貧乏神
古新野 ま~ち
第1話
気まぐれだった、と、聞いている。桜が大嫌いだった、だから、三階のベランダからガソリンを撒いて火をつけた新聞紙を落としたらしい。
柳ケ瀬は、なんの反省もしたくないという、湯崎マナブの態度に嘆息した。毎年ひとりは、全身で地団駄を踏むように悪行をする子がいるものの、消防署の世話になるのは初めてであった。新聞に載るだろう、学年主任の自分の名が地元紙に載るだろう、減給になるだろう。
炎上する桜の様子、満開だった桜を焔が舐めつくして枝を蹂躙する様は、凄絶であった。風に吹かれ蝶のようにふわりと燃えた花弁がベランダに撒き散らされる。窓にあたる。
怯えるのは入学したばかりの児童だけでなく、柳ケ瀬の担当する6年生でも同じであった。
煙が漂うも、火の手がこちらにまわるより先に冷静に逃げねばならなかった。柳ケ瀬は生徒たちを外にだすのに必死であった。
花びら全てに火がまわる。
校舎から逃げ、運動場へ向かう人の流れに逆らう、湯崎マナブを叱りつけた。死にたいのかと怒鳴れば、僕がやったことですからと答えた。図書委員で大人しそうなガキだと思っていたら、食わせものだった。
対応が早かったため、備え付けの消火栓で火を消した。校舎に燃え移ることはなかった。今朝のことだ。
「あれはな」と柳ケ瀬は窓の向こうで無惨な姿になった桜を指差した。「犯罪なんだ」
「知ってます」と、マナブは挙措の端正な彼らしく落ち着いた口調で答えた。「すみません」
柳ケ瀬は鼻で息をするのが辛かった。
ガソリンを入れていた、日本酒の一升瓶は、気化した匂いが狭い生徒指導室の中に充満している。
柳ケ瀬は、自分より沈痛な面持ちの城田をみた。今にもマナブを殴りそうな気配である。担任の不手際を責められるだろうからと、少しばかり、気の毒に感じた。
放課後、マナブの母を呼び出した。校長は警察に突き出す必要はないと判断し、マナブくんの心に寄り添うようにとのことだったが、蛮行に手を染めた者に心などないだろと、他人事ならば腹を抱えて笑うところであった。
教頭と校長と城田と自分という男四人に、女性と少年がその視線の重圧に相対することができるのか、柳ケ瀬は、サディスティックな興奮を唇で噛み殺したが手汗は滲みだしたままであった。
自分の取り組むべき会話などなく、肩書きで座らされているということから、岡目八目になれるところを放棄して会話の成り行きを聞き流した。
「ところで」母親は切り出した。「マナブは、その、逮捕されるのでしょうか」
「そうですねぇ」と語尾を濁らせる癖のある校長は「私たちとしてもマナブくんには反省をしてほしいとだけ思っています。幸い怪我人はおりませんでした」
「ただし」と教頭が、こちらは語気が荒い。「マナブくんには出席停止が申し渡されるでしょう。あくまで、これは罰則ではなく学校の秩序を維持することが目的ですが」と忌々しそうである。城田など、母親を目の前にしているものの、腕が疼くようである。自分より若いからか、と柳ケ瀬は呆れた。
その夜は、やはりというべきか、異様なほど酒を飲んだ。缶チューハイをいくつも飲み、それに応じて、家に置いていたカップラーメンを何杯も食べた。酔いがまわると、食べる癖がついていた。
かつて、恋人にストレス太りするタイプだと笑われた記憶があった。その指摘にさえ腹が立った。柳ケ瀬は、自分が怒りっぽいというのは自覚していた。自分の知っていること、それを、第三者に指摘されるというのは、居心地の良いものではなかった。
改めて、と、柳ケ瀬は考えた。桜が焼失したことで失われた校舎の風景は歯抜けの児童に似た間抜けさであることだ。整列した桜に延焼しないで良かった。我が身も校舎も無事であった。缶チューハイの味は春限定、酸い味が口にあわなかった。
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