閉じた箱の中.04
バイクを放り捨て、ルベルはとある建物の中に飛び込んだ。
そこは北区。かつては八番街と呼ばれた路地である。人口の減少により廃墟と化してしまった小さな町の一角だ。各店舗が掲げていたであろう看板はとうに擦れ、文字さえ読むことが難しくなっている。手入れがされていない八番街にかつての栄光はない。
妹のユアンをガンマに殺されて以来、この八番街を避けていた。侵入すること、ましてや視界に入れることでさえ躊躇い、執拗に遠のけていた忌々しい場所である。ぶり返すトラウマはルベルの首を容赦なく絞めたが、彼はその重い足取りを承知した上でまっすぐに進んだ。
まるで点滅するように当時の記憶が視界をジャックしている。ぐにゃんぐにゃんと歪んでいく世界をなんとか堪える。胃がねじれて中のものをぶちまけてしまいそうだ。だが、ある一室の扉を開いた瞬間、ルベルに影響を与えていたすべてがクリアになった。いや、すっきりしたというよりもそんなものは認識の外側へいってしまっただけなのかもしれない。
扉を開けた先に広がるのは記憶に刻まれた地獄だ。まさしくこの場所でユアンは血を流し、息を引き取った。あの時、あの瞬間、あの空間は驚くほど鮮明に記憶に刻まれていた。ユアンの表情、息遣い、声音、鉄の濃厚な臭い、冷たい感触、鳴りやむ心臓の鼓動さえ、すべてが時間逆行しているかのように、鮮やかに。
――この部屋の中心で、少女は涙を流していた。
「……サブラージ」
そう口にできたのは奇跡のようだった。なぜならルベルは今、この瞬間もその少女を妹と錯覚しているのだ。だって同じなのだ。寸分たがわず、少女はユアンと同じ容姿をしている。ユアンが当時のままの姿でこの場にいるのだ。現実と記憶が混ざり合い、区別などできるはずがない。
「――ルベル――」
――おにいちゃん――。
正気に戻れなくなるほど、ルベルは勘違いしている。足を向け、手を伸ばし、抱きしめたくなる。再会を喜びたくて、愛しい妹をもう二度と手放さないと誓いたくて。その幻想を抱いて、その中で眠ってしまいたかった。
しかし、はたと現実がルベルの足を引っ張った。目の前の少女は顔を青くして、ルベルへ拒絶の目を向けている。思い返される、ガンマの姿。彼氷の告げたクローンの存在。情報屋が導いた現在。
ユアンは、とうに死んでいるのだ。
急激に夢から目覚めたルベルはサブラージを見て、喉が詰まった。
――泣いている。
ルベルは衝動のままサブラージを抱きしめた。これでもかというほど、強く、強く抱きしめた。サブラージはなにやら言いながらルベルを叩いていたが力などろくに入っておらず、その拳はまったく痛くなかった。
「サブラージ……」
ルベルだって泣いてしまいそうだった。急激にあふれる感情は何が起因で、どんな色の感情であるのか分かりやしないが、とにかく胸が熱かった。
「やめてよ、なんで私なんかを! こんな偽物!」
サブラージは知っていたのだ。ずっとずっと、一人で抱え込んでいたのだ。彼女は孤独だった。
記憶に蓋をして逃げていたルベルとは違う。サブラージは己がルベルの最愛と瓜二つであることを知っていたのだ。
「私はユアンじゃない! 私はユアンの姿をしただけの偽物で、きっとルベルは私なんて見たくないから……!」
サブラージの声に鋭さが増していく。ルベルの胸にその言葉が突き刺さった。
ルベルたちにクローンの真実を知られたくなかった理由がようやく理解できたのだ。サブラージは己に劣等感、嫌悪感を抱いていたのだ。
そもそもサブラージは北区マフィアに製造されたクローンである。製造順につけられた番号でしか個々としての認識をされなかった頃、水槽のなかで一番に意識を宿したのが今のサブラージだった。どんな理由や動機があったか分からない、むしろそんなものはなかったのかもしれない。彼女は衝動的に北区マフィアの製造施設から脱走した。思えばそれは遺伝子の中に刻まれていたユアンの記憶が彼女を脱走させたのかもしれない。やがて脱走した北区マフィアに捕獲されるも、とくにお咎めはなかった。
本来、製造されたクローンは日常生活が送れる程度の一般常識を組み込まれてから社会へ送られる。その一部はマフィアとなるのが常だった。しかしサブラージは一般人にはならず、しかしマフィアにもならなかった。そのまま裏社会へ溶け込み、下仕事をして稼ぐことで自立していった。はじめは抗争後の清掃や死体処理をしていたがやがて回収屋として己を確立していくこととなる。
サブラージと名乗り、回収屋として夜の都市に飛び込んで日が浅かったころ、ルベルと出会った。ルベルこそが、はじめてマフィア以外と会話をした人物である。そのとき、はじめてサブラージは自分というものを意識したのだ。
それまでどこか朦朧とした意識の中を浮遊していた。心ここにあらずという風体だった。自分という個を意識したことはなく、集団の中の一員程度のものとして考えていた。だからこそ、ルベルが「サブラージ」と言うたびにどきりと胸が高鳴って嬉しくなった。楽しくなった。
私は私としてここのいるのだと認めてもらえたような気がしていたのだ。
毎日が新鮮に移り変わる中、彼女に影ができた。ガンマがサブラージに告げたのだ。サブラージの材料を。
サブラージは一人の遺伝子から作られたクローン。それがルベルの妹ユアンのものであると。
影は容赦なくサブラージの心に黒い染みを残した。染みはいまでも大きく伸びている。
いつルベルに責め立てられるだろう。いつルベルに避けられてしまうだろう。いつルベルに殺意を向けられてしまうだろう。
そんな恐怖がずっとサブラージの中にくすぶっていた。怖かった。自分の正体に気付かれて否定されてしまうことが。拒否されてしまうことが。はじめてサブラージを一人として認めてくれた人がはじめてサブラージを拒むことが。
「意味わかんねえよ」
サブラージはルベルの言葉の先を聞きたくなかった。精一杯耳を塞いで逃げ込んでしまう。そんなサブラージの腕を掴んで、彼女のしっかりと聞こえるよう、ルベルははっきりとサブラージに告げてやった。
「ユアンとサブラージはぜんっぜん似てねえ!」
はっきりと放たれた言葉の意味を、サブラージは理解できなかったのだろう。
予想していた言葉の嵐とは違っていて、虚を突かれていた。
「ユアンのほうがいいやつだ。ユアンのほうがかわいいし優しいし賢い! サブラージと一緒にすんな」
べらべらとルベルは言ってやる。ユアンとサブラージの相違点を。その言葉の荒波にサブラージはあっけにとられてしまった。言い返すこともできずただ圧倒されてしまう。ルベルが何を言っているのかその意味など把握しきれていないが、ただ自分の思考は空白だった。
「偽物だとかクローンだとかは知ったことじゃねえ。俺の妹はユアンだけだ。ユアンとサブラージは別人だろ」
「で、でも、私のこの顔、この声! ルベルの嫌な記憶を思い出させてしまうんじゃないかって」
「考えすぎなんじゃねえの?」
「……は?」
恐れていたはずのルベルの反応に拍子抜けしてしまう。サブラージの空いた口がふさがらない。
「だってそういうのは俺が克服するものだろ。サブラージが考える必要なくねーか」
言葉に詰まってしまう。どう答えていいものか分からず、サブラージの頭はまっしろになった。
認めたくはないが、図星なのだろう。自分のことばかりではなくルベルのことを考えていた。ルベルが起因で後ろめたさを感じていたが、その張本人から考えすぎだと指摘されたサブラージは、頭が真っ白になった。
ずっと、ずっと胸の中で成長していた悩みの刺がぽろぽろと落としているようだった。
それは彼女だけが世界に置いて行かれているかのようで、ぽっかりとしたサブラージは呆気にとられた。
「せっかくユアンと同じいい顔で生まれてんだから誇れよ。胸を張れよ。まあサブラージよりユアンのほうがもっといい顔だし性格もいいけどな」
「ルベルってシスコンだったの……?」
「ちっげえよ!」
ぷ、とサブラージから笑いが漏れる。くよくよ悩んでいたのが馬鹿らしくなってきた。なんだかんだとずっと悩んで、落ち込んで、怖がって。そんなものがすべてそぎ落とされている。
大好きで大切なルベルに地獄のような正体を知られたくない一心だった。
サブラージの世界からルベルが消えてほしくなかった。そんな不安は、いつの間にか泥となって体内を循環していたのに。
サブラージの正体を知っても、ルベルは世界から消えないのだ。
刺は消え、泥もなくなる。なんだか清々しい。
「ばーか」
はじめて、サブラージの腕がルベルの背に回った。少しの力を込めてサブラージはルベルを抱きしめ返し、そしてしばしその胸に体を預けることにした。
じんわりとひろがる温かさが心地よく、すこしだけルベルに甘えてみようと挑戦してみることにしたのだ。
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