防御壁都市と真相.05
紫音はルベルの頬を思いっきり殴り飛ばした。その痛みと衝撃で我に返ったルベルはしりもちをついて紫音を見上げた。
「あ……、え……?」
「なにを呆けている。行くぞ」
まるで表情を見せぬように、紫音は背を向けた。ルベルは頬をさすり、口の中に感じる血の味を確かめながら立ち上がった。背後を振り返り、少女の遺体を見送った。紫音に遅れて廊下に出ると、彼女は腕を組んで目を閉じて考え事をしていた。眉間に深いシワを作りながら考え事をするのは彼女の癖だ。
「ルベル、ガンマがいたのは覚えているか」
「は?」
「覚えてないのか? どれだけ我を失っていたんだ」
「……わりい」
「別に責めているわけじゃないんだ。ただ、ガンマが気になることを言い残していったから……」
紫音の声はこもるように小さく消えていった。自信なさげにしているのは珍しいと、ルベルは紫音を凝視した。ルベルが意識のない間なにが起きたのか紫音は重たい口を開いて話す。
彼の言う「変革」「観測の目」「見放された防御壁都市」の真意がわからない。ルベルにもその言葉に対して心当たりはないようだ。ただ、変革とは今現在北区マフィアが行っている西区マフィアへの襲撃を指しているだろうことは容易に予測できる。
「ガンマの跡を追おうぜ。考えたってわからねえんだ」
「そうだな、ルベルの言う通りだ」
血の海である部屋から廊下へ伸びていく足跡は一つだけだ。この部屋から出たのはガンマのみである。ルベルと紫音はその手に得物を確かにしながら先へ進んだ。血の足跡は玄関まで戻り、外へ出た。血は薄れていくが、土にガンマの靴の跡が残っている。
「あそこへ向かっているんじゃないか?」
「地下室の入り口か?」
「地下室の?」
大きな邸の庭にある小屋。ガレージよりも一回り小さいようなそれは一見して倉庫だが、ルベルはすでに別の場所に倉庫があることは確認している。小さな小屋のような建物に見覚えがあったルベルは確信して頷く。幼いころ自分と妹を買った貴族は牢獄のような地下室に奴隷たちを押し込めていたのだ。あの貴族の邸にあった地下室への入り口と似ているのだ。ルベルと紫音が足跡に従いその小屋に向かっていると、猛スピードで邸の門を突き破り、敷地内へ侵入する一台の車があった。見覚えのあるスポーツカーである。
「ちょ、ちょっと……っ!」
「ルベル!」
その持ち主であるベルデを差し置いて助手席から飛び出てきたのは制服姿のサブラージであった。まっすぐにルベルのもとまで駆け寄って彼の両腕を掴んだ。目じりを真っ赤にしたサブラージはルベルを前にして言葉を詰まらせ、口を開いても声は出ずに四苦八苦する。なんと言い出せばいいのかわからなかった。少しの後、ぐりぐりとルベルに自分の額をこすりつけたのだった。
「な、なんだ……? どうしたんだよ」
開口一番にかわいげのない言葉を投げかけるようなサブラージが何も言えずにいる。気味が悪いと不審に思ったルベルは見下ろしていた視線をベルデに投げかけた。ベルデもその様子に困っているようで、眉を下げたまま首を横に振った。
「私たちはガンマを追うが……」
サブラージをどうしたものかと紫音は肩を落とした。このままサブラージを引きずってガンマの跡を追うわけにはいかないだろう。それにガンマと因縁があるのはルベル、紫音、ベルデの三人だ。サブラージは関係ない。
「だ、だめ、地下は……」
言葉を詰まらせながらサブラージはルベルを掴む手に力を入れる。
「ルベル、お願いだからこのまま進まないで。行っちゃだめだよ」
「あ? それ、どういう意味だ?」
「えっと……、それは……」
「なんか変だぞ、サブラージ」
挙動不審な彼女に明らかな違和感を抱き、ルベルはサブラージを自分の体から引きはがした。うつむくサブラージはわずかに肩を小刻みに揺らしている。一体どうしたのか分からないルベルは中腰になってサブラージの顔をすくった。黒髪の隙間から見せる表情にルベルは目を見開く。サブラージは泣いていたのだ。ずいぶんと弱り切っているのか赤面した表情のなかに涙を浮かべ、強がりか泣くまいと口を一文字に絞めている。なぜサブラージがそんな表情をしているのか分からない。本当にわけがわからない。ただ、彼女の深い緑色の瞳――ルベルとそっくりな目――がルベルの視線とぶつかると、なぜか胸騒ぎがした。記憶の奈落に放り込んだ、少女の顔が、黄泉返りそうで――。
「行くなとは言うが、ガンマを追わないわけにはいかない。すまないがサブラージ、諦めてくれ」
紫音は言い残して先へ進むために足をすすめた。サブラージは紫音の背中を追おうとしたものの足がもつれて転んでしまう。
「あっ、おい」
ルベルがサブラージに手を差し出したが、彼女はその手を取らない。
「進んだら、後悔するかもしれない……。知らなければよかったって」
「……」
「知ってほしくない。このままでいてほしい。本当の姿を見られたくない」
サブラージは蹲って声を枯らした。震える彼女にベルデが優しく背中を撫でる。
「な――、何を知ってるんだ、サブラージ。何を知られたくないんだ……?」
ざわざわと騒ぐ。その正体は胸か、全身を流れる血液か、すみにしまい込んだ過去の記憶か。カタカタと震えそうになる全身をなんとかこらえ、ルベルは食い入るようにサブラージを見つめる。しかしサブラージは応えない。駄々をこねるように「行かないで」と言うばかりであった。
「どうする? 立ち止まるわけにはいかないぞ」
振り返った紫音が眼鏡をくい、と持ち上げてため息をついた。呆れているというよりは困惑しているようだ。
「悪い、サブラージ」
そう言うとベルデはサブラージを横抱きにすると、車の中に横たえた。ドアを閉めてからルベルと紫音に頷いた。優先順位はサブラージの駄々よりもガンマと北区マフィアの思惑だ。サブラージには悪いが、一行はガンマの追跡を続行することにした。
小屋の軽い扉を開くと、薄暗い空間が口を開けて待っていた。整理整頓されているようで小屋の中にはなにもない。唯一あるものが地下へ続く階段のみだ。手前には灯りなどなく、外から入り込む太陽の明かりだけが頼りだったが、階段の奥は電灯がともっているようで光があった。迷いなくルベルは飛び込んだ。
一段一段と降りるに従ってじっとりとした冷気がまとわりつく。首を撫でられているようで、言い知れない気味の悪さが湧き上がってきた。
「妙に静かだな」
「待ち構えてるかもしれないね」
「……ああ」
それぞれ警戒を怠らず階段を降りていくと、広がったのは真っ白な空間だった。目が痛くなるほど汚れ一つない白。床、壁、天井のすべてが白い。そしてただひたすらに無音が広がっている。ずっとこの場にいたら気が狂ってしまいそうだ。
「何が起きるか分からない。集まって行動した方がいいな」
紫音にルベルとベルデは賛成した。三人はまっすぐ伸びる廊下を進むことにする。そしてすぐにルベルの耳にこぽこぽと水の中に泡が溢れているような音が響いた。
「おい、なにか音が」
聞き返してからベルデと紫音も耳を澄ませる。二人にもルベルが聞こえた音が耳に入ったようで、三人は顔を見合わせた。三人は音のする方向へ足を進める。
一つの真っ白な扉、すぐ近くの壁にあるボタンを押せば扉は横にスライドして自動で開いた。
そして開いた世界が、一体何なのか、三人にはわからなかった。
円柱の水槽がたくさん並んでいる。柱のように床から天井まで伸びたそれがたくさん。円柱のその物体はいくつかの部屋に区切られている。そして円柱の中にはなにかが浮いている。部屋全体が暗いせいでその物陰がチューブに繋がれた人影であると気が付いたのは触れられるほど近くなってからだ。
その人影は、まるで胎内の赤子のように蹲っていた。どれもこれもが小さな子供の姿をしているものばかり。生気を感じさせない白く滑らかな肌が薄い光に照らされている。まるで彫刻の作品のようだった。そんなものが、ずらりと、ずらりと。終わりが見えないほど広い室内に規則正しく並んでいた。
「――うっ」
吐き気が押し寄せられて、ベルデは口元を抑えた。息が、思考が、血流が運動を忘れる。現実とは思えない、しかし夢にしては質の悪い光景を目の前にして声を失った。
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