう? 頼む、どうしても会わねばならんのだ。通してくれ」

「い、いくらホープライト卿の親族とはいえこればかりは勘弁を! せめて日をお改め下さい!!」

「ときにジークさま。本日、リッテと学校でなにかおありになりましたか?」

「……リッテが話してないのなら、我から言うことはない。む、いるではないかリッテ」

(前っ然諦めてない上に見つかってるしぃぃーーー!)


 自宅にやってくるのはこちらの予想の甘さを嘆くしかないが、あわよくば浴室に突入しようとしてる有様は如何なものだろう。もしかしなくとも見たかったのだろうか、と思うのは無理らしからぬことだ。


 恐らくあの後すぐに家に直行してきたのだろう。玄関に立つジークだが、その立場が分かって強気に出られないマイヤもこれには抵抗せざるを得ず、母の探りには完全拒否。極端な物の視方をすれば押しかけストーカーに見えなくもない。

 なのに、リッテの心臓の鼓動は高まる。


(ああもう、何であんなスケベに心を揺り動かされてんのよぅ……)


 壁に背を預けずるずると座り込みながら、顔を覆う。

 恥ずかしいのか情けないのかも分からないが、心のどこかで「来てくれた」と思ってしまった自分がいるのが殊更に嫌なことに思えてきた。彼はとことん空気が読めない性分らしい。


「リッテ、我は未熟で不器用な存在だ。こういうとき、頼み続けるくらいしか思いつかない。リッテ、お前はああ言ったが、我にはお前が必要で――」

「だぁぁぁぁっ!! 行く行く、行くからシャラァァァーーーップ!!」


 気を遣って話の詳細に敢えて触れていないのだろうが、気を遣い過ぎて逆に意味深な言葉になってしまっている。これ以上無視できないと感じたリッテは諦めて両親を玄関からリビングへ押し込んだ。


「おいリッテ! お前まさかジーク様に告は――」

「どういうことなの!? そういうことなの、リッテちゃん!?」

「うっさい! 二人だけで話すからちょっと出て行って!! 盗み聞きしたら絶縁だからねッ!!」


 閑話休題。


「……アタシの返事は変わらないから」

「我の頼みも変わらない」

「戦いたくないの。もう二度と」

「……それでも、頼む」

「ッ、き、嫌いなの。貴方のこと。もう関わり合いたくないって言ってるの!」

「我には、好きと嫌いの違いは分からん。我はお前が好きなのか?」

「わっ、私に言われても……た、例えアンタが私を好きだったとして、私がアンタを嫌いなら、頼みは受けないからっ!」

「では、我を好きになってもらう方法を考える。変えるべきは変えるよう努力する。だから……頼む」

(ああああああああっ!! ヤダ、もうホントにヤダ!! 何なのこれ、どっからどう聞いても痴情の縺れにしかなんないじゃんっ!!)


 リッテは頭を抱えてその場にのたうち回りたくなるほど顔が熱くなる。

 二人の話はひたすらに平行線だった。

 常識がない故に非常に困ることばかり言うジークと、なんとか拒絶しようとするもいい加減に羞恥心が限界に達しようとするリッテ。もはや羞恥でジークに顔すら向けられない。それでもジークから見れば彼女の耳まで真っ赤に染まっているのは確認できる筈だが、彼は彼で指摘しようとはしない。


 あらゆる意味で、これ以上話すことにうんざりしたリッテは意を決して振り返り、あまりにも真っすぐに見つけてくるジークに更に羞恥心を掻き立てられながら、彼を玄関の外に押し出した。


「もう話聞かないからっ!! そんなに話したきゃ明日までずっと外で突っ立ってなさいっ!! 以上、終わりっ!!」


 それだけ告げて玄関を閉め、鍵をかけて扉に背を当てる。

 一秒、二秒、やがて十秒経過したが、呼び鈴が鳴ることはなかった。どうやら今度こそ帰ったらしいと思ったリッテはため息をつき、もう寝ようと思った。


 人間は、様々な事が起きすぎると頭の整理がつかなくなり睡眠を求める。

 リッテは自棄になり、両親が何やらひそひそと話しているのも無視して自室に直行。そのまま眠りに就いた。不思議なことに、あれだけ心を乱されていたのにぐっすりと眠れた。


 ただ、普段より早くに寝てしまった影響か、翌日の目覚めは随分早いものだった。


「ん……あれ。まだちょっと暗い……」


 目覚ましも鳴っていないのに、目が覚めたのは朝の五時。

 ぱっちりと目が覚めてしまったリッテは二度寝をしようとするが、段々と昨日の出来事を思い出して寝られなくなる。


(そうだ、制服……)


 母は気付いただろうか、と思い、起き上がって階段を下りる。

 まだ家族も起きていない時間。もしも制服がまだ乾いていないなら、棒にでもひっかけて振り回してでも乾かさなければならない。そんなことを考えながら降りると、台所から物音がするのが聞こえた。

 覗き込んでみれば、普段はこんな時間に起きていない筈の人物の背中がある。


「ママ……?」

「あら、おはようリッテちゃん。今日は随分早起きねぇ。制服、外で乾かしてるから取っておいでなさい?」

「……ありがと。あと、おはよう」

「うふふ……」


 いつもと変わらぬ姿だが、その微笑みは少し意味深に感じる。

 首を傾げながらリッテは玄関に向かう。


 そして、ドアを開けた。


「――朝まで立っていたぞ。さぁ、話をしてくれるんだろうな?」

「……なん、で?」


 夜明けの光を背にする男を前に、リッテは目を見開いた。


「話したければ翌日まで外で立っていろと言ったではないか。ああそれと、洗濯物は魔法で乾かしてある。お前の母に頼まれてな」


 そこには昨日と変わらぬ恰好に、昨日と違って目の下に薄く隈が出来たジークの姿があった。遅れて、確かに追い出すときに自分がそんな言葉を口にしたのを思い出し、愕然とする。


「立ってたの? ずっと?」

「ああ」

「警備隊の人、見回りで通ったでしょ? 何も言われなかったの?」

「事情を話して去ってもらった。何故か笑われたが」

「ほっ、ホープライト卿の屋敷に帰ってないの!?」

「問題ない。遣いの者に連絡は頼んでいる」

「私の為に、こんな無駄な時間使って……ばっ、馬鹿よアンタっ!!」

「我の時間など、お前の時間に比べれば微々たる価値しかない」


 一晩だ。一晩中、リッテと話す為だけにジークは外で立ち続けた。

 そんなつもりで言った言葉ではなかったのに、真剣に、律義に立ち続け、ひたすらリッテを待っていた。ただ一人の除け者娘に言葉を届けるためだけに。

 喉の奥が詰まったように締まり、声が震える。


「あっ、う……そんなに私がいいの?」

「リッテでなければ意味がない」


 信じて、いいのだろうか。

 頼っていいのだろうか。

 ジークに――甘えてしまって、足を引っ張って、無駄な時間を使わせて、それでも一緒にいていいのだろうか。


 リッテの心の内の悪魔が囁く。

 今ぐらい、一度くらい、男に甘えてみたらどうだと。


「一つ、約束して……」

「なんだ」

「ずっと味方でいてくれる……? 病気になっても退学になっても、私を守ることで色んな人を敵に回すとしても、味方でいてくれる?」


 ジークはその時、小さく微笑んだ。


「我には容易いことだ。その約束、命の限り全うしよう」


 その笑顔に、揺るぎない言葉に、リッテの心はとうとう折れた。

 ジークに抱き着き、えづきながら涙を流し、その身を預ける。


 ――ああ、悔しい。

 ――けれど、嬉しい。


 例え子供の口約束であっても、守ってくれる男を愛する乙女になれる。その相手がジークであるのが悔しくて、でも、どうしようもなく嬉しかった。

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