13. 新生活応援週間
その日の朝、ヒルデガント家の朝食は誰一人として言葉を発しなかった。
ジークをホープライト卿に押し付けて安息の日が戻ったからではなく、ジークに淡い想いを抱いたリッテから発される儚いオーラ、という訳でもない。
(う……美味い……なんて濃厚なチーズだ……!)
(一日経ったはずなのに、なんなのこのジューシーなハムは……)
(信じられない。これがパンの耳と同じ原料で作られたもの……じゃあ私が昨日のお昼に食べたあれは、屑……?)
それは昨日のパーティーから貰えるだけ貰って帰った日持ちする食べ物の一部だ。それが美味い。ただただ美味い。リッテは昨日も散々食べたが、朝になって再び食べることで昨日の豪勢な食事が夢ではなかったことを実感する。
気が付けば父は涙を流していた。母もだ。
ハルトがいなくなって以来枯れてしまったと語っていた涙をこんなしょうもないところで流すな、と言うことなかれ。食事は生物三大欲求の一角だ。逆に目撃者は三名が普段どれだけ貧相な食事をしていたかを嘆き悲しんであげて欲しい。
一家はこの食事を細分して一週間は食費を浮かせる計画を建てていた。しかし今、その計画が早くも崩れ去ろうとしている。余りにも美味しすぎて、皿があっという間に空になった時の絶望を三人が味わってしまったからだ。
あの味を知れば、もっと、もっとと求めてしまうのは当然で、その食事を自ら律し封じなければならないという責め苦が一週間も待っていることに気付いた一家は生唾を呑み込んだ。
三人の視線が導かれるように冷蔵庫へ向く。
そこには未だ手を付けていない美味なる食料が沈黙を保っている。開けばいつでも中身を食べることが出来るのだ。そのことに気付いてしまうのは必然であり、欲望を満たせる人間が少ないことに気付く。
「もう一口……もう一口だけ……!」
「なっ、ばっ、やめなさい貴方!! 分けて食べると決めたでしょう!?」
「どいてパパ! 親とは子供を餓えさせない為には自らが餓えるものでしょう!?」
「リッテもおよしなさい!! その中身は母が責任もって管理を……そう、管理するのはこの私……!!」
「独占する気か!? させるかぁぁぁぁぁッ!!」
食料の略奪――人の荒んだ心が生み出す最も醜い行為の一つが第二階級という低くない地位の人間の家で行われるという歪な構図。
地獄のような光景はその後十数分に亘って続き、本当に時間がなくなって家族全員が手を繋ぎながら家を出るまで終わらなかった。
周囲は「今日はやけに仲良しだな」と思ったかもしれないが、実際には家族の裏切りを疑う猜疑に塗れた握手であったことを知るのは、家族のみである。
休みの日ですら絡まれたりするリッテにとって、国立ラインシルト学園中等部への登校など陰口を浴びる為の時間のようなものだ。
貧乏人が学園に入る為に両親が後ろ暗い仕事で汚い金を得ているとか、部分的には優良な成績を自力ではなく裏取引で行っているとか、後は単純に「英雄の子孫の癖に」というお決まりの煽り文句だ。
しかし、その日はいつもと周囲の様子が少し違っていた。
「おい、あいつ……」
「噂は本当なのかな……?」
「インチキじゃない? お飾り英雄の一族よ?」
「でも実際に見た奴もいるって言うぜ」
普段ならリッテが通り過ぎた後になってひそひそと聞こえる声が、今日はリッテを見るたびに一斉に囀り出すようだ。嘲笑に近い声も混ざっているが、普段に比べると少なかった。
と、周囲の中から二人の女子が出てきて前に立ち塞がった。
「待ちなさい」
「ちょーっち聞きたいことあんだけど~」
「……ミズカ先輩、ノーマ先輩?」
中等部三年S組、ミズカ・フライハイトと同、ノーマ・ノーリ。
学校中等部で数少ない学生の『遊衛士』にして、学生としては驚異的な
ミズカはフライハイト家という第二階級貴族派の名家で、ツリ目気味のきつそうな印象に違わずプライドの高い性格をしている。左の髪だけ伸ばし右の髪は肩より上で切った奇抜な金髪は、左の守りを全てノーマに任せたという信頼の証だと噂で聞いている。
一方のノーマは戦闘技能に突出した第三階級の出だが、ミズカにその能力を認められて対等なパートナーとなっている。ミズカと違っておおらかな性格をしているが、一方で常にゆるい笑顔を浮かべる姿は時々妙な迫力を帯びる。また、薄桜色のくせっ毛と女性の割に高身長なので、どこに居ても目に入りやすい。
性格に癖はあるが面倒見はよく、虐めの類には参加していない。
もっと言うなら、虐めている側にもされている側にも興味はなく、平等に見下している――リッテはそんな気がしている。実戦経験があるからこそ、そうでない人間と一線を画す空気を纏っている。
そんな二人が、何故自分に声をかけるのだろう。
不思議に思っていたが、続くミズカの言葉ではっと思い出す。
「露店でやってた『
(あ゛っ)
反射的に自分の手首を触ると、昨日に嵌めたままの共鳴器の硬い感触があった。共鳴器はムレや金属アレルギー対策の加工のせいで「非常によく肌に馴染む」ので、外すことを忘れていたのだ。
昨日の出来事は綺麗に心の中に思い出としてしまい込んだためにすっかり意識の外だったが、そういえば昨日のリッテはそんなことをしていた。その後の怒涛の展開で忘れかけていたが、確かに露店で共鳴器を使い、そして信じられない同調率を出してしまった――らしい。
「いや、それはですね……」
「500%とかいう頭の悪い噂もあるようだけど、そんな法螺はいいの。どこの誰と、何%出したのか正直に答えなさい」
「ゴメンネー、ヒルデっち。その話聞いてからミズカっちってば対抗心メラメラでさぁ」
「そんなもの燃やしていません。仮に100%であったところで強さには直結しない。私たちが負けることはありません」
「というわけで手をあげようって訳じゃないらしいので、正直にどうぞ!」
そう言ったからには、何か手を出そうという訳ではないのだろう。恥知らずのヴ家と違ってこの二人は有言実行で筋を通す人たちの筈だ。威圧感にたじろぎながらも、リッテは正直に答える。
「えっと……私は直接同調率何%か見てませんけど、見た人曰く100だったらしいです。共鳴酔い起こしてすぐにフラフラになったから……」
「相手は?」
「えっ、えっと……その、あー」
そういえば、あの日は「遠い親戚」とその場しのぎの嘘を通したが、相手のジークは実際にはホープライト卿の恩師の御子息だった。姓は敢えて聞かなかったし教えてくれなかったが、親戚と言えばウソになる。かといってジークですと言ってもどこの家のどのジークか聞かれるだろう。
幸いにして、あの日にリッテがホープライト卿の車に乗ったのを見ていた人はいないらしい。しかし、明らかに訳ありであるジークの存在を口にしてよいのか、という問題もある。
ミズカの視線は鋭く、隣のノーマも好機の視線を向けてくる。
いい加減な事を言って追求されるくらいなら、いっそ「言えない」とはっきり言うべきか。いやしかし、そうすると遠い親戚という嘘が――。
「何を躊躇っている?」
「ち、ちょっと待って! 今頭のなか混乱してて何を言えばいいのか――」
「話は聞いていた。答えればいいだろう。我がそうだと」
「いや、それはそうなんだけど――え?」
昨日の夜に、もう聞くことはないだろうと思った声。
前髪の一部だけ赤い白髪。整った顔立ち。琥珀色の美しい瞳。
いつの間にか隣にいたその少年に、リッテは唖然とした。
そこに、国立ラインシルト学園の制服に身を包んだジークが堂々と立っていたからだ。
リッテをよそにミズカの鋭い視線がじろりとジークに移る。
「名乗りなさい」
「ジーク。ジークノイエ・L・ホープライト」
堂々たる名乗りと共にジークが右手を掲げると、そこにはリッテの右手のそれと同じ共鳴器が確かに嵌められていた。
周囲が、その圧に呑まれる。
第一、第二階級の人間とは多かれ少なかれ「圧」を持つ。
それは「人の上に立つ者」の覚悟や精神が持つ気高さであり、言霊の重みの差がそうさせる。しかし若い頃からそういった「圧」を纏う人間というのは殆どいない。ヴ家のような下衆は勿論、名家であるミズカも纏う「圧」はそう強くない。
だが、ジークと名乗ったその少年が纏う「圧」は、強烈にして異質。例えるならばそう――気高きドラゴンの威光を目の前にしているような錯覚を覚えさせる程のものだった。
「今日からこの学校の中等部二年E組で世話になる。存分に学ばせて貰おう」
「えっ」
「お前もE組らしいな、リッテ。もう少し世話になることになりそうだ」
呆けるリッテに、ジークは小さく微笑んだ。
悔しいが、それは見惚れる笑みだった。
リッテとジークの物語は再び交わり、今度は容易にほどけない程に固く結びついてゆく。
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