5. はじめての着衣

 水路を抜けていくつかの小路地を曲がった先に、リッテの家はあった。

 裏口からこっそり入ったリッテは、ジークに手招きする。ジークは促されるがままに裏口を潜り、庭に入り込んだ。そのままこそこそ家に入ったリッテは、とりあえずジークを自分の部屋に入れて待たせることにした。


(全裸を部屋に入れるのもイヤだけど、廊下に立たせるのはもっとイヤだし……)


 実を言うと、リッテはジークに何の服を着せるか途中まで考えていなかった。

 ヒルデガント家の子供はリッテ一人。後は両親しか住んでいない。男物の服を買いに行くのも躊躇われるが、先ほど女呼ばわりは嫌だと言った彼にリッテの服を着せるのも気が引ける。


 ただ、リッテには実行するかは別として、手に入れる心当たりは存在した。

 ヒルデガント家には誰のものでもない部屋がある。

 十年ほど前からそれはずっと変わらず、時折掃除などの手入れは入っても誰かがそこで長く過ごすことはない。そしてそこには、丁度ジークの体躯に合うくらいの男物の服が存在する。

 だが、その部屋に勝手に入って服を拝借する事をリッテは躊躇った。


 特別な部屋なのだ。両親にとってはきっと、リッテの思う以上に。しかし、リッテはいい加減にその未練を断ち切ってほしいと思っていた。彼女は躊躇いなく部屋に入り、クローゼットを漁る。


「ゴメンね……でも、もう使わないだろうから。だから、あげちゃってもいいよね……?」


 部屋の隅に立てかけられた写真の中で微笑む人に一礼して、リッテは部屋の引き出しから服を拝借した。




 ◆ ◆




 数分後、リッテの部屋で服を相手に悪戦苦闘するジークの姿があった。

 ただでさえ人の姿に慣れないジークにとって、自力で服を着るというのは想像を絶する難題だった。何せ一度も纏ったことのない繊維だ。肌の感触もあって、何故人間の肌はこんなに敏感なんだと愚痴りたくなるのを堪える。


「10年前の服だから流石に着心地が悪かったかー……」


 一方のリッテはジークのしかめっ面の理由を別のものと解釈していた。


「10年前の服?」

「うん。10年前、この家にはハルトっていう男の子がいたの。私のお兄ちゃん」

「ではこれはお前の兄の服か」

「どうだろう。今じゃ年齢では私がお姉ちゃんだし」

「……?」

「なんでもない。とにかく今はそれで我慢してね」

「うむ」


 別段異論はないが、今の言葉はどういう意味なのだろう、とジークは内心首を傾げた。しかし人間の時間感覚や文明、価値観に慣れないジークにはそれ以上の想像力を働かせることは出来ない。ただ、窓の外やこの家を見て、嘗て自分が見た人の家より遥かに精緻で立派になっている事には気付いていた。


 ドア、窓、家具。そもそもを言えば、家の建築方法の時点で既にジークが殆ど見たことのないものばかりだ。ジークの知っている家とは、切り出した石や石膏を使って雨風を凌げるようにした、飾りもへったくれもないものが主である。

 正直、ジークは余りにも細工などが細かすぎて眩暈がしそうだった。もちろんそのことを知る由もないリッテは、ジークの様子に違う解釈を見せた。


「……うち、貧乏だから。家の外も中も、あんまり立派じゃないの」

「他所と違いが分からん」

「あっそ。ということは貴方、第一階級か第三階級の人だね」

「なんだその階級というのは? 戦士の位か?」

「えっと……本気で知らないの? それともからかってる?」

「………」


 ジークはその時、既視感を感じた。

 嘗て人の街に入ったとき偶然出くわした男と、今と全く同じやり取りをした。


『レヴィナス教皇を知らない? 本気で? さては君、僕をからかってるな~? いや待てよ、もしかして君は!』


 男の名はジークフレイド。そして最終的にジークフレイドの出した結論は――。


「もしかして、記憶がないの?」

「……人間の文明を知らないだけだ」

「もしかしなくても記憶がないんだ!」

「……面倒だ、それでいい」


 思わず笑ってしまいそうになる。ジークフレイドも目の前の彼女と同じように勝手に勘違いして納得し、そのままドラゴンを連れて町を練り歩いたのだ。誤解は鬱陶しかったが、多くの事を知る事が出来た。不思議と頭から離れない、太古の思い出だ。


「ははーん、あの爆発の時に頭を打って記憶も服もなくしちゃったわけ!」

「ああ」

「あははははは! なにそれ! それじゃどこからあそこに来たのかも覚えてないの!?」

「ああ」


 どこから来たか覚えてないのはあながち嘘ではない。ジークは自分がどこに封印されていたかも、ここがどこであるかもよく知らない。過去に見聞きした町であるのかもしれないが、思い出せないのならば意味はない。

 最初はおかしさに笑っていたリッテだったが、次第に落ち着きを取り戻すと同時に今度は困り顔をした。


「記憶がない、のは、ちょっと洒落にならなかったね……一時的なものならいいけど、お金がないからお医者さんにも診せられないし、うちで面倒見るってのも……何も覚えてないの?」

「……ここに、会いに来た者がいる」


 ジークは少し考えたのち、自分がこの街に来たそもそもの理由を言う事にした。予想が正しければその「会いに来た者」に遭遇すれば多くの問題は解決する筈だ。恐らくは、互いに。


「我は、この街の中心にある建物の最も高い場所に座する者に会いに来た」

「この街で一番大きな建物……州会議事堂!? ってことは貴方、ホープライト卿に会いに来たの!?」


 ここ、ロイズ州の州都で最も高い建物と言えば行政区である州会議事堂で間違いない。何せこの街は議事堂を中心に広がっているのだから。そしてそこで最も高い地位にあり、ついでに最も職場が高い場所にあるのは州知事であるアモン・ホープライト卿を差し置いて他にはない。


「な、何の用事で……?」

「そのホープライトキョウとやらは、我とゆかりの深き者故」

「ほ、ホープライト卿の血縁かなにか……!? ちょ、ちょっと突飛すぎない!? 後で嘘でしたは困るのよ!?」

「会えばすべては判然とする」

「いきなり人の胸を揉んで、服を貰って、挙句に州知事に会わせろと来たかぁ……私が人よりちょっと親切だからって無茶苦茶言ってくれるわねアンタ」


 さしものリッテもこれには不信感と不満を露にジークを睨む。

 時の権力者であるアモン・ホープライト卿は確かに身分や立場に分け隔てない人ではあるが、周囲の取り巻きはそうではないし、なにより多忙だ。身分の全く分からない少年がいきなり会わせろと言って会わせて貰えるものではない。


 だがしかし、もしも万一アモン卿が彼の身柄を預かってくれるのならリッテも安心できる話ではある。なにせ世間知らずの記憶喪失少年をいつまでも面倒見ていられるほどヒルデガント家は裕福ではないし、両親の説得も難しそうだからだ。


 アモン卿は孤児院の経営などにも力を入れている。身元不明で記憶喪失の子供とあらば救いの手も差し伸べてくれるだろう。当人と本当に繋がりがあるなら尚更だ。問題は、どうやってそのアモン卿と話をする場を設けるかである。


「あ、でも……」


 少し考え込んだリッテの脳裏に一つの心当たりが浮かぶ。

 正直に言えば、周囲に見下されているヒルデガント家の人間としてはあまり参加したくないイベントだが、あれに参加しさえすれば最低でも一度はアモン卿と接近することができる。これまた両親を説得しなければならないものではあるが、どうにか言いくるめる他あるまい。


「条件があるわ」

「何だ?」

「会うまでの間、私の指示にしっかり従うこと。そして、悪いけど貴方の勘違いか虚言だったらもうそれ以上面倒見ないわ。駄目だったら出て行って頂戴」


 捨てられた子犬を拾うのは簡単だが、育て面倒を見るのは容易ではない。それを嫌というほど知っているリッテは敢えて厳しい言葉を使った。


「構わない」


 ジークは別段迷うこともなく、それに頷いた。

 リッテはそれでも不安そうだったが、ジークにはアモン卿ならば自分の疑問に全て答えてくれることを確信していた。


 それは地位でも名前でもなく、もっと根本的な、ドラゴンとしての感覚で。

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