第2話
翌日、職員会議のあと、別個のミーティングがあった。校長と教頭が深く吸い込む紫煙を、柳ケ瀬は煙たく感じた。四人のうち非喫煙者は柳ケ瀬のみであった。
「校舎内は禁煙ですよ」
「ええねん、今日は」教頭が煙とともに吐き出した。
「城田先生は、みんなにうまく説明してください。生徒たちが、トラウマになるかもしれませんし」校長はうっとりとした面で煙を飲み込んだ。城田も煙草に火をつけた。
話は、彼らが母子家庭だという方に転がった。柳ケ瀬は、自分に偏見はないと信じていた。むしろ、母親に重圧が凄まじい世の中だと、肌で感じていた。マナブの非行を止められなかったという辛さを分けあえる配偶者の不在は砂漠の一人旅に似ているだろう。
「すまないが」と校長は柳ケ瀬をみて「家庭訪問には柳ケ瀬くんが行ってくれないか」
「構いませんが、どうして自分が」
「より重い責任者が行った方がいいからだ」教頭は苛立ちを隠さず根元の方にまで火が迫るそれを強引吸い付くして、一気に吐き出した。その顔をみて、ここから早く立ち去らねば、と柳ケ瀬は思い立った。肺がズタズタになりそうなほど煙を浴びたためだ。
ご令嬢と皮肉なあだ名をつけられた土方悠紀教諭の冷たい視線があった。
「生徒に喘息の子がいるのは知ってますよね」
「はい、もちろんです」
「どうして煙草を?」
「自分は……吸ってません……」
「その服で校舎を歩くのは、その子にとって、どうなるか分かりますか」
「自分は吸ってないと言ってるでしょう。城田くんや校長たちが吸ってるんです」
土方氏が目を見開くから柳ケ瀬は、このまま彼女が謝るのだろうと確信した。
「だから、土方さんは……」彼らに注意してあげてくださいと言おうとした。しかし。
「柳ケ瀬さんは、非常に無責任ですね。その場にいて何もできないのは、同じゃないですか」
柳ケ瀬は不愉快な思いを抱きつつ、彼女の視線に抗うことをやめ、体育用のジャージに着替えた。
土方氏はミーティングルームに入っていった。
公団住宅の5階、日当たりは悪くない、むしろ夕陽がきつすぎるほどである。湯崎宅についたのは、午後6時を過ぎていた。湯崎 貴子 マナブ という小さな字の表札を入り口の郵便ポストで確認していた。
インターホンをおすとすぐに、貴子氏が現れた。はっきりと、憔悴した顔であった。
柳ケ瀬は玄関に立っただけではっきりと分かる、燃えかすの匂いをかいだ。
「もしかしてマナブくんがやったんじゃないですよね」
「あ、あの、私が料理に失敗しました」と申し訳なさそうな顔で言った。
柳ケ瀬は、これが、食材の焦げたものでないことはわかった。
「マナブくんの様子はいかがですか」
「落ち着いています。今日はずっと映画を観ていました」
そうですか、と柳ケ瀬はわざとらしいほどノートを取り出して、医者のような気分になった。
「湯崎くん、どうしてあんなことをしたのか、言えるかな」
マナブは指名されたら必ず何かは答える生徒であり、図書委員のときもその場しのぎではあるが意見を言うので御しやすい、そんな印象であった。
「昨日も言いました。桜が大嫌いだったんです」
「どうして嫌いなのか言えるかな?」
そしてマナブは貴子の顔をみて、それを察したのか、貴子は台所で火をつけたままでしたと言い残して退室した。
「お母さんに居てもらわなくてもいいのかな」
「母は、僕の喋ることが気に入らないようなんです」
柳ケ瀬は出されたコーヒーがブラックであるから手をつけずにいたが、マナブの顔つき、詳細にいえば、眉に力が入るものの眼は明後日の方をみて、語調は諦めと自嘲を混ぜたものになった。大人びている。雰囲気の変化におされ、おもわずカップを啜った。
「母は、桜は好きみたいです。父との出会いも大学時代の花見兼新歓コンパだったと聞いています。
しかし、僕はどうも桜という性質が気に入らない。あれは、ソメイヨシノは、全体主義的というか、桜前線で開花していくというのが、体育祭の組体操のようで、毎年ニュースで見るたびに日本的だなと思ってましたよ。組体操、一点の狂いで崩れるでしょ。組織というのがそれじゃあ駄目でしょ。桜に似ているのが竹ですかね。枯れるときは一斉に枯れる。でも竹は百年持つと聞いてますが、桜なんか、すぐ散ります。それにソメイヨシノはサクランボを残さずに。何のために咲くか彼らは自問自答をしないよう遺伝子に刻まれているんですよ。憐れで、日本的ですね」
多弁になったマナブに、柳ケ瀬は目をみはった。
「よく、喋るね」
「母にも言われます。男は寡黙な方がいいみたいなことを言ってましたね。それは、確かに映画に出てくる男はそうでしょうよ。でもそれは作風の事情なだけです。例えばですけれど、アルパチーノ、同じギャングだからと、ゴッドファーザーとスカーフェイスで演技プランが違うでしょ? 能弁や多弁を弄するのは、成り上がり者や被差別者というのが決まってます。白人は寡黙、黒人はべしゃり。
そうです。僕の家はみての通り貧乏です。そして、雄弁であることら貧乏と田舎者に与えられた最後の力ともいえますね。僕は、そうは思いませんけど」
「マナブくんには、何を言っても通じそうだ。
なら、わかるよね。君がしたことは法的にも道徳的にも許されない。そして君には、それが、君のなかの言葉で理解できるように纏められると思うんだ。どうだろう」
柳ケ瀬は相手が小学6年であることを忘れかけていた。
「そうですね。現行のあらゆる法や倫理に照らしてみると、僕は犯罪者だ。大変だ。母は昨日泣いていましたよ。彼女は自分の育て方が悪かったのかという悩みを抱えて台所にたって、書類を燃やすんです。彼女は、それがストレス発散の方法なんです。僕も真似をしてみました。先ほど言った通りの理由で桜が大嫌いなので、彼女のように燃やせば、言葉が必要のない領域でのカタルシスをえられるのではないか、そう考えました。無駄でしたね。桜は燃えても桜。ダサいものはどうなってもダサい。それに校舎の桜を燃やしても、世界は何も与えてくれない。だから、あれ以上は燃やしません」
「……君は馬鹿なのか?」
「そうですね。馬鹿なんです。何か母の喜ぶことがしてあげたい、何か皆が笑うようなことが言いたい。もしかすればスピーチコンテストで優秀な成績をおさめることができるかもしれませんし、この文章の羅列を原稿用紙に向ければ、人権作文コンクールでも良いところまでいくかもしれません。でも、それらは一行で終わることなんです。スピーチは、過去の誰かの映像を流します。作文も過去の誰かのを引用します。僕はこう言うだけ。
誰それさんの意見を聞いてください。
僕には、その実、何も言いたいことなんてありません」
柳ケ瀬は、ノートに書き留めることを忘れていた。しかし、マナブの言葉を書き記しても、何も彼のことを記録したことにならない。
マナブは帰っていく柳ケ瀬の背中をみた。そして焦げ臭い匂いがしはじめた。
「お母さん、聞こえてたの?」
答えはなかった。
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