閉じた箱の中.08

 紫音とベルデは助手からの電話で北区マフィアの邸へ行くよう伝えられていた。到着した彼女らは正面から邸へ侵入するよりも裏口から入ることにした。目指すのは騒動の根幹である彼氷だ。彼女を止めなければ爆発の被害は大きくなる。――防御壁都市に設置された爆弾はまだすべてが起爆したわけではない。

 はじめの爆弾は一般市民を避難所へおびき出すための誘導だ。誘導の爆弾だけで随分人が死んでいるだろうが、これからが本番。避難所や東区と南区の邸、住宅街に爆弾の設置が集中しているのだ。安心だと思える場所に設置しているのだから卑劣である。さすがに東区と南区の邸の爆弾処理は済んでいるだろうが避難所や住宅街のほうは完了していないだろう。早急に彼氷を止める必要がある。


 北区マフィアの邸は予測していたよりも物静かだった。中にいるマフィアたちが襲ってくるものだとばかり思っていたが、誰一人として襲ってこない。というより誰もいないのではないか。不審に思いながらも紫音とベルデは北区マフィアのボスの執務室へ足を運ぶ。紫音は拳銃を、ベルデはライフルを構えて、その部屋に足を踏み入れた。


 その部屋には彼氷がただ一人。椅子に座っていた。侵入者である紫音とベルデの姿を認めるとわずかに視線を寄越すだけで感情を見せない。


「遅かったわね」


 そんなことを言う。彼女の落ち着いた様相に拍子抜けしてしまいそうだった。この余裕はどこからくるのだろうか。


「一応言うが、クローンを破棄するとかいう馬鹿げた計画はやめろ」

「それは無理ね」

「だろうな」


 紫音は銃を彼氷に向けた。それでも彼女は慌てたようすなどなく落ち着いている。


「どうしてそんなに落ち着いているの?」


 ベルデは首を傾げた。彼氷は肩を落とし、息を吐く。机に置いてあった扇を手に取ると静かにほほ笑んでみせた。


「一つ目の目的が達成したからよ。クローン製造施設と研究施設、その跡地の爆破。この都市にゼロから施設を作る技術なんてないから、これでちょっと安心したわ」

「まだ……、なにか企んでる?」

「ふふふ。あなたは純粋ね、運び屋ベルデ。そして心優しい」


 ベルデには彼氷の微笑に影がさしているように見えた。それはけっして悪意のあるようなではなく、きっと彼女の弱い部分だったろう。


「クローンを破棄して、この狂った防御壁都市をどうにかしたいというのは本当よ。そうするために爆弾をたくさん仕掛けておいたし、施設は壊してしまった。続けて一般市民として機能するクローンを処理したいのだけれど、この段階へ行く前にきっとあなたたりが私を阻止してしまうでしょう。でも、阻止されてもいいの」

「どうして……」

「クローンは人間に比べて短命なのよ」


 ベルデは銃口をおろした。紫音が怪訝な視線を向けたが、ベルデには彼氷の考えていることが理解できてしまう。そして悟るのだ。


 僕たちは負けた――……。


「今量産されているクローンは最大で十年しかその体を維持することができない。クローンはその都度改良された型を大量生産して、入れ替えていく。型を世代として分けていてね。今都市のなかで最も多い世代はあと二、三年しかもたない。施設を破壊した今、次世代はもうないわ」

「だから今仕掛けている爆弾を撤去されてもいずれ防御壁都市のクローンはいなくなっていく……。北区マフィアの計画は施設を破壊した時点で完了していた」

「そういうこと。私たちの勝ちよ」


 今ここで彼氷を殺したところで手遅れだ。敗北を確信したとたん、ベルデは警戒を解いてしまった。

 数年後には確実に彼氷の目的が達成される。その事実が確定した今、彼氷は侵入者の紫音とベルデを目の前にしたまま微笑みを絶やさない。


 ベルデと彼氷の話を聞いている最中でも警戒と緊張と解かなかった紫音は背後から訪れる殺気に気が付いた。

 抑え込んでいるようだが、それは明確な殺気と殺意。背中の扉が静かに、ゆっくりと開かれる。紫音より扉に近いのはベルデ。そして油断して隙だらけなのもベルデだ。


「気を抜くんじゃない!」


 紫音はすぐに伏せてベルデを足払いした。ベルデは素直に転んでしまい、そして僅差でベルデの首があった空間を刃が通り過ぎて行った。

 紫音は襲撃者に銃口を向ける。立っていたのはデルタだった。


「彼氷、あぶない……!」


 デルタはナイフを持って、ベルデを見つめた。デルタの姿を見たベルデは彼の肩を見て、なぜ自分を選んで殺そうとしているのか、この場で気が付く。彼は肩を負傷していたのだ。片腕が持ち上がらないほど関節を砕いてしまっている。いまなお血を流し続けたその傷口は紫音とベルデが最後に彼を見た時にはなかった。恐らくそれはベルデがつけた傷。ベルデの車を狙った狙撃手はデルタだったのだ。彼を狙撃したのはベルデである。

 振り下ろされるナイフを避け、ベルデは逆立ちするように足をのばすとデルタの首を挟んだ。すぐにベルデが足にナイフを突き立てようとしたがそれよりはやくベルデは彼の頭を床に叩きつける。そのまま足は首を捉え、ベルデは馬乗りになるとデルタの腕からナイフを奪い取り、彼の目玉のうえに切っ先を向けた。まぶたが触れてしまいそうなほどの至近距離である。さらに紫音の銃口がデルタを向いていた。


「彼氷……」


 制圧されたデルタの視線は彼氷に釘付けだ。紫音の冷たい視線など知らないのか気が付いていないのか、彼は彼氷ばかりを視界に入れていてベルデが構えているナイフなんて意識の範囲外である。


「もういいのよ、デルタ」


 彼氷は机の引き出しから銀色に輝く拳銃を取り出した。紫音は脇に隠し持っていたもう一丁の拳銃をとりだし、彼氷にも銃口を向ける。

 彼氷は――見事な装飾がされた拳銃を己に向けたのだ。そしてゆっくり、その銃口を顎の下にあてがう。


「どうか、私たちの故郷が人の手で栄えますように」


 迷いなく引き金を引いた。

 飛び散る血液。息絶える彼氷。彼女はクローンである自身を処理したのだった。


「クローンだって、人なのに……」


 泣き入りそうなベルデの声がぼつりと落ちた。

 彼氷の最期を見届けたデルタの行動は迷いがない。目の前にあるナイフをまっすぐ見た。ベルデの手を掴み取ると感情など初めからなかったとでもいうような無表情を取り戻したのだ。ぎょっと驚くベルデを差し置いて、彼は口だけを動かした。


「彼氷がいないならこの世界に興味はない」


 ナイフを勢いよく目玉に差し込んだ。突くそのナイフは目玉を潰し、その柄さえ埋め込むほど深々と刺さる。それは脳まで到達していた。想像を絶する激痛だったはずなのにデルタは表情筋ひとつ動かさず、静かに絶命した。

 あっけにとられたベルデは目の前で落とした命の亡骸を眺める。呆然とする彼の肩に優しく触れ、ナイフから手を離させる。


「僕はずっと疑問だったんだ。生まれは違っても、クローンだって人間と何ら変わりはない。彼らにだってこの防御壁都市を繁栄できる力があるはずなのに。どうしてその可能性を諦めてしまったんだろう」


 彼氷はどうしてクローンを嫌ったのだろうか。どうして人間を愛したのだろうか。 ベルデのほうへ放った「心優しい」という言葉は、ベルデへ向けた言葉ではなかっただろう。彼氷には人間を想うきっかけとなった人物がいたのではないだろうか。

 消えてしまった魂の真相を想像して、ベルデは瞳を閉じる。

 ベルデの想像は想像に過ぎない。彼女の想いは、誰にも開けることができなかった。彼女を信仰していたデルタのその本性さえ、固く閉ざされた箱のようだった。

 全容を知ることは、この先の未来でもないだろう。


 ただ、今は――、旅だった魂たちへ。


 ベルデは目の前で潰えた光たちに心を静めた。丁寧に胸元で十字をきると、差しのばされた紫音の手を取って立ち上がった。

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