4. フルフロンタル

 ――何なのよ、もう!


 ジークリッテの胸中は世の理不尽に対する怒りに満ちていた。

 ろくでもない目に遭ったこと。傷心の心を癒す為のささやかな昼寝の時間を妨害されたこと。全裸の男に胸を揉まれたこと。その男に厚かましくも服を要求されたこと。どれも許しがたい事ではあったのだが、ジークリッテはここで彼への糾弾ではなくその場を共に離れる事を選んだ。


 要は、リスク管理だ。

 あれほど大きな破壊が起きたとあっては遅かれ早かれあの場所に人が集まる。そうすると事件現場に居合わせたジークリッテにあらぬ疑いかかけられるのは必定であり、唯でさえ落ちぶれたヒルデガント家に決して良い結果は齎さない。


 もちろん、この全裸のイケメンが爆発と共に『下から』現れた件について色々と思う所はある。まさに破壊の原因そのものではないかという疑惑も、当然ジークリッテは考えていた。先ほど思わず殴ったときも、恐らくは魔術防壁と思われるもので拳は防がれてしまっている。そのことからジークリッテは彼をはぐれ魔導士の類ではないかと思った。


 だが、もしそうであるから何なのだ、とジークリッテは自棄気味に思った。

 所詮、自分は先祖が軍門なのに武術も魔術も平均以下の落ちこぼれだ。もし相手が素手の通じない防壁を張り、水路を爆ぜさせる魔法を使えるのならば、はなから抵抗のしようもない。


 それに、彼は服をくれと言った。

 乙女を前に股間を一切隠さないどころか恥じらいの欠片すら感じられない堂々たる立ち振る舞いと皮肉を口にしたくもなるが、彼は裸を見せたい訳ではなく、彼としても服がないのは不本意なのだ。


 ジークリッテは全裸の危険な変質者に関わりたくないと思うだけの冷たさを持っている。

 しかし同時に、不本意の全裸に同情するだけの温かさも持っていなくはなかった。

 ひたひたと裸足で後ろから付いてくる少年が、薄暗い天井を見回す。


「水路、だったか。随分と複雑な構造だな」

「そう? まぁ、はぐれても探してあげないから気を付ければ?」

「諒解した」


 少年は周囲につぶさに視線を送りつつも、素直に頷く。

 好奇心に駆られたようなあどけない表情は、恐らくジークリッテと殆ど同年代であろう彼の顔を更に幼く見せた。彼に対する苛立ちが幾分か晴れた気がした。


 確かに知らない人にはここの水路の構造は複雑に思えるかもしれない。

 ここ、アルタレイという地は嘗て貴族の都合で元ある場所の上に無理やり道が敷かれたり、逆に貴族の作った道を上から踏みつけるように無意味な建築や非合理的な建築が行われてきた。都心側はそういった場所は少ないが、公園近くにはそのような場所も多く、年に何度かはここで子供が迷子になる。だからこそ公園ではその入り口になる場所周辺を立ち入り禁止区画としている。


 彼女は子供の頃にここをマッピングして冒険遊びをしていたので大体の道は分かるが、今では誰にも会わずに家に帰る道として使用しているのは複雑な心境だ。ただ、そのおかげでこの道を通れば全裸の男が歩き回る事案も周囲には認知されずに済むのは不幸中の幸いだろう。


 しばし無言で歩いていたが、やはり男の正体が気になったジークリッテは、彼の裸体を出来るだけ見ないようにしつつ質問を投げかけた。


「アンタ、名前は?」

「我が名は……」


 言いかけて、言葉が少し止まる。

 やや間をおいて、彼は少し言いにくそうに答える。


「ジーク」

「ジーク?」

「そう、ジークだ」

「そう……嫌な名前つけられたわね」

 

 何故彼が言いにくそうにしたのか、ジークリッテは何となく悟った。


「龍殺しの英雄ジークフレイドにあやかった名前。言い淀んだのは複雑な心境ってやつ?」

「分かるのか?」

「まぁ、私もジークリッテって名前だし」


 意外そうなジークの顔に、少し不幸自慢したくなったジークリッテは饒舌に語る。


「ご先祖様がジークフレイドなの、うちの家。分家の一つでしかない訳だけど、腐っても鯛ってね。不出来な娘は偉大な先祖に恥ずかしくないのかってよく馬鹿にされるの。身内でも何でもない他人にだけど」


 魔王との戦いを実質的に終わらせたと伝えられる英雄ジークフレイドにあやかって子供にジークという名をつけることは、今でも珍しくはない。しかし、名付けられた子供にすれば堪ったものではなく、常に絵本や演劇のジークフレイドと比較され、嘲りを受ける日々が待っている。

 親が付けたい名前が、子供の欲しい名前とは限らない。まして、おぎゃあ、ばぶぅとしか言えない間に付けられてしまうのだから、抗議の一つもできはしない。


 また、今ではジークという名は田舎や貧困層で付けられることが多い。そのため特に貧困層の出が多い冒険者の新人は、十人集めれば一人はジークがいるといった有様である。


 ありきたりで夢見がちな貧乏人の名なのだ、ジークは。


「たしかに、同一に扱われるのは嫌だな」

「でしょ? しかも私の場合、ジークリッテだから。女なのにジーク君って男みたいな呼び方されるの、結構屈辱的なのよ」

「そうなのか?」

「女呼ばわりされたい?」

「……快くは、ないな」


 ジークは顔を顰める。どうやら彼もジークリッテとは違いはあれど、ジークの名に苦しめられる同志らしい。実際には、曲がりなりにも血を引いた分家と、ただ名前を付けられただけの人ではその悩みの方向性は違う。それでも、思わぬ共通項にジークリッテは彼に微かな親近感を覚えた。


「じゃあ私の事はこれからリッテと呼びなさい」

「承知した、リッテ」


 ジークは素直に頷いた。

 端正な顔立ち、共通の悩み。

 ジークリッテの家柄を知ってなお、物怖じしない態度。

 非常に勿体ない男だ、と内心でリッテは彼にため息をついた。


(これで全裸でさえなければ恋の一つにでも落ちたかもしれないのにね~……)


 あとは胸を揉まれた件についての謝罪がまだだが、リッテは敢えてそれを口にしていなかった。貸しにしておいた方が後で使い途があると思ったからだ。底辺とはいえ名家の人間であるリッテは意外にちゃっかり者であった。




 ◆ ◆




(ジークフレイドの子孫……ということは、それなりに世代は交代しているのか? 駄目だ、人間の時間感覚が分からないうちは何とも言えん)


 一方のドラゴン、もといジークもため息をつきたい気分だった。


 彼が名前を聞かれて逡巡したのは、嘗て人に化けて人里に入ったときにドラゴンという本名を誰も信じることがなかったという経験のせいだ。そのため考えに考えたのだが、残念なことにドラゴンが咄嗟に思いつく人間の名前は「ジーク」だけだった。

 ジークフレイドという男は、ドラゴンと戦った頃は仲間内ではジークという愛称で呼ばれていたのでそれを用いたのだが、結果的に正解だったようだ。ジークという名前はありふれているらしく、疑われることはなかった。


 他の問答も恐らくは噛み合っていない。

 ドラゴンはジークを大敵として認めてはいるが、同一視されるのはプライドが拒む。女呼ばわりされるのが厭なのは、母から与えられた性を否定されるのが不愉快だったから。


 ジークは改めてリッテを見た。

 子孫と言うだけあって、確かに彼女はジークフレイドと似ている。それはドラゴン独自の感覚だが、髪の色ではなく魂の色が似ているように感じた。それでも彼の戦士の髪がもっと鮮やかな赤であったことを思うと、世代の積み重ねであの色が褪せて今の彼女があるのだという推測は出来る。


(人の一生は我にとっては瞬きの間か……ジークフレイドよ。貴様はこの空が繋がる場所に、もういないのだろうな)


 嘗て自分に人の可能性を見せつけた赤毛の男を思い出し、ジークは静かに世の無常に思いを馳せた。

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