防御壁都市と真相.06

「気味が悪いでしょう」


 棒のように立ち尽くすルベル、紫音、ベルデの前に一人の女性の声が響いた。いつの間にか――最初から――いたその女性は静かに水槽を見上げている。薄暗く、距離があったせいかその人物はよく見えない。


「こんなの狂気の沙汰よ。誰の指示ももうないのにいつまで現状維持をしているのかしらね」

「現状維持……?」


 反復して、目の前のおぞましい光景を見る。

 ずっと、地下でこんなものが並んでいたのだろうか。それは底知れぬ恐怖と狂気が入り混じる混沌。そんなものの上でずっと生活をしていたのか。足元の混沌など知らず、能天気に。


「あなたたちはこの壁の外からやってきた人間……その生き残り。きっと正常な頭を持っていることだと信じて、この真実を教えましょう。防御壁都市の本当の姿、その正体を」


 その女性はヒールの踵を鳴らしてゆっくりと近づいてくる。色素の薄い金の髪、冷たいものを連想させる瞳、そして代名詞ともいえる白いスーツ姿。


「まさか君は、彼氷……?」


 先に夜目に慣れたベルデが彼女の名を呟くと、女性は浅い笑みを浮かべた。肯定だ。

 彼氷は若くして北区マフィアの次期頭首の座についている。才能ともいえる先見の明と聡明さが北区マフィア内では彼女の祖父であるボスに次ぐ権力者でもある。


「うちのガンマがずいぶんとお世話になったわね。直接会うのは初めてだけど、私はあなたたちをよく知っているわ。奪還屋ルベル、殺し屋紫音、運び屋ベルデ」

「んなことより、どういう意味だ。防御壁都市の正体だぁ?」

「そうよ。あなたたち、これが何だと思う?」


 彼氷は両手を広げて数多の水槽を指した。眠る彫刻たち……。それが一体何なのか見当もつかない。彼氷の微笑んでいた表情はわずかに険しくなる。


「クローンってご存知?」


 その言葉を聞いたベルデは愕然として、すぐに水槽を見た。確かめるようにその手で水槽に触れ、一番近くにある子どもに目を奪われる。

 学のないルベルと紫音はクローンというものを知らない。驚愕に震えるベルデの反応がわからなかった。


「クローンっていうのは無性生殖的な……、そうね。人工的に作られた人間と言えば分かるかしら。つまり人造人間ってことね」

「じ、人造人間……だと……?」

「そう。この防御壁都市に暮らすおよそ八割以上がクローンよ。人間そっくりの人間の偽物。本物そっくりに設計された模型のような都市。いいえ、模型と例えるよりここはまさしく実験場ね」


 人工的な――、人間。そんなことはありえないとルベルは首を横に振ったが、しかし目の前には彼氷が告白した通りの現実がじんわりと広がっている。たくさんの水槽とその中に浮かぶ人間を見て吐き気がする。彼氷は嘘をついていない。常識外れだが、これが防御壁都市の本当の姿だ。


「こんな腐った都市はすべて偽物。偽物だらけのままでは都市の未来に繁栄はないわ。この都市の存続のためにクローンは破棄する」

「そのために西区を」

「ええ、そうよ。西区はクローン生産の中心地。クローンを破棄する前に生産施設から破壊しなくてはいけないでしょう?」

「だからって、あんな……」


 ルベルと紫音は目撃した。たくさんの死人を。西区マフィアの本拠地で、たくさんの血を見ている。目的のためにたくさんの死を許容するというのか。


「あなたたちはこの壁の外からやってきた正真正銘の人間で、都市が偽物だらけだと誰も教えてくれなかったでしょうね。クローンは驚くほど身近に、たくさんいるのよ」


 彼氷は手のひらをルベルらに示した。そしてクローンの名を挙げながら指を折っていく。


「東西南北のマフィアはみんなクローンよ。もちろん私を含め、ガンマ、デルタ、ミューも。マフィア以外であなたたちが知っている人だと、情報屋の助手だってそうね。それに――回収屋のサブラージだって」


 それからルベルらが知り合っているほとんどの仕事屋の名前を次から次へと上げていく。しかしルベルにはその名が頭に入ってこなかった。あまりに、あまりになじみ深いサブラージの名が耳に入った瞬間から、頭が真っ白になってしまった。彼氷から叩きつけられた言葉が現実であるとはとうてい思えないはずなのに、ルベルのどこかが真に受けてしまっている。生意気ながらもあの少女が人造だとは考えられないはずなのだ。喜怒哀楽がはっきりある、どこにでもいるような少女だ。

 ルベルの記憶に蘇るサブラージの姿がいくつも連鎖するが、最後には蹲って声を枯らす様子が浮かんだ。何度も「行かないで」とルベルらを引き留めるサブラージの姿だ。


「なら、僕にはクローンを廃棄する動機が分からない。彼らは偽物だろうと僕たちと変わりないじゃないか」

「いいえ。私たちは違うのよ。クローンは繁殖能力をもたないの。存在するだけの人形とさして変わりないわ。それに寿命が短いのも欠点ね。工場のように生産し続ければ集団としては途絶えることはないでしょうけど、それは非道徳的だと思わない?」

「生きているクローンをすべて破棄しようとしている君たちだって同じだよ」


 努めて冷静にベルデは彼氷に食って掛かる。しかしあくまで彼氷は冷静沈着に淡々と語った。


「いいえ、これは必要悪よ。この都市のためならば私たちは身を粉にするわ。たとえ永遠に悪と語り継がれたっていい。この都市が、正しく繁栄するのならば」

「……どうしてそこまでこの都市に尽くそうと考えるの」

「あなたたちには分からないのかしらね……」


 彼氷は物静かに息を吐く。失望しているのか、想いはせているのか。浮かんですぐ消えていく煙のような息を吹いたあと、彼氷は宙を仰いだ。地上を見つめているのだろう。


「ここは私たちにとって、最愛の故郷なのだから」


 その意味を理解しようとした。


 奴隷として売り飛ばされ、各地へ逃げ回っていたルベルには分からなかった。幼いころから傭兵の一員として戦場を転々としていた紫音には分からなかった。住処から追い出され、引き離された姉を追い続けていたベルデには分からなかった。


 その意味を理解できなかった。


「……ここまでね。残念だわ。あなたたちには私たちを理解できず、その志を共にできない。時間を無駄にしてしまったわ」


 彼氷は肩を落とすと、踵を返した。このままコツコツと足音をたてて足早に奥へと消えていく。たくさんの影が眠る柱の奥へと消えていったあと、辺り一面は驚くほど静寂となった。

 なんだか夢の中にいるような気分だった。ふわふわと足が地に着かない。明暗と点滅する視界をこすって、大きくため息をついた。眠っているクローンの赤ん坊を眺めて、彼氷の話をもう一度思い出した。


「狂ってやがる」


 その異常は理解できる。クローンの都市は異常である。そして都市だけではなく、都市のためと謳いながら破綻を計画する彼氷を筆頭にした北区マフィアだ。


「お、おい、はやくここから逃げた方がいいんじゃないか」


 紫音は一番近くにいたルベルの袖を引っ張って出口を指した。


「彼氷たちはここも破壊するつもりなんだろう? その破壊ってまさかハンマーを手にこの柱を叩き壊していくなんて原始的な手段じゃないんじゃないか。もし私がここを壊すなら手っ取り早く爆破するが」

「……」

「やべえ」


 ルベルとベルデの顔がさっと青ざめていく。すると目に見えないほど部屋の遠くからガラスの割れる大きな音が響き渡った。耳に突き刺さるような高音が一つなると、端を切ったようにそれは連鎖した。奥から近づいてくるその音と温かい爆風が次第に近づいてくると分かると、ルベルは紫音の腕を掴み直し、ベルデの背中を押した。紫音の言っていた通り、爆破による処分だ。爆破は容赦なく近づいてくる。足元にもガラスの破片や、クローンの一部が飛んでくるがなりふり構わず全力疾走した。

 三人は地上に飛び出ると、ベルデの停めている車の影に転がり込んだ。大きく響く地響きはしばらくの後に止んだ。地下の構造はしっかりしていたようで、地上の地盤が崩れる様子はない。足下の安全はいつまでも確保を約束されていない。ベルデは車のエンジンをかけて退避しようとドアを開いた。


「あれ」


 そこで、車内にサブラージがいないことに気が付いた。車内は空。誰も、何もない。車のなかでとどまらず出て行ったことは明白だが、情緒不安定だったサブラージが姿をくらましてしまったのは一抹の不安を残す。


「サブラージ……」

「あの調子だったんだ、先に帰ったんだろ」


 サブラージが賢い少女であることはルベルも認めている。取り乱して情緒不安定になっても自制できる理性くらいはある。むやみやたらに我を失ってしまうような少女ではない。後ろ髪ひかれながらもルベルはベルデの車に乗り込んだ。最後に紫音の乗車を確認するとベルデは車を発進させた。後方では邸まで爆破されていた。

西区マフィアである邸とクローン生産施設の爆破、そしてその重役の殺害はこうして彼氷により成し遂げられてしまった。ついに西区マフィアはその機能を停止させてしまったのだった。



   ◇◇◇◇◇◇



 北区マフィア、その本拠地である大きな邸の中を彼氷は歩いていた。すぐ後ろには彼女の右腕である褐色の男、ガンマを連れている。堂々たる姿で歩くその姿はいずこかの女帝を思わせる。彼女はまっすぐ、ある人物が待ち構える部屋へ向かっていた。


「今なら後戻りできるわよ、ガンマ」


 彼氷は後ろを振り返らず、控えているガンマへ問いかける。彼氷が為している変革は彼女独断のものであって、北区マフィアとしての方針ではないのだ。北区マフィアはクローン生産を是とし、防御壁都市の現状維持に貢献している。この中で異質なのは彼氷なのだ。


「愚問ですよ、彼氷」


 ガンマのその返答に、彼氷は小さく「愚かね」と苦笑した。

 彼氷は最上階の一番奥にある一室の前に立った。重苦しい両開きの扉をノックする。室内からの返答を聞いてから、ガンマが扉を開けた。室内の床に潜んでいた絨毯が彼氷の脚に吸い付く。逃がすまいと掴まれているようで、心なしか足取りが重い。底なし沼に入り込んでしまったような気分だ。彼氷が目指す先にいるのは一人の老いぼれた男。剣のような鋭く爛々とした彼の瞳がまっすぐ彼氷を貫いた。質のいい椅子に腰かける彼の手には細かく装飾された杖が握られている。足腰を痛め始める年齢に達しているというのに、彼氷を睨むその様相はあまりに姿勢が良く、いつでも飛び掛かれる獣のようだった。


「お爺様」


 その男こそが北区マフィアのボスであり、彼氷の祖父。出来の悪い息子を殺していまだに現役の地位に居座る恐ろしき獣だ。


「お前をここに呼び出した理由を、理解しているな」


 彼氷が西区マフィアの本拠地を爆破し、実質壊滅させたのはつい三十分前。それなのにもう情報が耳に入っているらしい。彼氷は「ええ」とだけ答えた。


「失望した。なにをしでかしたのか分かっているだろうな」

「もしかして西区マフィアを潰したことを指していますか?」


 東西南北のマフィアが均衡を保っていることで成り立っていた防御壁都市は西区マフィアの壊滅及び失墜で崩壊を始める。その引き金を引いた北区マフィアは今後、南区マフィアや東区マフィアにどんな体裁を与えられるか。そんな近い未来もわからないような彼氷ではない。北区マフィアのボスは平然としている彼氷へ殺気を向ける。しかし彼氷は懐から扇を取り出して顔を仰ぐほどの余裕を見せていた。


「なにをおっしゃるかと思えば。お爺様の方針はあまりにも前時代的。時代遅れですわ。クローン生産なんていつまで続けるおつもり?」

「なんだと」

「仮初めでつなぎとめてばかりではこの防御壁都市に未来はないわ。この都市のことを親身に考えるならば、我が身の保身もといクローン生産なんて廃止すべきです」

「このクローン生産の目的を知っていて言うか!」

「笑わせないでくださいな。クローン生産の目的なんてとっくの昔に失われているでしょう。観測はすでに終わっているのよ」


 彼氷は扇を閉じて北区マフィアのボスに向けた。


「これから世界は変わるの。薄汚れた都市と共にあなたは過去になる」


 控えていたガンマが懐から拳銃を取り出す。ボスの両隣で控えていた側近が反応するよりも早くその引き金を引いた。ボスのこめかみに風穴があく。そしてすぐに照準を滑らせて側近の頭蓋を撃ち抜いた。一瞬の出来事。北区マフィアのボスが見事に即死した。そのあっけない最期など興味ないと、彼氷は視線を外した。

 たとえ肉親とはいえ、彼氷はボスに情などなかった。淡々とこなした彼氷は部屋の中央部分にあったテーブルに行儀悪く腰を下ろす。


「これで北区マフィアは私のもの」


 彼氷はゆっくりと口角をあげる。

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