3. リッテの非日常

 別に、辛い思いをしたのは今日が初めてではない。

 小学校の頃もこんな感じ。ある程度成長して家柄というものを理解してからは、自分が気付いていなかっただけの疎外感にも理由が見え、そして人の下心が厭と言うほど認識できるようになっていた。


 ジークリッテは一人っ子だ。親戚は遠く、両親は家を存続させるために方々手を尽くしており困らせたくもない。気が付けば、数少ない友達との話題作りのためだけに機械を弄るようになっていた。そんな自分に賎しさ感じることはあるが、やめることもできない。


 結局、部品を買う気分になれず、辛さを紛らわしたくなったジークリッテは町はずれの公園に来ていた。綺麗な公園で人気もあるが、少々入り組んだ場所に無理やり作られたらしく端に行くと段差が多く、子供が怪我しないよう封鎖された場所もいくつかある。


 その立ち入り禁止の看板をくぐり、ジークリッテは水路沿いにある芝生の上に転がった。


「……いっそこんな世界、魔王に壊されちゃえばよかったのよ」


 つい、口をついて不穏な言葉が零れた。

 そう口に出してしまえる程度に、世の不条理に晒されたジークリッテの気分は荒んでいた。


 数千年前、魔王と三つのしもべが世界を滅ぼす為に顕現し、それを防ぐために神々は人に英知を与えた。いわゆる神魔戦争である。しかし最初のしもべ、全てのドラゴンの祖である『龍祖』が倒れてから流れが変わり、神への不信から起こる内部分裂、悪神の出現、魔皇の騒乱と人の歴史は乱れ続けた。

 今では最も新しい魔皇の勢力が残り、始祖の魔王はいつの間にか表舞台から姿を消した。

 あの時もしも魔王が神座を滅ぼし人間を統治すれば、案外世界はここまで千々に乱れなかったかもしれない。それは、真っ先に神になびいたレヴィナス人が聞けば間違いなく激怒するであろう物言いで、きっとミラベルの人間も快くは思わないだろう。


 それでもジークリッテは、せめて自分たち家族が窮屈な思いを強いられる身近な世界くらいは壊れないかな、と空を仰いで願った。


 ――願った空が、奇跡的にもそれを聞き届けることなど露知らず。


 彼女はそのまま腕で顔を覆って昼寝をしようとしていた。

 だからこそ、空の彼方から何かが近づいてきていることに全く気付くことが出来なかった。


 直後、ドッカァァァァァァァァンッ!! と凄まじい破壊音が鳴り響き、ジークリッテは悲鳴を上げることもできず衝撃に体を転がされた。今日は最悪の日だ! と内心で嘆きながらなんとか体を起こそうともがいたジークリッテが目を開くと――。


「む……人間の女?」


 そこには、見たこともない程に美しき琥珀色の相貌が輝く美しい少年の姿があった。


 もしも彼が全裸でなく、そしてその手がジークリッテの胸の上に置かれてさえいなければ、何か違う運命が働いていたのかもしれない。

 ……しれないが、起きてしまったものはしょうがなかった。


「女って、いうか……その女の胸を堂々と触るなこのヘンタイ野郎ぉぉぉぉーーーーッ!!!」


 その日、彼女は人生で初めて人間の顔へ本気でグーパンチした。




 * * *




 少年の姿となったドラゴンは、別に人が住んでいると思しき場所にすぐ降りる気はなかった。


 彼には一つ、心に決めていることがあった。

 故に敵対している訳でもない人間に今から攻撃をする気はない。それにドラゴンは嘗てこそ人間を無差別に殺していたが、今となっては人類に対する怒りや憎しみに囚われていないため、特段の殺意もない。

 ただ、この街にドラゴンはを感じており、現状の世界を知る為にも一度接触しておくべきと考えたために、どう接触するか思案していた。


 しかし数千年の眠りから覚めた彼は、今の時代どこの都市にも魔物を追い払うための結界が張り巡らされており、空中から侵入しようとするのを阻害している事を知らなかった。故にひとまず上から様子でも見ようかと思ったときには、既に『突き破った後』だった。


「――むぅ、飛行を阻害する……障壁か何かか!? いかん、姿勢が崩れて人の里に……加速を殺しきれぬ!!」


 それを目撃した人間がいなかったのは一種の奇跡だったのだろう。

 真紅の翼を広げた裸の青年は、大砲の弾さえ追い越す速度でジークリッテの寝る公園の一角――正確にはその手前を流れる水路に墜落した。


 ドッカァァァァァァァァンッ!! と凄まじい破壊音が鳴り響き、水路の水と瓦礫と粉塵が柱のように高く立ち昇る。


 何気なく、ここで二つ目の奇跡が起きた。

 少年の落下の衝撃を水と水路と土が辛うじて受け止め切った結果、その奥で無防備に寝転がっていた少女――ジークリッテの玉の肌にまで致死レベルの物理エネルギーが届かなかった。


 ただ、体の耐久力が十分でも重さがない少年の体がバウンドしてしまったことは、果たして幸か不幸か分からない。結果としてドラゴンは衝撃に煽られて混乱する少女の上に滑り込むように落ち、そして彼はその生涯において初めて、真に自分の事を龍だと知らない存在と接触したのである。


 ただし、ヘンタイという彼に馴染みのない言語と、拳によってだが。


「~~~~ッ!?!?」


 目の前でこちらを殴った拳を押さえて声にならない悲鳴を上げながら転げまわる少女を見て、ドラゴンは一瞬怪訝な表情を浮かべ、やがて得心する。今のドラゴンは人間の皮膚の柔らかさを持ちながら、防御力は龍のそれという若干矛盾した性質を纏っている。少女は突然現れた自分を敵と認識して攻撃するも、予想外の硬さに自分自身がダメージを負ってしまったのだろう。


 急に頬に触れるから人間特有の挨拶か何かかと勘繰ってしまったが、この様子ではそれはなさそうだ。どちらにせよドラゴンにとって彼女の拳などはそよ風に等しい。嘗て戦った古代の戦士たちの一撃に比すると余りにも惰弱だ。


「な、なんなのよもう……運命は私を虐めて面白がっているのかぁっ!!」


 なんなのだろうこの女は、とドラゴンは思う。

 以前に人間の街に入ったときにはこのようなタイプの人間は見かけなかった気がする。服装は以前に民が着ていたそれよりかなりきめ細かな繊維になっており、服を作る技術がかなり向上していることが伺える。


 言葉は理解できるが、先ほどの障壁といい彼女といい、やはり己はかなり長く封印されていたのだろう。女は微かに赤く腫れた拳にふーふーと息を吹きかけながらこちらを睨む。


「何よこのヘンタイ!? どっから出てきて何したの!? まさか地中から穴開けてこんなところに全裸で躍り出た訳!?」

「……」

「何とか言いなさいよ! いやそれより服着なさいよ!! イケメン無罪って言っても限度があるんだから!! っていうかヤダ、パパのより大き……じゃなくてッ!! 私も私でナニ堂々と見てんのよッ!!」


 ああー! と叫び、頭を抱える少女。

 何を言っているのか殆ど意味が理解できない。人間以上の頭脳を持つと自負しているドラゴンも時代の壁まで乗り越えて知らざる事を知ることは出来ず、言われるがままである。


 ただ、どうやらこの少女は翼を生やした自分が落下してきた瞬間を見ていなかったらしい。でなければ真っ先にドラゴンが人間かどうかを疑う筈である。

 暫くどう言葉を交わせばいいか悩んだ挙句、ドラゴンはとりあえず自分の要求を告げることにした。


「服が欲しい」

「は?」

「服がないから、服が欲しい」

「……あ、そ、そう」


 少女はその要求に目をぱちくりさせ、「好きで全裸な訳じゃないんだ」と小さい声で呟きながら一応納得したらしい。先ほどまで顔を真っ赤にしていた少女の眼は急激に理性的なものに戻り、何やらぶつぶつ呟いたのちに立ち上がる。


「よくわかんないけど、とりあえずここを離れましょ。正直ちょっと嫌だけど、ウチの家なら何か着るものある筈だから。とにかくここに居るとお互いにまずいわ」


 何がまずいのか正確には把握できないが、人間は群れる生き物だ。これだけの轟音と土煙が上がれば好奇心旺盛な人間たちがわらわらと群れをなしてくるかもしれない。

 そして、その人間たちにも彼女のように一応の意思疎通が取れるとは限らない。

 ドラゴンはこの少女の提案に頷いた。


(それにしても……)


 彼女の髪――褪せたような錆色の短い三つ編みを見て、ドラゴンは無意識に色の変わった自分の前髪を撫でる。どうしてか、この髪色が彼女の髪色と共鳴している気がした。

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